はじめに
これまで2回にわたって、サイケデリック支援療法の世界的な規制・研究動向、そして「医薬品開発モデル」と「伝統的・儀式的モデル」という二つの潮流についてご紹介してきました。
これらは主に欧米——Compass Pathways社(英国)やLykos Therapeutics社(米国)——を中心とした動きでした。しかし今回は視点を変えて、日本の製薬企業がこの分野にどう関わっているのかについてお話ししたいと思います。
実は、日本を代表する製薬会社のひとつである大塚製薬が、この数年でサイケデリック関連企業への大型投資を続々と行っています。国内で臨床心理学に携わる者として、この動きは見過ごせません。
大塚製薬、PTSD新薬候補を持つ米企業を買収
2026年3月27日、大塚製薬は米国子会社を通じて、設立わずか5年のバイオベンチャーTranscend Therapeutics(トランセンド社)を完全子会社化すると発表しました。
買収規模は、確定支払額が7億ドル(約1,119億円)、さらに開発の進捗に応じた将来の売上マイルストンとして最大5.25億ドル(約839億円)が上乗せされる契約となっており、達成時の総額は最大で約1,958億円にのぼります。2026年度第2四半期の完了が予定されています。
トランセンド社が開発しているのはTSND-201というPTSD治療薬候補です。注目すべきは、これがシロシビンなど従来のサイケデリック化合物とは作用機序が異なる新規開発品である点です。大塚製薬はこれまでも精神・神経領域の薬剤を複数保有していますが、既存パイプラインとは異なるメカニズムを持つ薬を獲得することで、この領域でのポートフォリオをさらに拡充する狙いがあるとされています。
買収の背景には、アメリカにおけるPTSD患者数の多さと、既存治療の選択肢の乏しさがあります。現状、PTSDの治療選択肢は心理療法と抗うつ薬にほぼ限られており、効果と安全性が科学的に裏付けられた新しい治療法が強く求められている状況です。トランセンド社CEOのブレイク・マンデル氏も、「迅速に作用し、患者がアクセスしやすいPTSD治療を届けたい」という理念のもとで創業したと述べており、大塚製薬とはこの「患者への貢献」という理念を共有しているとコメントしています。
実は「2度目」の大型投資
興味深いことに、これは大塚製薬にとって初めてのサイケデリック関連企業への投資ではありません。
さかのぼること2023年9月、大塚製薬はマインドセット社を買収しています。同社が開発する「ファミリー6」は、幻覚作用を抑えた次世代の化合物とされ、サイケデリック特有の強い意識変容体験を伴わずに治療効果を得ることを目指す、いわゆる「非幻覚性サイケデリック」の開発を進めている企業です。
つまり大塚製薬は、幻覚作用を抑えた次世代化合物(マインドセット社)と作用機序の異なる新規PTSD治療薬(トランセンド社)という、異なるアプローチを持つ2社を相次いで傘下に収めていることになります。これは単発の投資ではなく、精神・神経領域における明確な戦略的布石と見てよさそうです。
慶應義塾大学との産学連携――「治療の届け方」まで見据えて
大塚製薬の動きで、私が臨床家として特に注目しているのが、2025年5月に発表された慶應義塾大学との共同研究契約です。
この共同研究の目的は、「精神展開剤の社会実装に向けた基盤整備」とされており、その研究項目は非常に多岐にわたります。
- 精神展開剤の開発方針の検討
- 治療マニュアルとガイドラインの策定
- 専門家育成プログラムの開発
- 法的・倫理的課題への対応
- 広報活動と公共啓発の展開
- 企業連携と知的財産戦略の推進
単に「薬を開発して承認を得る」だけでなく、「誰が」「どのように」その治療を提供するのかという、臨床実装の枠組みづくりまで視野に入れている点が重要です。
これまでの記事でも触れてきた通り、サイケデリック支援療法は薬理作用だけで完結するものではなく、準備(プレパレーション)・セッション中の同席・統合(インテグレーション)という心理的サポートのプロセス全体が治療効果に不可欠だと考えられています。「専門家育成プログラムの開発」という項目が明記されていることは、将来的にこの分野で心理職が関わる可能性を示唆しているといえるでしょう。
なぜ日本企業がこの分野に参入するのか
海外の議論を見ていると、この分野は長らく欧米のバイオベンチャーやスタートアップが主導してきました。そこに日本発(大塚製薬は徳島県が発祥)の大手製薬企業が積極的な投資を続けているのは、いくつかの点で示唆的です。
一つは、精神・神経領域における大塚製薬の既存の強みとの相乗効果です。大塚製薬はもともと中枢神経系の治療薬に強みを持つ企業であり、既存の研究開発基盤の上に、新しいモダリティ(治療手段)としてサイケデリックを位置づけようとしていると考えられます。
もう一つは、「治療選択肢の乏しさ」という国際的な課題への着目です。PTSDやうつ病は既存治療への反応が乏しい患者層が一定数存在し、そこに新たな選択肢を提供できることが、企業にとっても社会的意義の大きい投資領域と映っているのでしょう。
日本国内での実装は、まだ先の話
ここで改めて確認しておきたいのは、これらの動きが現時点で日本国内での臨床応用を意味するものではない、という点です。
トランセンド社のTSND-201もマインドセット社のファミリー6も、開発段階にある治療薬候補であり、日本での薬事承認にはまだ相応の時間がかかります。慶應義塾大学との共同研究も「非臨床研究(基盤整備)」の段階であり、実際の臨床試験や保険適用はさらに先の話です。
また、以前の記事でも触れた通り、日本では指定薬物・麻薬及び向精神薬取締法上の位置づけが変わらない限り、精神展開剤の臨床応用の目処は立っていません。今回ご紹介した大塚製薬の動きは、あくまで「将来に向けた布石」として理解するのが適切です。
臨床心理学に携わる立場から
とはいえ、これは決して「対岸の火事」ではありません。
もし将来、日本でも精神展開剤を用いた治療が臨床実装される時代が来るとすれば、そこには必ず心理職の専門的関与が求められます。慶應義塾大学との共同研究項目に「専門家育成プログラムの開発」が明記されていることは、その一端を示しています。
欧米の動向を見ても、心理士もサイケデリック支援療法を担当しながら治験など進められているようです。
私自身、EMDRを専門とするトラウマケアの実践者として、既存の心理療法技法とサイケデリック支援療法が理論的・実践的にどう接続しうるのかという問いに、強い関心を持っています。この点については、次回以降さらに掘り下げてみたいと思います。
おわりに
シロシビンやMDMAをめぐる欧米の規制動向、アヤワスカに代表される伝統的モデル、そして日本企業による戦略的投資——サイケデリック支援療法をめぐる世界は、いま多方向から急速に動いています。
大塚製薬の一連の動きは、この分野が「海外の一部の企業だけの話」ではなく、日本の製薬産業にとっても無視できない戦略領域になりつつあることを示しています。国内での臨床応用にはまだ時間がかかりますが、専門家として、今後もこの動向を注視し、皆さまにお伝えしていきたいと思います。