はじめに
精神分析、ユング・プロセス指向、人間性心理学、CBT、家族療法・システム論、ナラティブ・セラピーと見てきたこのシリーズ。今回はいよいよ、私自身の最も重要な臨床的専門領域でもあるEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)とトラウマ理論とホロニカル・アプローチの接合を探ります。
なお、トラウマやEMDRについては過去にこのブログでも紹介しましたので、一部重複もあると思います。
EMDRは現在、世界保健機関(WHO)がPTSDへの推奨治療法として認定した、エビデンスに基づく心理療法です。一方ホロニカル・アプローチは、トラウマを「ホロニカル関係の阻害」として独自に位置づけ、神経生物学的反応から多層多次元の文化・社会的文脈までを包括する統合的な理解を提示しています。
両者の対話は、私にとって単なる理論的探求を超えた、日々の臨床実践の核心に触れるものです。
EMDRとトラウマ理論の核心
フランシーヌ・シャピロの発見
EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing)は、1987年にアメリカの心理学者フランシーヌ・シャピロ(1948-2019)によって発見・開発されました。
公園を散歩中、不快な思考が眼球を左右に動かすことで軽減されることに気づいたシャピロは、この観察を体系的な治療法として発展させました。クライエントがトラウマ記憶を思い浮かべながら、治療者が指などを左右に動かすのを目で追う(あるいは左右交互の音・タッピングなどの両側性刺激を受ける)という独特の手続きにより、トラウマ記憶の情動的苦痛が低減し、適応的な認知と感情が促進されます。
EMDRの理論的基盤となるのが、シャピロが提唱したAIP(適応的情報処理)モデルです。脳には本来、体験を情動的に処理し適応的に統合する能力(適応的情報処理システム)が備わっています。トラウマ体験は、この処理が阻害された状態——生々しい感覚・感情・思考・身体感覚が「今・ここ」に侵入し続ける状態——として理解されます。EMDRはこの阻害を解除し、記憶を適応的に統合することを目指します。
ヴァン・デア・コークとトラウマの身体論
EMDRと密接に関連するトラウマ研究の金字塔が、精神科医ベッセル・ヴァン・デア・コークの「身体はトラウマを記録する(The Body Keeps the Score)」です。
ヴァン・デア・コークが示したのは、「トラウマは『思考する脳』(前頭前皮質)では忘れられても、身体と神経系に深く刻まれ続ける」という事実です。フラッシュバック・過覚醒・凍りつきなどのトラウマ反応は、過去の体験への意識的な記憶ではなく、神経生物学的な防衛反応として身体レベルで保存されています。
定森(2026)もヴァン・デア・コークを明示的に参照しながら、「心的外傷の回復には、身体的自己が実感できる安全な環境づくりや、体験を言語化すること、そして新たな人間関係を築くことが回復の鍵である」と述べています。
ポリヴェーガル理論との接合
近年のトラウマ治療に最も大きな影響を与えた理論のひとつが、スティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論(Polyvagal Theory)です。
ポリヴェーガル理論は、自律神経系を三つの階層的システムとして捉えます。
- 腹側迷走神経系:社会的関与システム。安全を感じるとき活性化し、つながり・学習・遊びが可能になる。
- 交感神経系:闘争逃走反応。脅威を感じるとき活性化し、動員・戦い・逃げることを可能にする。
- 背側迷走神経系:凍りつき・シャットダウン反応。命の危険を感じるとき活性化し、解離・麻痺・崩壊をもたらす。
本書は「被支援者が抱えるトラウマ反応は、腹側迷走神経・交感神経・背側迷走神経という三つの階層的システムとして捉える仮説であるポリヴェーガル理論(Porges, 2018)のように、脳や神経生物学的な防衛反応としての側面を持つ」と明記しています。
ポリヴェーガル理論が臨床実践に与えた最大の貢献は、「治療の場そのものが『安全』でなければ、トラウマの処理はできない」という認識です。支援関係において腹側迷走神経系が活性化される安全な「場」を整えることが、あらゆるトラウマ治療の前提条件となります。
ホロニカル・アプローチによるトラウマの理解
「ホロニカル関係の阻害」としてのトラウマ
ホロニカル心理学はトラウマを独自の概念で定義します。本書では「心的外傷とは、ある一つのホロニカル的存在が他の存在と関係を結べなくなったことにより、ホロニカル関係のネットワーク全体が自己照合を失っている状態」と述べています。
具体的に言えばこうです。幼少期の体罰体験に端を発する恐怖(陰のホロニカル的存在a)が、成長の過程でさまざまなホロニカル的存在(b, c, d……)へと連鎖し、最終的には対人関係全般の回避・自責・無力感・睡眠障害・うつ症状といった形で"こころ"の広範な構造に影響を及ぼしていく——これがトラウマのホロニカル的理解です。
