Netflixのアンソロジーアニメ『ラブ、デス&ロボット』の中に、『Zima Blue(ジーマ・ブルー)』という10分ほどの短編があります。宇宙的な名声を得た芸術家ジーマが、最後のインタビューで自らの正体を語り、公衆の前で解体していく――というだけの、静かで短い物語です。
宮台真司氏も大変興味深い考察をされています。
この作品には、実存心理学・発達心理学・ナラティヴ心理学という三つの心理学の視点を重ね合わせてみると、驚くほど豊かな読みが立ち上がってきます。もちろん、いろいろな視点からの見方があって面白いと思いますが、今回はそのことを、心理学的側面から少し丁寧に書いてみたいと思います。
<意味への意志と、その逆説>
ジーマの壁画は、作品を重ねるごとに惑星規模へと巨大化していきます。宇宙の真理を描こうとするその軌跡は、フランクル(V. Frankl)のいう「意味への意志」――人間を根本から動かしているのは快楽や権力ではなく、人生の意味を見出そうとする意志である、という考え方――の追求として読むことができるように思われます。
ところが、作品が大きくなればなるほど、ジーマの空虚さは深まっていきます。ここには、心理療法家のヤーロム(I. Yalom)が指摘した逆説が働いているのではないでしょうか。意味とは、直接追い求めれば求めるほどかえって遠ざかり、何かに没頭する行為の副産物としてしか得られない、というものです。ジーマの転回点は、意味を宇宙的スケールにではなく、「タイルを磨く」というごくシンプルかつ具体的な行為の中に見出したことにありました。抽象的な問い(意味とは何か)から、いま・ここで遂行される行為としての意味へと、彼は静かに降りてきたのだと思います。
<獲得ではなく、統合としての発達>
発達心理学は通常、機能の獲得や複雑化を発達の指標とします。しかしジーマの軌跡は、その逆をたどっています。エリクソン(E. Erikson)の理論に引きつけるならば、最後の場面は、人生最終段階の課題である「統合 対 絶望」における統合(integrity)――自分の来し方を「これでよかった」と引き受けること――の達成として読めるように思われます。逆に言えば、彼の長い遍歴は、自分の出自が統合されないまま拡張だけが続いた、いわばアイデンティティ拡散の期間だったのかもしれません。宇宙の真理を探していたつもりが、実は自分の出自を探していた、という構図です。
<自己物語の書き換えという営み>
もう一つ、ナラティヴ心理学の視点も付け加えておきたいと思います。マクアダムス(D. McAdams)は、自己とは過去・現在・未来をつなぐ「人生の物語」として構成されると考えました。ジーマは長らく、「人間から機械へと拡張された芸術家」という誤った自己物語を生きてきたことになります。真の起源の発見は、この物語の根本的な破綻であり、書き換え(再著述)を要求するものだったといえるでしょう。
興味深いのは、彼が新しい物語をただ語るだけでなく、最後のパフォーマンスとして公衆の前で「上演」したという点です。これは、ナラティヴ・セラピーでいう、外部の証人の前で新しい自己物語を公的に確立する儀式に近い機能を持っていたのではないかと考えられます。
<回帰は退行か、それとも統合か>
最後のシーンで、ジーマは高次の認知能力を手放し、単純な清掃ロボットとしてプールのタイルを磨き続けることを選びます。この「子ども時代への回帰」をどう見るかは、三つの枠組みの間でもっとも評価が分かれるところでしょう。単なる防衛的な退行ではなく、精神分析でいう「自我に奉仕する退行」、あるいは、いったん批判や反省を経たうえであらためて素朴なものに立ち返る「第二の素朴さ」に近いのではないか――私はそう考えています。遍歴なしにプールへ戻ることと、遍歴を経たうえでプールへ戻ることは、同じ行為には見えて、まったく違うもののように思われるのです。
その他、心理学の観点とは少しずれますが、これからフィジカルAIが発展することで、このジーマのように、もともとロボットだった物体が、やがては意識を持ち、人間のように振る舞うという時代がやってくるかもしれません。
次回は、この作品を、私が長年携わってきたホロニカル・アプローチの視点から読み直してみたいと思います。実存・発達・ナラティヴという既存の心理学の枠組みとはまた違った風景が見えてくるのではないかと思います。
