先に書いておく。この内容は誰に宛てたものでもないので、勝手に受け取って勝手に察し勝手に逆上しないこと。


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深層心理と格闘している


言われていないことで病んではいけない

私への気遣いは私を責め立ててはいない

私の欲求や都合を尊重されることは罪悪ではない


言われていないことで病むな。

相手を勝手に悪者にするな。

自分を悪者にするな。


罪に酔うな。


言われていない責め句を察してはいけない。不当に従順であっては死ぬ。お前が自分を尊重することは罪ではない。


相手を過剰に尊重して従うことをしなくても、私は死なない。

オムライスprojectの2作品とも、配信終了しました。おかげさまで過去最高動員記録を、今公演でも更新しました。
そして私個人では助成金は一切申請していないにも関わらず、スタッフ代小屋代雑費は余裕で賄える黒字に。

「配信演劇」は、「映像作品」と何が違うのか。
映像の手法を用いて同時進行で進む表現は、演劇的であること。小劇場という小さなハコの時空間を、映像手法の利用で尚更自在に伸縮させ、観客の情緒をダイレクトに刺激できる現象が、演劇的であること。また、視線誘導の演出が生観劇より作為を持って行えることは都合がいい。

演劇公演を打つ上で、観客の快適さに忖度をするのが不快でたまらなかった。椅子は硬いと嫌、座席間が狭いと嫌、駅から道に迷って開演に遅れる、などなど。なら来なくて良い。と言いたいが、そう言っているとチケット代が回収できない。この現実が不快でならなかった。私はこの忖度から離脱する。

人と会わなくていい、でも作品の刺激は貰える、なんていいとこ取りじゃないか。周りの人間の携帯の音や光に悩まされず、おしゃべりババアに苛立たず、前の席の奴の頭部が邪魔にならず、演者と自分の一対一になれるのだぞ。ひょっとしてこれ、私の理想の演劇なのでは?怖がらずにやってみた甲斐がある。

これらの利点を生かして無観客の劇場から配信をすることで、私は大劇場でも小劇場でも難しいと足踏みをしていた演出の実現可能性を見出した。今後も目論見を続けたい。

「配信演劇は演劇足り得るか」の実験は成功。
どうもありがとうございました。

・演劇を愛してやまない人

・コロナ禍の時世でもポジティブに演劇を守りたい人

こんな人達は読まないでください。

 

 

まもなくステージプラスの配信演劇企画にオムプロは参加する。

 

私は舞台を見るときは圧倒的に生で見に行きたい派だ。

役者の息遣い、視線、気迫、声の圧。音の反響、飛び散る汗、役者の身体の匂い、芝居小屋に特有の年季の入った匂い。

五感から現場に集中することで、その物語の世界に真に浸ることができると思っているからだ。

身体に叩き込まれる一連のリアルが「演劇」という現象なのだ。よって、オンライン配信される演劇の中継は「芝居の記録映像」ではあるが「演劇」だと私は思わない。

 

自宅や出先でパソコンやスマホを使って気軽に見れることが主流になるのは、表現方法や興行的な意味では革命だ。これまでも演劇の配信媒体はあったし、DVDでも見ることは出来た。しかしそれらは「現象としての演劇」のおまけであったはずだ。

このおまけだったものは、時間が合わない、場所が遠い、そういう人に届けるための「ついで」だったのだ。

 

私は演劇を見に行くとき、当日体調が悪くなってギリギリまで行くか行かないか悩むことが多々あった。

いざ劇場にたどり着いて。口下手の私は終演後の見送りに出てきた役者や同席した知り合いにいらんことを口走ってしまったり、行き交う人間関係のしがらみに辟易したり、芝居そのものと向き合えずモヤモヤすることも多かった。

自宅でゆっくり配信映像を見れることは、心身の調子を整えて好きなタイミングで【芝居と自分だけの空間】を作り出すことができる。そういう意味では、この上なく良いものだ。

