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ツナの部屋

わたしの「関心事」です。情報交換したいです。

本日7月13日。明菜、誕生日おめでとう!

 

上記ブログ(↑)の続き

 

写真にうつる二人の少女。ポーズを決めた、いかにもアメリカ娘といった感じのシンディと長い髪を三つ編みにした、いかにも日本の少女といった明菜。しかしながら、どちらも一本芯が通った、心の強さを感じるのは、けっして気のせいではないはず。

少女時代のシンディ・ローパー(左)と中森明菜(右)

 

シンディ・ローパーは、12歳の時から周囲に向けて自分自身を表現するために髪を染めた。日本では昭和の時代、髪の毛を茶色に染めただけで不良のレッテルが張られていたが、それは昔のアメリカでも同じで、シンディが少女期を過ごした1970年代で髪の毛を染めた少女はごく僅かだったと思われる。

 

シンディは非行少女でも目立ちたがり屋の活発な子でもなく、周りの子とはちょっと変わっているために、いじめられっ子だった。5歳のときに両親が離婚し、寄宿学校ではしつけの名目で体罰を受け続け、学業不振で退学した。奇抜なファッションのために、街なかで心無い者から石を投げつけられたこともあったが、自己表現をやめることはなかった。

 

そうした強い信念の持ち主であるシンディを物語るエピソードが、日本で出演したテレビ映像に残されている。1996年の秋、シンディがアルバム発売にともなうライブ・ツアーで来日し、その宣伝も兼ねてテレビ朝日の夜のニュース情報番組「ニュース・ステーション」にゲストで出演した。スタジオでの生歌唱がメインだったが、その日は10代女性についての話題が特集に組まれてあり、ニュースキャスターたちと一緒にその映像を観ながらトークをする内容が含まれていた。

 

その特集では、この年の社会現象として騒がれた茶髪の少女たちによるドラッグや援助交際の問題、また、新語・流行語に選ばれた「ルーズソックス(ソックスの留め口にゴムを用いず、のりで素足に貼りつけたり、何もしないでだらしなく履くタイプの靴下)」の身なりをした女子高生たちを取材し、紹介していた。

 

番組スタッフ側は、おそらく、シンディが伝統や礼節を重んじる日本という国で起きている少女たちの風紀の乱れを知り、どう反応するのかに興味をもったのだろう。そして、映像が流れたのちキャスターの久米宏は「いまご覧頂いたのが日本の女子高生をなんですが、どう思いますか?」と、シンディに訊いた。

テレビ朝日 ニュース・ステーション 1996

 

久米の質問に対して、シンディは、率直な想いをこう述べた。

髪を染めているからといって、援助交際しているとは思わないわ。私は12才の時から髪の毛を染めていた。だからとって言って悪いことしていたわけではない。若い子は自分を表現したいだけで、とっても良い事よ。その若い子達が自分を表現しているのを大人達は怖いから思わず、そうやってメディアの人達は扱ってしまう。それから、中年のスケベおやじたちが彼女たちにファンタシーを抱いて、夢見ているのは分かるけど、あの子達がその犠牲になっているようには見えない。別に、高いものなんか買わなくとも、とにかく自分を表現するべきで、お金が無いならば工夫をして自分なりの表現をしたらいい

しかし、久米は反論した。「自分を表現するというのはわかるけれど、問題は、髪を染めて、マフラーとかルーズソックスとか、彼女たちはみんな同じ格好をするところで・・・」と。シンディはこう答えた。

“あのソックスはすごくカッコいいわ。(共演するキャスターやスタッフの驚き・どよめき)もしかしたら女子高生たちは自分たちの着せられている制服に反発して同じような格好をして「自分たちの制服」をつくっているのかしら。ともかく、あの(ルーズ)ソックスはカッコいい!”

まさかルーズソックス現象が称賛されるとは!共演者は、シンディが発する予想外のコメントにびっくりした様子だった。もしかしたらルーズソックスが制服に象徴される管理教育への抗議なのかもしれないという発想は面白いし、自分が特別な存在でありたいという自我に目覚めながらも集団からひとりはみ出した行動が恐くてできない少女たちの深層心理があるのかもしれない。「ともかく、あの(ルーズ)ソックスはカッコいい」という言葉には、自分の感性に従って突き進んできたシンディらしいコメントである。

 

同調圧力の強い日本で、とりわけ学校に通う子供たちにとって、一人だけ周りと違う格好をすることにはかなりの勇気がいる。今でこそ、さまざまな色のバリエーションがあるランドセルは、昭和の時代、校則があるわけでもなく、男子は黒色、女子を赤色であることが当たり前となっていた。

 

2020年に、50代の人々に向けておこなわれたアンケート調査では、黒・赤以外のランドセルを持っていたと答えたのは、98人中たったひとりという結果である。

 

