前回、Netflix『ラブ、デス&ロボット』の短編『Zima Blue(ジーマ・ブルー)』を、実存心理学・発達心理学・ナラティヴ心理学の三つの視点から考察してみました。
今回はそれに続けて、私が長年携わってきたホロニカル・アプローチ(ホロニカル心理学)の視点から、この作品を読み直してみたいと思います。既存の心理学の枠組みとはまた違った風景が見えてくるように思います。
<A点・B点・C点というシンプルなモデル>
ホロニカル・アプローチには、ABCモデルというシンプルな見立ての枠組みがあります。A点とは、自己と世界の不一致による自己違和的な体験のこと。B点とは、自己と世界が主客合一となって一致する「ホロニカル体験」のこと。そしてC点とは、そのA点とB点のどちらに対しても、批判も評価も解釈もせず、ただあるがままに照らし返しながら包み込む「俯瞰」のことです。
このモデルに沿ってジーマの物語を眺めてみると、彼の空虚は、自己と世界の不一致が累積した状態、つまりA点の肥大として読めるように思われます。ただし注目したいのは、彼が不一致の在処を「宇宙的な次元」に求めて、観察の対象をどこまでも拡大し続けていたという点です。
ホロニカル・アプローチでは、“こころ”の不一致を、個人的な次元から家族的・社会的・人類的・宇宙的な次元まで、多層多次元にわたるもの(関係性)と捉えます。ジーマの探索は、実は最も原初的な層――自分自身の出自――にあった不一致を、はるか遠い宇宙的な次元に探しに行ってしまっていた、いわば層を取り違えた探索だったと考えることができるかもしれません。
<青いタイルというフラクタル>
ホロニカル・アプローチのもう一つの鍵概念に、部分と全体が互いを包み込み合う「ホロニカル関係」、そしてそれが生み出す「フラクタル構造」というものがあります。ジーマの作品を思い返してみると、彼の壁画には必ず中央に「ジーマ・ブルー」と呼ばれる特定の青が置かれています。
この一枚のタイルの青という「部分」に、彼の起源という「全体」がすでに包摂されており、それが惑星規模の壁画という「全体」のすみずみにまで反復して立ち現れていたことになります。同一のモチーフがスケールを変えながら繰り返されるこの構造は、まさにフラクタルそのものだと感じます。ホロニカル・アプローチでは、最も小さな悪循環パターンの変容が、やがて全体の変容へとつながっていくと考えますが、ジーマの転回も、宇宙的な作品からではなく、たった一枚の青いタイルという最小の部分から起こったのでした。
<最後のパフォーマンスは、俯瞰の上演だった>
自らの起源を発見したことで、ジーマにはようやく「適切な観察主体による俯瞰」――つまりC点――が布置されたのだと思います。自分の遍歴の全体を、否定することなく、あるがままに照らし返せる位置に立てたからこそ、彼は解体という選択を、絶望ではなく引き受けとして行えたのではないでしょうか。
<B点への回帰、あるいは執着のゆくえ>
そして最後にタイルを磨くという行為への回帰は、観察主体と観察対象の区別が消えた主客合一の直接体験、つまりB点への回帰として読むことができます。西田幾多郎のいう「物となって考へ、物となって行ふ」無心の境地に近いものかもしれません。
ただし、ここでホロニカル・アプローチの立場からは、一つ留保をつけておきたいとも思います。ホロニカル・アプローチが目指すのは、A点とB点のあいだを行ったり来たりしながら、それをC点から俯瞰し続けられる自己の自己組織化であって、B点への永続的な没入そのものではありません。ジーマは高次の認知能力ごと観察主体を手放してしまうため、C点を保ったままB点に住まうというより、C点を手放してB点に恒久的に融け込む選択をしたようにも見えます。
人が生きるうえでは選びようのない道ですが、だからこそ、この物語はフィクションとしての強さを持っているようにも思います。