先日ある手続きで写真が必要になり、妻にデジカメで何枚か撮ってもらった。しかしカメラの

画面に映し出されたその顔は、何とも締まりのない老けたもので気に入らなかった。

「良く撮れているのに……」と、妻は不満顔だ。しかし、何となく違和感を覚えた。俺の顔はこんなんじゃないと思った。結局は7年前に撮った写真を引っ張り出して書類に貼った。

 毎朝顔を洗う時には鏡で自分の顔を見ている。写真で見るほどに老けたとは感じないのにおかしいなと思った。老眼鏡をかけてあらためて鏡の前に立つと、それまで見えなかったものがはっきりと見えてきた。眉間や額に刻まれた夥しい皺、頬や喉元の弛み、顔面に散在するシミなど。多少はあるなとは思っていたが、これほどまでに増えていたとは……。現実を突きつけられて愕然とした。

 

 翌日、通勤で地下鉄に乗った。いつものことながら朝の混雑時には座れない。昨日のことがあったから、吊革に手を掛けながらふと窓ガラスを見ると、気難しい顔をした初老の顔があった。暗がりの中の顔に皺や弛みは見えない。しかしその仏頂面が気になった。俺は、普段こんな顔をして仕事をしているのだろうかと驚いて、少し笑顔を作ってみた。しかし窓ガラスの顔は多少崩れたものの、笑い顔とは程遠い相変わらずの渋い顔だ。

 意外に思って、今度は少し大げさに笑みを作ってみた。漸く笑顔だなと認識できる。これほどまでに大げさに笑みを作らないと、他人から見て笑顔に見えないのかとショックを覚えた。ふと視線を横に移すと、窓ガラスに映る隣の客がいぶかし気な顔で私を見ていた。私は、慌てて元の気難しい顔に戻した。

 

 昨年日本で開催されたラグビーワールドカップでの日本代表の活躍に、誰もが熱狂した。その選手たちの中に「笑わない男」として注目されたラガーマンがいた。テレビのインタビューで「笑いませんね」と聞かれると、「笑っていますよ」と言う。本人は笑っているつもりなのだろうか。それが、顔の表面に笑いの形となって上手く表れないのかもしれない。

 自分の顔を考えても、笑顔というのは腹の底から大きく笑わないと、本当の笑顔にはなれないんだなと思う。歳を重ねれば重ねるほどに、顔の筋肉が強張って表情を作りにくい。ましてや再来年には古希を迎えようとする我が身としては尚更だ。これからは、意識してはっきりと他人にも分かる笑顔を作らねばならないと自戒した。

 

 顔と言えば、昔「男の顔は履歴書」という言葉が流行った。歳を重ねた男の顔には、それまで歩んだ人生の数々の喜怒哀楽が刻み込まれている。その表情からその人の人生が見て取れる……ということだろうか。だから若い人はこれからの人生に責任をもって生きていかなければならないという教訓も込められているのだろう。

 この歳になってはもう自分の顔をどうすることもできないが、少しはましな履歴書になっているだろうか。気になって妻に聞いてみた。妻はまじまじと私の顔を眺めてから、「まぁ……、それなりに」と言ってけたけたと笑った。

「なんだ、それなりに……とは」少し腹が立った。

「今度は俺が見てやる」と、妻をあらためて見ると、何とものほほんとした幸せそうな丸い顔があった。

 俺は、この顔に騙されて長い間几帳面に給料袋を差し出してきたのか……。

「女の顔は請求書」という、もうひとつの言葉を思い出して苦笑せざるを得なかった。

                                                              (コロナ禍前のエッセイ)