中森明菜は、幼いながらに自分なりの感性をもち、それを貫こうとした。こげ茶色のランドセルを欲しがったのである。

“お母ちゃんは最初みんなと同じ赤いランドセルを買ってくれようとしたんだけど、私はどうしても赤じゃイヤだったの。子供のころから原色ってあまり好きじゃなかったのね。以前にこげ茶色のランドセルをどこかで見て、いいなあと思ったの。それで、わたしが買ってもらうときはこげ茶色だ!って。”

中森明菜「本気だよ 菜の詩17歳」小学館 1983 p.62

“私は赤いランドセルなんかいらない、茶色いのが欲しいといってきかなくてね” かつて、雑誌のインタビューで、明菜の母親も当時のことををそのように述懐した。そして、彼女は家計が苦しいことも顧みず、東京じゅうのデパートを探し回り、ついに浅草にある革専門の問屋で見つけた特別製のものを買い与えた。

 

このエピソードについて、明菜への長期取材をまとめた書籍「中森明菜 心の履歴書 不器用だから、いつもひとりぼっち」には、「子供時代、多くの子供たちがほかの子供と同じ格好や物を持つことを望む時に、わずか6歳にして、ほかと同じであることを拒み、自分が美しいと思ったものに対して執着を見せる。このあたりに中森明菜の非凡さを垣間見ることができる(p.71)」と指摘されている。

 

また、明菜は服装に関しても、流行りのものに飛びつくのではなく、自分の感性で自分に似合うものを探す習慣をもっていた。小学生の高学年で大人っぽい黒系の服を好んで着るようになり、まわりの友達からも皆と違っていると言われたと、自著「気になる視線 私をつかまえて」で語っている。

 

明菜は、アイドルとしてデビューしたのちも、自分の感性に従って自分が良い・美しいと思うものがあれば、どうどうと自分の意見を述べ、そのために周囲とスタッフとの軋轢が多かった。また、この年齢の女性はグループ内での交流を好み、仲間意識が強いことで知られるが、明菜は同期の中で数人の親しかった子はいたものの、グループ行動を嫌い、個であることを望むが故に、周囲からはバリアを貼っているようにも思われていた。

 

自分を押さえつけて無理に周りと同化しない姿勢は、明菜の次の言葉からも感じられる。

私の事を、 ナマイキだとか、ツッパリだとかいう人がいます。人間は、顔や姿がちがうように、考え方もやはり人それぞれです。だから、人がどのように私のことをいっても、気にしません。(中略)

でも、 やっぱり少しはつっぱってるかな? 人の敷いたレールを、なんのためらいもなく走るのはちょっと抵抗がありますね。 自分で納得しないと、ダメなのです。 単に 大っきな 流れに 身をまかせのは 簡単ですけど、 その流れを止めて、 自分なりの流れを作ること! 大事だと思います。

中森明菜「気になる視線 私をつかまえて」1982 あとがき

 

シンディ・ローパーと中森明菜は、いっぽうで心の傷つきやすい繊細な面をもちながら、同調圧力に屈することを拒む強い女性である。自分の感性を大切にし、信念を貫こうとする意志をもっている。それは、もともとの気質や性格であるとともに、敬愛する母親からの影響が大きい。

 

シンディの母親は、認知症を患いながら今年6月に91歳で他界した。シンディは母親の教えについて、このように述べている。

「きょうだいと私は幼い頃からこう言われていたの。愛している人を守りなさい。正しいと信じることのため立ち上がるのよって。」
「そのおかげでより良い人間になれた。だからその教えに感謝しているの。」
Techinsight 2016.7.30 

明菜は、母親からの教えについて次のように語っている。

型にはまらない生き方が今できるのはお母ちゃんのおかげだって思ってる。好きなようにやりなさいって言われてたから。ただね、そんなお母ちゃんが、ひとつだけくどいくらい言ってたことがあるの。それは自分が一生懸命考えて、こうだと思ったこと、正しいと思ったことは、絶対貫きなさいと。誰になんと言われようと、相手がどんなに偉いひとだろうと、信じたことは言いなさいって

中森明菜 心の履歴書 不器用だから、いつもひとりぼっちp.82

シンディと明菜は、ただ才能に恵まれただけではない。シンディは「シンガーではなくアーティストになること」、明菜は「歌手“中森明菜”をつくること」という意思をもち、自分の力を信頼することができたからこそ、自己プロデュースによって成功することができた。そのために必要不可欠となる、周囲からの同調圧力に負けない自立心は、彼女たちの少女時代から芽生えていた。しかしながら、それを支えていたのは、ふたりのことを深く愛していた母親からの教えであったことは間違いない。