俺は、ついに大王の前に立った。座っているのか?それとも立っているのか?定かではないが、途轍もなく大きい上に、顔は剛毛に覆われていて、その中の爛ランと光る眼玉から凝視されると、たちまち不自由さを感じざるを得なかった。まるで、俺の身体は丁度ピッタリの枠にはめられ、辺りを見回す等の動きは出来なくなっていたし、俺の小さな魂は途轍もなく大きい手の中にあり、裁断が下される迄は大王の眼光を受け続けなければならない事を悟った。                            「二百年振りだな」「エッ・二百年振り?」俺は二百年もの昔に此処に来たと言うのか?二百年前と言えば、江戸時代の終りに近い頃だな、そんな時代に俺は一体何をしていたんだ?士農工商の中の武士なのか?それとも農民か?・・「思い出せんのか?」大王の口が開いた訳ではないのだが、俺の身体を圧する振動と共に一切の抵抗や反発は許さぬと言う威圧感が含まれていた。これが大王の力なのか?それとも、わずかなウソさえつくなとの警告なのか?あるいは、この世界の絶対的権力者の成せる業なのか?俺が震えながらも返答に窮していると素早い命令が下された。「集中しろ!」俺は瞼を閉じ、言われた通りに全神経を集中してみると、次第に白黒の映像がおぼつか無げに浮かんで来た。さほど大きくもない川の岸辺には等間隔に柳が植えてあり、道側には料亭らしき家屋が並んでいる。時間的には、影の長さから言って三時くらいのものだろう?料亭であれば、そろそろ夜の仕込みに取り掛かろうかと言う頃合いか?一人の若者がサッと通りから家の間の小径に身を入れると、素早く辺りを伺いながら裏木戸らしき戸を叩いた。「お絹ちゃん・お絹ちゃん、俺だよ」すると、広い台所の片隅にある流しの上で野菜らしき物を洗っていた小娘が声を聞きつけたのだろう、動きが止まったと思うと、ついと立ち上がり急いで前掛けで手を拭った。小娘は立ち止まったまま奥座敷の方を伺うと、安心したものか嬉しそうな笑顔で裏木戸に近付くと、ソッと戸を引き「弥吉さん」と、小さく名前を呼ぶと、弥吉の身体を中へと引きいれた。「お絹ちゃん、今日も綺麗だよ、かんざしも似合ってるしね」器量よしの娘は少しホホを赤らめながら「私もお気に入りのかんざしなの、有難う・弥吉さん」「礼だなんて水臭いじゃないか、それよりも見て欲しい物があるんだ」弥吉はかなりの大きさの袋を懐からから取り出すと、お絹の両手の上に載せてやった。「マア・重い!こんな大金、よく集めたわね」「そう思うだろう・お絹ちゃん、親戚筋は全て回って集めたんだぜ、苦労なんてもんじゃなかったよ、何度も何度も頭を下げたんだからね」弥吉は、あまりの大金を手にして動けない小娘に対し、更に言葉を続けた。「お絹ちゃん・俺と一緒に上方へ行ってくれるんだろう?「ええ、一緒に行きます。私・最初は弥吉さんの冗談とばかりに思ってたんだけど、本気だったんだって事がわかったわ」「嬉しいよ、大好きなお絹ちゃんと一緒に商いが出来るなんて!」 その後も、しばらく話し込んでいた二人だったが、やがて弥吉は「じゃ―、待ってるから」の言葉を残すと裏木戸を閉め、大通りへと曲がって行った。
