『 母を導けて 』 | だっこるうむ(癒しの子育てネットワーク北海道)のブログ

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『 母を導けて 』

 

今年、年明けての最初の講座(地方交流学習)で、自分の中にまだ自分を許していない部分があるのが浮彫になりました。過去のこの事実がある限り、許せるはずがない、許しちゃいけない位の思いがありました。


    次の1月末の天心の講座で、私が「導く」のが苦手だという話をしました。その訳は、母との関係性の中で培った”人の自由を妨げてはいけない”という信念があるからで、もう手放してもいい筈なのだけどいまだにその信念が外せないでいるという話をしました。(実際には、それだけではなかったのですが・・・)

   すると「母を導くというのをイメージでしてみたらどうでしょう」という提案をいただき、講座が終わってからやってみました。


    心象風景の中での話です。

   かつて飲み込まれてしまいそうで恐ろしくて近づけなかった母でしたが、今は私よりもはるかに小柄になっていましたし、私の中に「安心」が築かれたからでしょう。容易に近づけて、右手で身体を支え、左手で母の手を取り歩み出せました。

   そして二股に分かれた道の右側の道、「見える世界から見えない世界を大事にする道へ、比較して優劣を競う世界から、自分の中にしあわせを見つけていく世界へ」と導くというイメージで、一緒に歩みました。その部屋の行き止まりまで進んで、そこで抱き合いました。(自分で自分を抱くような感じでしたが・・・)


   そしたら翌朝、ふと小さい時におねしょをした私を、母の布団に中にいれてくれたことを思い出しました。冷たくなった私の足を母の太ももの間に入れて温めてくれようとしたのですが、重くて痛くて足を抜きたいのに抜けなくて困ったという思い出なのですが(笑)。あの痛かった思いがあるからこそ思い出せたのかもしれないと思うと、本当に有難いことだと思います。

   そして母は、母なりの愛し方だったけれど、私を愛してくれていたのだと思えました。


    その次の翌朝、私自身も、子どもたちのことを愛していたことは間違いないと思えました。当時は、自分の心さえ見ていなかったので、子どもの心を感じたり思いやったりは全然できていなかったけれど、(だから子どもたちがどう受け取っているかはまた別の話ですが)、私は間違いなく愛していたと思えました。
    そう思えたら、自分を許してもいいのかなとも少し思えました。あきらめずに自分育てを歩み続けてきたら、いつかはここまで来れるんだなぁと感動しています。これまで出会ってくださった多くの皆様に感謝です。

 

  その後の母は、ほとんど寝てるばかりでしたが、8月1日にお迎えがきてあちらの世界に逝きました。私はまだ温かい母の身体を抱いて、最期にそのぬくもりをいっぱい感じました。