【正木晃『性と呪殺の密教』】 | せのお・あまんの「斜塔からの眺め」

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幾夜幾冊、正木晃(1953~ )の『性と呪殺の密教』。元版は講談社から2002年に出たが、今ではちくま学芸文庫で読める。内容は古代チベットの高僧・ドルジェタク(11世紀頃)の伝記でドルジェタクはこれが本邦初紹介。


そのドルジェタクという高僧の肖像がこれ、坊さんとは思えない悪辣な顔つきだ。伝記によると180歳まで生きたというが、90歳は確実で100歳だったかもしれないという。チベットは今でも平均寿命の短い地域で、まして古代に100歳くらいまで生きたというなら、このくらい猛々しいのは当然だろう。

出版された2002年当時、ドルジェタクという人物の情報が本書しかなかった。少なくとも日本ではドルジェタクに関する情報は皆無に近くて、やっと年表に一行だけ「訳経官ドルジェタク」とあったのがすべてでWikipediaにもなかった。今はあるけど中身がほぼ本書をなぞっただけと見える。


ドルジェタクは、チベットではお経を新訳して仏教をアップデートし、各地に名刹を建てた高僧として尊敬されている、だがこの坊さんには裏の顔があった、それは仏教の修行と称して夜な夜な美女とまぐわい、仏教の呪術で敵対者を抹殺する、誠にトンデモナイ顔だった。


その邪僧?ドルジェタクはチベットとネパールの国境近くで生まれた。父母ともに呪術師で10歳になるといっぱしの使い手になっていたというから恐ろしい。そしてバローという当時最高の呪術師に弟子入りする。出来がよかったのか、バローはさらにインドの仏教大学に送り込み、ここでさらに学ぶ。ちなみに仏教大学は玄奘三蔵も学んだ由緒ある学校だ。


さて、呪術と最新の仏教を持って帰ったドルジェタクを待ち構えていたのが、チベット仏教界の守旧派だ、今もそうだが、古代チベットで仏教僧は最高の頭脳集団。そして仏教といえば密教。たちまち呪法合戦が始まった。その中でドルジェタクは、ヴァジュラバイバラの秘法による度脱法を駆使して、呪法合戦を勝ち上ってゆく。


その度脱だが、ヴァジュラバイラバという仏に祈って敵の命を奪う法だ。気をつけてほしいのだが、彼自身やその支持者は決して“殺した”とは言わない、悪人の魂を身体から抜いて阿閦如来の浄土に送ったんだ、と言う。でもこの世から消したのに変わりはないだろう、とこちらは思うのだが。


この所業は同時代でも非難の的だったらしいが、ドルジェタクの言い訳が奮っている、

⑴ 初めに攻撃を仕掛けたのは向こうであり自分は正当防衛だし、純粋に法力しか使っていない。

⑵ 彼らは現世では救いようのない悪人であり、法力で浄土に送られてむしろありがたいと思うべきだ。

⑶ そもそもこの世は幻であり、幻が幻を殺すのはそれこそ幻だ。

⑴はどちらが挑発したのか分からんし、⑵は終わり良ければすべて良しとでも言うのか、⑶に至っては事件そのものがないという理屈なのか。なおも食い下がる非難者をなんと法力で浄土送りにしたそうだ。


もう一つの問題が女犯だが、当時密教は過激化していて、男女の性交の絶頂で悟りが開ける、と公然と主張していた。なので密教行者は男女ペアで、せっせと修行に励んでいたのだ?ところが出家得度して仏僧になると、性交はもってのほかだ。ところがドルジェタクは修行のための性交を続けた。


80歳になって12歳の少女を寺に引っ張り込んだのがバレたときはさすがに暴動になり、あわやというところにまでなったが、これまた法力を出動させて群衆を追い払ったというから、民衆は法力に弱かった。


まだある、お金の問題だ。宗教者というのはスカンピンを自慢しながらも、やはり自分や弟子を養わなくてはならない。チベットの場合は度が過ぎて、かなり法外な布施を強要した。女房を妾に差し出して入信させた実話もある(現代にもあったね)。ドルジェタクはあまり強欲ではないが高額の謝礼をきっちり取ったらしい。


しかしチベットの名刹を数々創建したり、インドの仏教大学にも多額の付け届けをしたりで、お金はいくらあっても足りない状況だったように見えるが、他にも収入源があったのか。少なくとも公式の記録はない。


これは私の邪推だが、その資金源が度脱だったのでは。度脱の効験は絶大だがあまりたびたびやるものではない。しかし裏ルートで度脱を依頼されたことがあったのではないか、頼まれると「ではその悪人に慈悲を垂れてやりましょう」とか言って…。それで標的がポックリいっても、そこはそれ。


そうすると、例の80歳の時の暴動でみんながあっさりと手を引いたのも何となくわかる、これは裏でドルジェタクの恩恵を受けていた手前、旧悪の暴露に躊躇したからだ、一旦暴き出すとズルズルと罪人が現れて、うかつに処分したら社会が壊滅してしまう…。あくまで邪推です。


そんなこんなで、チベットという不安定な地で、ドルジェタクは長きにわたって高僧として君臨し続けた。最終的にチベットは仏教僧団が統治する国になったが、その種をまいたのはこの坊さんかもしれない、現在でもドルジェタクの訳したお経は通用しているという、それが最大の恩恵かもしれない。


ドルジェタクに言わせると、日本を脅かしたさるテロカルトなど、毒薬で無辜の民を殺すのが邪道の極み、自分は正当防衛で純粋に法力頼みだった、ということになる。当時のチベットでも坊主殺しは横行していて、有名な聖者ミラレパも最期は毒殺されたくらいだから。このテロカルトが度脱を知らないでよかった。


くどいようですが、「ドルジェタクの裏稼業」というのは筆者の邪推です、正木晃氏の本、その他チベット仏教の本などをいくらひっくり返しても、そんな話はありません。邪推を元にして、ドルジェタクは本当は…などと決して言わないでください。