だけどそれは、オムライスprojectでやりたかったことではない。

お誘いくださったステージプラスの高木さんには申し訳ない話です。

 

劇場では感染対策に気を使って座席間のソーシャルディスタンスを設け、収容人数を減らす。

観客の連絡先と名前を控えさせる。

公民館の稽古場を借りると、大きな声を出すなと言われる。

同調圧力に中指を立てて好きにやったところで、見にくる人がどれだけいるか。

その中で続けられるほど裕福でも器用でもない。

商業演劇としての成功が全てはないが、一定数の観客に認知されることも私にとっては演劇の現象として大事な要素だ。

 

演劇は死んだ。

 

役者が思いのまま暴れ散らす権利。

それを気軽にふらっとやってきて覗き見る権利。

これらの権利が奪われる以上、私のやりたい演劇はもう無い。

私は「三密の演劇」がしたいのだ。

オムプロを含めた今決まっている案件を最後に、私はしばらく「演劇の人」を名乗るのはやめようと思う。少なくとも、パンデミックが収まるまでは。

 

それでも今、配信演劇をやってみること。

やってみないで否定したくなかったのだ。

何より、ものづくりをする自分がジッとしていられなかった。私はどこまでいっても「演劇の人」だから。

 

懲りずにそのうち何かしでかすと思う。

山本裕典案件のクラスターニュースについて母から電話があって、自分でもこんな怒り募ってたのかってほどブチギレてしまった。

シールドで演者の顔が見えないからとクレームが入り、外させたというスタッフも頭おかしいし、クレーム入れる奴も馬鹿だ。
企画が無事開催されるなら、皮肉抜きでめでたい。だからこそ、ファン自身が慎みを以って推しのテリトリー守らなくてどうすんねん。つーかな、シールド外させたやつも嬉々として面会行った奴も、感染したところで演劇のせいにすんなや。勝手にくたばれ。

大体はそいつらがウイルス持ち込んでると私は予想するが。

ホストクラブでやれという言説もなんか違和感。
夜の街での仕事が非難されるが、昼間の仕事に適応しない人間もいて。そんな受け皿となってもいる夜の世界にウイルス持ち込んでるのは誰だと思ってるんだ。

演劇のほとんどがお客様は神様商売となり、本編の価値もそこそこにお客の表面的な満足度を優先しがちにある風潮。それ自体が悪ではないのだが、一部の馬鹿がよりによって演劇という手段で起こしてしまったクラスターで、演劇を生きがいにしている人間の足を引っ張るのも腹が立つ。

そしてその事自体をTVで取り上げて、演劇自体を否定する大衆が発生するのも不快だ。

もー全部不快。このニュースマジで嫌い。

 

コーヒーでも飲んでちょっと落ち着こうかな、と気軽に思えることは良い。家賃が払えるかどうかの心配をせず、安心して眠れる事は大事だ。雨風を凌いで鍵をかけることができる住まいを確保して、だらけ過ぎず程よく仕事にやりがいを見出し、会いたいときに会いたい人に会いに行ける。
命の心配をしなくて良いのが当たり前であるに、越した事はない。それで正気を保っていられるならそうであるべきだ。

私はそれが当たり前の身ではない。
その事で悲しむことも、不安になることも、憤ることもあるし、全て終わりにしたいと、常日頃感じる。

そしてそうである事は、私が怠け者だからでも、賢くない訳でも、気合いが足りてないからでもない。みんなと同じができないし、そもそも、そうなる必要などないのだ。目的を果たすために必要な一定の責任を果たすだけで良い。
守るものが自分一人だからそうすることができるのもあるけれど。
生活が苦しくとも会いたい人には会いに行きたいし、その為に飢える事も辞さない。心に張りがないとうまく呼吸が取れないのだ。客観的に見ればただの散財癖のあるクズなんだろう。

