大伯皇女の墓 | せのお・あまんの「斜塔からの眺め」

せのお・あまんの「斜塔からの眺め」

せのお・あまんが興味を示したことを何でも書いてます。主に考察と創作で、内容は文学、歴史、民俗が中心。科学も興味あり。全体に一知半解になりやすいですがそこはご勘弁を。

1998年に奈良県明日香村でキトラ古墳が発掘されたとき、その被葬者が何者かという詮索が当然のようになされた。極彩色の壁画を擁する古墳の被葬者が皇族か貴族の他にあろうはずはないのだが、いかなる人かというのはそれとはまた別だ。


被葬者は701年から702年までの物故者に絞られるということで、そうして挙げられたリストの中に、「大伯内親王」という名前があった。『万葉集』巻第二に現れる大伯皇女に違いない。だが大伯皇女の名はあっさりと消えてしまい、それから話題にも登らない。


池澤夏樹は2017年に小説『キトラ・ボックス』を発表したが、キトラ古墳の被葬者を時の右大臣・阿倍御主人と推定している。大伯皇女のことは少しも出てこない。これは著者の思惑があっただろうから言うことはないし、小説はたいそう面白かった。


その大伯皇女だが、大伯内親王が大宝元年の十二月十七日に薨じたという記事が『続日本紀』にある。

それが大伯皇女に関する最後の公式記録だ。だがそれ以前のことは分からない。


大伯皇女は伊勢の斎宮であったが、朱鳥元年、天武天皇の崩御と大津皇子の賜死の後に伊勢より帰還した記事が『日本書紀』にある。しかしそれを最後に一切何の記事もないままに『続日本紀』の薨去の記事に至る。薨去の後の葬儀に関する仔細や陵墓の場所も情報はまったくない。


大伯皇女は不幸だった、天武天皇の皇女でありながら、母の大田皇女は早くに亡くなり、頼るはずだった弟は謀叛人としてこの世を去った。持統天皇の治下ではただただ逼塞している他はなかっただろう。前斎宮でありながら身寄りとてなく、財産もほとんどなかったのではなかろうか。


草壁皇子の死や持統天皇の統治、文武天皇の即位は耳に入っていたはずだが、それらをどんな思いで見つめていたのか。大津皇子のことを密かに弔いながら一生を終えたようだ、大津皇子は二上山に葬られたそうだから、朝に夕に二上山を仰いでいたのだろう。斉明天皇六年の生まれで享年四十。


大伯皇女が生きていることを持統天皇はどう思っていたのだろうか。一人息子の皇太子・草壁皇子の地位を安泰たらしめるために大津皇子排除に踏み切ったのだろうが、その草壁皇子は即位することなくこの世を去る。持統天皇にとって大津皇子のことは忌わしい記憶でしかなかっただろう。


大伯皇女の訃報を聞いた持統天皇がどんな感慨を抱いたのかは分からないし、記録もない。太上天皇となっていた持統がこの世を去ったのは、大伯皇女の死からまる一年後の、大宝二年十二月二十二日だった。