EMDRのAIP(適応的情報処理)モデルが「トラウマ記憶は神経ネットワーク上で孤立・凍結した状態にある」と理解するのに対し、ホロニカル的理解では「ホロニカル関係のネットワーク全体が自己照合を失った状態」として理解されます。どちらも「孤立・凍結・ネットワークの分断」という構造を共有しながら、ホロニカル心理学はそれを個人の神経系レベルにとどめず、多層多次元の関係性ネットワーク全体として捉える点が独自性です。
「観察主体」の視野狭窄としてのトラウマ
ホロニカル・アプローチはトラウマをさらに「観察主体の視野狭窄」として理解します。
「観察主体が特定のホロニカル的存在に対して強い執着を示し、それ以外の存在を否認・抑圧・隔離してしまうと、多層多次元にわたる自己と世界のホロニカル関係の自己組織化が阻害される」——これはまさにトラウマの臨床的実態を表しています。
フラッシュバックで支配されているとき、クライエントの観察主体は「あの瞬間」に固着し、「今・ここ」に戻れなくなります。過覚醒状態では、わずかな刺激でも脅威として知覚され、安全な関係を築けなくなります。解離状態では、体験の断片が統合されず、自己の連続性が失われます。
これらはすべて、「観察主体の視野狭窄」による「ホロニカル関係のネットワークの自己照合の喪失」として理解できます。
「今・ここ」の時間論とトラウマ
ホロニカル心理学の時間論は、トラウマ理解において特に重要な視座を提供します。
本書は「過去のトラウマ体験が『今・ここ』においても繰り返されているかのような感覚を生み出すことがある。これは、意識が記憶を再構成する際に、過去の出来事を現在の文脈で再体験するからである」と述べています。
この理解はEMDRの臨床的実践と深く一致します。EMDRにおけるフラッシュバックの理解——「過去のトラウマ記憶が現在として体験される」——は、まさに「過去・現在・未来は直線的に分断されたものではなく、常に重層的に絡み合いながら今という一瞬に包摂される」というホロニカルの時間論と対応しています。
そして、ホロニカル・アプローチの支援の方向性は「支援者との対話を通じて『今・ここは、もう安全で安心できる場である』という新たな体験の実感・自覚を促すことで、過去の記憶を過去の記憶として『今・ここ』の体験から区別し、トラウマ体験そのものの意味が変容するのを促進していく」と述べています。
これはEMDRのフェーズ1・2(安全の確立・安定化)とフェーズ3〜6(記憶の処理・再固定)の流れと、構造的に深く共鳴しています。
EMDRとホロニカル・アプローチの接合点
フェーズ・ベースド・アプローチとの共鳴
現代のトラウマ治療の標準的な枠組みがフェーズ・ベースド・アプローチ(段階的治療)です。ジュディス・ハーマンが提唱し、EMDRでも採用されているこの枠組みは、以下の段階で構成されます。
フェーズ1:安全・安定化——安全な治療関係と環境を整え、感情調整スキルと内的安全基地を確立する。
フェーズ2:トラウマ記憶の処理——EMDRの標準的プロトコルによる記憶の脱感作と再処理。
フェーズ3:統合・再連結——処理された体験を現在の生活と統合し、新たな自己の物語を構築する。
このフェーズ構造は、ホロニカル・アプローチの変容の5段階(インテーク→外在化・可視化→共創的俯瞰→ホロニカル関係の創発→ホロニカル・ループの強化)と深く共鳴します。特に「安全・安定化」はホロニカルの「安全・安心な場の整備」と、「統合・再連結」は「自己組織化の促進とホロニカル・ループの強化」と対応します。
両側性刺激とホロニカル的な「左右の往還」
EMDRの核心的手続きである両側性刺激(Bilateral Stimulation)——眼球の左右運動、左右交互の音、タッピングなど——は、なぜ効果をもたらすのか、その神経科学的メカニズムはいまだ完全には解明されていません。
しかし、ホロニカル心理学の観点から興味深い解釈が可能です。
ホロニカル心理学では、「一瞬・一瞬の間(ま)に生じる微細なズレやせめぎ合いが"こころ"の動態を生み出す」と理解されます。両側性刺激による「左右の往還」は、固着した観察主体を「不一致→一致」の動的ゆらぎの中に引き込み、視野狭窄状態から俯瞰的立場へのシフトを促進するものとして理解できます。
また両側性刺激が促すREM睡眠との類似(夢処理仮説)は、ホロニカル心理学のユング・プロセス指向との接合——夢・身体・無意識の統合的処理——とも深く共鳴します。
「内的安全基地」とホロニカルの「安全な場の生成」
EMDRの準備段階で重要な技法のひとつが「内的安全基地(safe place)」の確立です。クライエントが安全・安心を感じる場所のイメージを心の中に育て、感情が高まったときにそこに戻れる力を養います。
これはホロニカル・アプローチの「被支援者が過去の外傷体験によって"こころ"が『今』に留まれなくなっている場合、支援者が『今・ここ』の安全と安心を共に体感することが、被支援者にとっての変容の契機となる」という視座と深く共鳴します。