それでも迷惑をかけながら生き残っている。
迷惑をかけず生きるなんて不可能だし、プライドを捨てれば意外となんとでもなる。命あっての物種であり、そこに芸術や、人との繋がりはなくてはならない。

私は欲張りでわがままなのだ。

今やそれを恥じる必要も感じなくなった。
安心して生存する事、命の危険も顧みず何かに心を投げうつ事。今日も今日とてご心配をおかけしております。
私は元気です。

ついでにプロフィールとかブログのレイアウトとかも整理しました。

今こんな感じの人間です。


【経歴】

◆2017年以前

・高校3年間、天理市で毎年7月~8月に開催される「こどもおぢばがえり」(KOG)のアトラクション「ピッキーステージ」にて前幕のゲームのお姉さん、着ぐるみキャスト、ダンサーなど日替わりで出演。(2009~2011年)
・大学1年~3年の夏に同じくKOGのアトラクション「おやさとシアター」に役者として出演。(2012~2014年)大学4年には「リトルマガジンワールド」にて照明オペレータ担当。(2015年)
・劇団虹創旅団さんで受付増員と効果音オペレータ経験あり。(2014年~2015年)
・大学1年~3年の11月に天理大学演劇部部員として学祭公演に出演。
  2012年11月4日『FLY BACK』
  2013年11月2日『夏の思い出~七夕に想い紡ぎて幾星霜~』
  2014年11月8日『中国の不思議な役人』(※脚本・演出も担当)
・第七回奈良演劇祭にてNTFプロデュース『きつねものがたり』出演(2015年5月31日)
・NPO法人大和絵巻実行委員会『蒼秋の宴~海に託した絆~』出演(2015年9月20日~21日)
・鯨椅子project#4『朝日楼のキリン』出演(2015年9月25日~26日)
・第八回奈良演劇祭にてコトバとカラダの研究所practice[1]『丘の上の人殺しの家』出演(2016年5月28日〜29日)
・おのこまちことのはリサイタルにて一人芝居『鮨屋の娘』などに出演(2016年6月5日)
・鯨椅子project #5『夜よ、あけるな。』出演(2016年10月1日〜10月2日)
・井上泰治監督作品『すもも』出演(2017年公開)

◆2017年

・演劇ユニット「オムライスproject」立ち上げ。朗読劇『MARIA』脚本・演出・出演(5月13日)
・(有)自己犠牲設立イベント「性」にてTEAM D「うか」として『甘露の孔』脚本・演出(6月3日〜6月4日)
・劇団小町座10周年企画「お、あるひとへ」にて『きつねものがたり』出演(7月22日)
・演劇実験室デラシネproject+01にて『愛ならどうだろうか』出演(8月5日〜6日、26日〜27日)
・夢歩行虚構団第82回公演『夜よ、あけるな。』出演(12月10日)

◆2018年

・大阪日本橋のLIVE&BAR太陽と月オープンマイクイベントにほぼ毎月短編朗読にて参加
・オムライスproject#2「追憶の独り遊戯」企画。一人芝居『愚鈍な芋虫の繭』『砂と硝子とあの世界』脚本・演出・出演(5月18日)
・阪本知プロデュース公演#1『舞台版ドグラ・マグラ』出演(5月25日〜27日)
・生駒聖天お彼岸万燈絵さんどう祭りアート企画HOUZANJI ART SQUAD Vol.2にて『まゆの糸』脚本・演出・出演(9月23日)
・オムライスproject#3『砂と卵』企画・脚本・出演(10月13日〜14日)
・Salon de palaphile9にてハナノビョウキにVoiceパフォーマーとして出演(11月4日)
・ツンとドラVol.1『S』出演(12月7日〜9日)