翌々日の朝早く、朝もやの立ち込める橋の欄干に弥吉の姿が見える。そこへ、旅装束に身を固めた器量よしの娘が近付いて来た。「弥吉さん、待たせたかしら?」「いいや、俺もさっき着いたばかりさ、そんな事より薄暗い中の旅立ちだったから何かと大変だったろう」「ううん・身軽な私の事だもの用意は簡単だったわ、それよりも弥吉さん、暗い内に立ちましょうよ、知った人と顔を合わしたくないんですもの」「そうだね、俺だってそうだよ、先ずは品川宿まで急ぐとしよう」急ぎ足の二人は殆ど歩きづくめで、夕暮れの中、一つの宿場町にたどり着いていた。二人は両脇に連なる旅籠を見回しながら決めかねているようだ。「お絹ちゃん・疲れたろう、本当はお絹ちゃんの為に一部屋取ってあげたいんだけど、商い用の金には手を付けたくないんだ、大事な元手だからね、相部屋でも構わないよね。上方に着けばお絹ちゃんの金でもあるんだからね」娘は、商いに掛ける弥吉の意気込みと自分に対する優しさを感じたのだろうか?ニッコリとほほ笑むと弥吉を見つめながら「私・構わないわ」と、快く承諾したのだった。
今日が三日目なのか、それとも四日目なのか?分からないものの、昼にはまだ少々の時間がありそうな頃合いだろう。二人の着物はホコリにまみれていて急ぎ旅だった事が伺える。弥吉は「少し早いんだけど、俺・腹ペコなんだよ」と言い訳を言いながら、一軒の蕎麦屋に娘をいざなった。すると間もなく、堅気には見えない二人連れの男が大きな暖簾を勢いよく払った。「お絹ちゃん、今まで急ぐばかりで満足な食事もしてこなかったから、今日は腹一杯食べてもいいよ」「私・大丈夫よ、お蕎麦だけで十分!元手に手は付けられないわ」「お絹ちゃん・身体も大事な元手だよ、向こうに着いたら身体を壊したなんて事にならないようにしないと、それこそ、元も子も無くなってしまうだろう。そうだ!今日は早めに宿に入って、着物を綺麗にしてもらおう」「マア・嬉しい!弥吉さんて優しい上に思いやりもあるのね、私・いい女将さんになれるように頑張るわね」「有難う、じゃあ蕎麦と握り飯で足りるかい?」「実を言うとね、私も腹ペコだったのよ、握り飯がこんなに美味しいなんて初めて知ったわ」先に食事を済ませた弥吉は一声掛けると厠へと向かった。間をおいて帰って来ると、娘は満足感の漂う表情で少し反り気味に椅子に座っていた。真向かいに座ろうとする弥吉に「おいしかったわ!今晩は何も欲しくない位よ」「満足してくれて俺も嬉しいよ、ところでお絹ちゃん、次の宿場迄は少し遠いから、しっかりと用を足しておいてくれないか?」「ええ、この御茶を飲み干したら用を足して来ます、しっかりとね」”しっかり”を茶目っ気たっぷりの言葉で返すと、白く美しい歯を見せながら厠へと向かった。   すると,娘の姿が見えなくなった途端に、店の端に陣取っていた二人が素早く弥吉の傍に立った。「オイ・弥吉、とんでもねえ上玉じゃね―か」「そうだろう、連れ出すのに手間暇かかったんだぜ、此奴には少々弾んでもらわねえとやってられねえよ」「分かってると言いてえんだがな、ホレ・代金だ受け取れ」別の男が懐から銭入れを取り出すと紙に包まれたものを手渡した。手にした弥吉は立ち上がりながら重さを推し量る仕草をすると少し語気を荒げた「オイ・大八!こりゃあ前と同じじゃねえか?」「弥吉・マア・マアそう怒るな、家の親分が金を出す訳ねえだろ」「畜生め!どこの元締めもケチ臭えのは同じだな」弥吉は目を剥いたまま厠の方に目をやると手にした紙包みを懐に押し込みながら暖簾を払い、急ぎ足で出て行った。間もなくすると、突然つんざくような悲鳴が聞こえて来た。「キャアア・助けてえ!弥吉さ―ん・弥吉さ―ん!止めてえ―!」 「この声だけは聞きたくねえんだ、畜生!気が滅入ってしまうぜ」やがて、声の届かぬ所まで来ると弥吉は振り返り、小さく呟いた「勘弁してくんな、お前ほどの器量なら身請けも思うままだろうよ、料理屋の賄いにいたって仕様がねえだろう。マア・今日は旨い酒とアンマでも取って骨休みをするか」