ただし、EMDRが「クライエントの内部に安全基地を作る」ことを重視するのに対し、ホロニカル・アプローチは「支援者とクライエントが共に創る『場』の安全性」をより強調します。これは「共同研究的協働関係」——支援者も被支援者も共に変化する関係——というホロニカルの基本姿勢と一致しています。
「認知の再構成」とホロニカルの「観察主体の育成」
EMDRの処理プロセスでは、ネガティブな認知(NC:「私はダメだ」「世界は安全でない」)がポジティブな認知(PC:「私はやり遂げられる」「今は安全だ」)へと変容します。
ホロニカル・アプローチはこの変容を、単なる認知の内容の変化としてではなく、観察主体(A点)のあり方の変容として理解します。ネガティブな認知に固着した観察主体が、両側性刺激の往還とともに、「今・ここ」の安全を感じながら俯瞰的立場(C点)を回復する——この過程が、EMDRにおける処理のホロニカル的理解です。
トラウマ・インフォームド・ケアとホロニカル
「なぜそのような行動をするのか」から「何があったのか」へ
近年の支援現場で急速に普及しているのがトラウマ・インフォームド・ケア(Trauma-Informed Care: TIC)の視座です。
「この人は問題行動をしている(Why)」から「この人に何があったのか(What happened)」という問いの転換——これは支援のパラダイム全体を変える視座です。
定森(2026)の事例では、DV被害を受けた母親と反抗する息子の事例において、「易怒性を気質や人格の問題にせず、課題は『癇癪虫(かんしゃく虫)』として外在化」し、「親子ともトラウマ反応でスイッチ・オンし理性の制御を失う悪循環がある、というトラウマ・インフォームドな説明が鍵になる」と述べられています。
これはTICの精神とホロニカル・アプローチの外在化技法が見事に統合された実践例です。「問題のある人」ではなく「世代間連鎖とトラウマが交差する悪循環パターンの中にある人」というホロニカル的理解が、支援の方向性を根本から変えています。
神経生物学とホロニカル――「脳還元主義」の超克
ホロニカル心理学は、神経生物学・脳科学の知見を積極的に取り込みながら、同時に「脳還元主義」への警戒を保持します。
本書は「脳や神経生物学的活動は、身体、感情、社会的関係性、文化的文脈、さらには歴史的背景など、多様な要素が複雑に交錯するなかで成り立っている。脳の活動を理解するためには、脳を動かしている働きそのもの、すなわち"こころ"の側からも問い直す視座が重要になる」と明確に述べています。
EMDRはエビデンスに基づく治療法として神経科学的説明を重視しますが、その効果のメカニズムは神経生物学的説明だけには収まりません。クライエントと治療者の関係性・治療の場の安全性・文化的文脈・世代間トラウマの影響——これらの多層的要素が絡み合う中で、EMDRの治療的効果は生まれます。
ホロニカル・アプローチはこの「EMDRの効果の多層的理解」を可能にする統合的枠組みを提供します。
私の臨床実践から――EMDRとホロニカルの統合
カウンセリングの現場でEMDRとホロニカル・アプローチを統合的に実践する中で、私は次のような手順を大切にしています。
まず、ホロニカル的な見立てとして、クライエントの「ホロニカル関係のネットワーク」全体を俯瞰します。個人的無意識層にとどまらず、家族的無意識層(世代間連鎖)・社会文化的文脈を含む多層的な理解を行います。
次に、ポリヴェーガル理論を念頭に置いた安全・安定化の段階では、「今・ここ」の腹側迷走神経系の活性化を促す関係の「場」を共に整えます。これはホロニカルの「安全な場の生成」と完全に一致します。三点法でいうとB点の強化にあたります。
そしてEMDRによる記憶処理の段階では、両側性刺激を「観察主体が固着した視野狭窄から俯瞰的立場へシフトするプロセスの補助」として理解しながら実施します。処理の進行とともに、ネガティブな認知の変容を「観察主体のあり方の変容」として読み解きます。三点法でいうと、先のB点とA点を行ったり来たりすることで、新たなC点が創発されると考えます。
最後の統合・再連結の段階では、ホロニカル・アプローチの「自己組織化の促進」として、処理された体験が多層多次元のホロニカル関係のネットワーク全体へと再統合されるプロセスを丁寧に支援します。
おわりに
EMDRは「身体に刻まれたトラウマ記憶を、両側性刺激によって解凍し、適応的に再処理する」という明確なプロトコルと強力なエビデンスを持っています。ホロニカル・アプローチはそのプロセスを「ホロニカル関係のネットワークの自己照合の回復」として深く理解し、多層多次元の文脈の中に位置づけ直します。
「身体に刻まれた記憶」を解放するのは、神経生物学的プロセスだけではありません。「今・ここ」の安全な関係の場の中で、観察主体が視野狭窄を超えて俯瞰的立場を回復し、過去・現在・未来が重層的に包摂される「永遠の今」に触れるとき——そこにトラウマからの真の回復が生まれると、臨床家として私は感じています。
次回は東洋思想(仏教・禅・西田哲学)とホロニカル・アプローチの接合を探ります。いよいよこのシリーズの最終回、ホロニカル・アプローチ最大の独自性に迫ります。