◆2019年

・餅つきGIG2019にてオムライスprojectふたり遊び#2朗読劇『鏡』脚本・演出・出演(1月13日)
・ハナノビョウキ単独公演『夜鷹#3』Voice&Performanceとして出演(1月26日)
・フルーチェGIG-HAL-にてオムライスprojectふたり遊び#3朗読劇『MARIA』脚本・演出・出演(4月6日)
・大竹野正典没後十周年企画公演 阪本知プロデュース公演#2『密会-Rebuild-』出演(5月17日〜19日)
・飯干未奈 舞道 二十五周年記念特別公演『曼珠沙華 遊女ノ夢〜吉原炎上』出演(6月1日〜2日)
・オムライスproject#4『ポワゾン』企画・脚本・演出・出演(6月21日〜22日)
・西心斎橋MAIDENリニューアルオープン記念イベントにてオムライスprojectふたり遊び#4朗読劇『MARIA』脚本・演出・出演(7月20日)
・Highsweet,bathroom.にてハナノビョウキ-20190804-にvoiceパフォーマンス出演(8月4日)
・つづくりちぐら#2『ぼっけえ、きょうてえ』にて照明オペ(9月14日)
・阪本知プロデュース公演#2.5『ハニカムストラクチャア』上演台本執筆、出演(10月4日〜6日)
・役者SINGER!!〜第二夜〜にてオムライスproject名義で出演(10月30日)
・ストロベリーソングオーケストラ研修入り。演劇公演第66劇『拝啓、R先生〜或ル匣ノ事件簿〜』出演(11月23日〜24日)

◆2020年

・同時代ギャラリー・光画社共催「死と生の巡礼」にて高田一樹氏撮影の全身白塗り・黒塗りの作品を出展。(1月7日〜12日)
・怪帰大作戦〜闇墜六道巡りにてストロベリーソングオーケストラ、大槻ケンヂと絶望苺楽団枠で出演(1月19日)
・天使弾道ミサイル監督作品「Cコードが弾かれへん。」に出演。Youtubeにて公開中。
・大衆プロレス松山座 旗揚げ五周年記念公演「雲は龍に舞い、風は松山に歌う」にてストロベリーソングオーケストラとして松山みゆき入場のパフォーマンスで出演。これを境にストロベリーソングオーケストラの研修を終了。(2月9日)

その他、ここには書ききれないほどの細々した出演や関連歴が山ほどあります。新型ウイルス禍の現在、独りで営む演劇ユニット「オムライスproject」主宰として脚本・戯曲等執筆、白塗りメイク・朗読のライブ配信に専念。
役者業としては9月26日〜27日に劇団めいろ第5回公演『白雪姫』を予定しているが、開催は不確実。

 

こうしてまとめてみていると、もう舞台歴は10年になるよう。

 

ここのブログでりょんくんりょんくん言ってた時の三浦涼介の年齢に越してしまって、言葉を失っている。
なんか前は、出来るだけ全ての人に公平に平等に接して行きたいって思ってたんだけど、私いちばんそういうの出来ない人間なんだよな。
なのに自分を善良な人間と勘違いして、不必要に八方美人になって、肝心の大切な人を大切にし切れず手から離れて行って、自分で自分の首を絞めてたのよ。

躊躇せず好きな人間に肩入れしたい。
依怙贔屓したい。

それが出来る人間の排他性に、迫害を感じたり羨んだり苦しめられて、今まで惨めになったりしたんだけど、そんな自分ももう自分で慰める必要が無くなってきたのよ。無論、その痛みを無闇に他人に慰めてもらおうと躍起にもならなくなった。自分の深層にある望みを認めてあげて、愛したい人を心置きなく依怙贔屓出来るように。その際の排他性には二面作用があって、他者への加害にもなれば自己肯定感にもなるんだよな。
自己肯定してやらん事には、大切なものを守れない。

この願望をきちんと満たしてやって、その先にやっと平等に博愛精神を持つことが出来るんじゃないかと思ってる。トラウマの解決が先よ、抑圧で悟りは開けん。
勘違いするなよ。善人ぶりたいだけのくせに。

他者への無意識の加害を怖れて、何が愛か。


無駄に盛れた写真も載せとく。
あ、あけましておめでとう。