こんにちは、ふじおです。

神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、2016年7月、利用者ら19人を殺害し、26人を負傷させた――いわゆる「相模原障害者施設殺傷事件」。

3月16日、殺人罪などに問われた元職員に対して、横浜地裁の裁判員裁判は求刑通り死刑を言い渡しました。

無抵抗な障害者を狙った痛ましい殺人事件。

私たちはこの事件をどう受け止めれば良いのでしょうか?

凄惨なこの事件に対して、当時の被告には責任能力があり、更生の可能性もなく、極刑は当然だという意見が多くありました。

しかしその一方で、ネット上では、被告の犯行動機と思われる「生産性の無い障害者はいなくなれば良い」という優生思想に同調する声もあると言います。

「生産性が無い」「価値を生み出さい」という理由から、役に立たない不要な人間は排除しても良いという優生思想や、有能な選ばれた人間だけいれば良いという選民思想は、いまだ日本社会の奥底に流れているのかもしれません。

 

果たして生産性の無い障害者には価値が無いのでしょうか?

障害者にはその生活を支えるために様々な社会的支援があります。そのために多くの予算が投入されています。その一面から見れば―語弊を恐れずに言えば―確かに“社会のお荷物”と思えるかもしれません。

しかしその本人は望んで障害を持って生まれたのでしょうか。不幸にして障害を被ってしまったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

障害を持つことを自ら望む人はいません。親も同様です。

もし健常なあなたが障害を持ってしまっても、障害者に対して社会的支援は必要ないと言えるでしょうか。

障害者も健常者も、命の価値は等価です。公正に基本的人権も有しています。生きる権利があります

国民の最低限の生活を保障することは、国としての義務です。

人によって出来ること出来ないこと、得意なこと苦手なこと、能力は様々です。

障害があることで、出来ることに制限がかかってしまうことは確かです。

出来ない人がいれば、出来る人が助けてあげれば良いのではないでしょうか?

かつては共同体の中に「結(ゆい)」と呼ばれる互助機能がありました。

(例えば、合掌造りの屋根の葺き替えを住民総出でやったり、葬式は近所の人が手伝ったりすることです。)

互いに助け合う――互助力の復活が今こそ必要だと思います。

 

私は聴覚障害児を持つ父親です。私自身は健常者です(自覚が無いだけで、何らかの障害を持っているかもしれませんが)。

これまで子どもの障害を通じて、様々人たちと交流し、障害について知ることで視野が拡がりました

障害児を取り巻く教育環境や行政支援などについてです。

聴覚障害だけでなく、様々な障害について考えるきっかけにもなりました。

私が子どもを助けているつもりが、気が付けば私自身が子どもに助けられていると思う場面は多々あります。

障害者の視点で世の中を観ると、健常者では気付かないことが視えてきます

そういった障害者の視点でまちづくり、社会づくりをしていけば、障害者はもちろん、健常者にとっても、全ての人にとって安全安心な社会になると信じています。

ところで、一時期大学で実利性の低い文学部や芸術学部などの人文系は敬遠され、理系への入学が増えました。

確かに人文系には実利性は低いかもしれません。

しかし、私たちの生活から文学や芸術が無くなってしまったら、何と味気ない世界でしょう。

実利性や合理性ばかり追い求めると、どこかギスギスしてしまいます。

一見不必要に思えるものでも、心を豊かにするには、なくてはならないのです。

損得勘定だけで物事を判断するのは危険です。

そのことを教えてくれる障害者の存在は、我々にとって不可欠です。

今回の事件をこのまま風化させることなく、障害について社会としてしっかり考え、今後の教育に活かされることを祈っています