世界遺産である比叡山「延暦寺」に行ってきました。
延暦寺を語る上で、「最澄」は外すことはできません。
小学校の教科書にも出てくる有名な僧侶「最澄」が延暦7年(788年)に薬師如来を本尊とする小堂「一乗止観院(のちの国宝 『根本中堂』)」を建てたところから「延暦寺(まだ延暦寺ではない)」の始まりになります。
そもそもこの最澄は優れた経歴を持つお坊さんです。
ざっくり経歴を紹介、12歳 (778年)の時に近江国分寺に入り、14歳で「最澄」と名のり、17歳で「国が認める僧侶(当時 僧侶は国家資格であり簡単になれなかった)」となり、19歳(785年)時に東大寺にて、「比丘(びく)仏教の戒律を守るもの)」となりました。
この比丘になるのは猛烈な勉強量が必要で、最澄が努力家だったことが判ります。
その後「桓武天皇」に認められ、31歳で宮中で天皇の安穏を祈る「十禅師」となり、804年「遣唐使」として唐に行き、天台山「国清寺」にて修行しました。
805年に帰国、翌806年 40歳の時に「すべての者が菩薩であり、悟りを開くことができる」を教えとした『天台宗』を開宗し日本の仏教界に大きな影響を与えました。
下は延暦寺で1347年建立 延暦寺最古の建物
重要文化財 「転法輪堂」
転法輪堂から太陽光がカッコよかった‥
822年 最澄の死後、「天台宗」が国家仏教と同じ地位に登りつめ、日本の中心的な寺院の一つになり、翌823年に「延暦寺」の称号を朝廷から許可され、 「道元」「親鸞」「栄西」「日蓮」等の有名な僧を多く輩出する寺院になっていきます。
延暦寺に向かう途中の展望台から
このように大きくなった延暦寺は、京都の鬼門を守る寺院として存在し、上の地図のように、東塔、西塔、横川など大きな3つの区域に加え、最盛期には3000を超える小さな寺院が比叡山中にあり、数千人が暮らしていました。
下写真は 西塔エリアにある重要文化財
「常行堂」と「法華堂」 総称として「にない堂」
下写真は「法華総寺院」文化財ではありません
山中にひっそりと立つ重要文化財「転法輪堂」
延暦寺が朝廷から領地を与えられ独立権を持ち、金貸しなどの利権、他の寺院との領地争い、政治への介入などが多くなり、あちらこちらで争い事が増えました。
それに伴い寺院の雑役を行なっている者が武装し自衛するようになり、俗に言う「僧兵」が生まれていきます。
390年続いた平安時代の末期は社会や治安も乱れ、広大な利権や領地を持つ寺の武装僧侶の存在は大きな勢力となり、利権を脅かす制度や人に武装した僧兵が、朝廷の使者に脅しをかる「強訴」がたびたび起こりました。
「天狗草紙・模本」 興福寺の僧兵
そのため何度も時の権力者に嫌われてます。
室町幕府の6代将軍「足利 義教」の時代も、戦国初期の武将、「細川 政元」にも迫害され、多くの建立寺院が焼かれ再建しています。
しかし攻められても宗教ならでは、不死鳥のように復活!
戦国時代には大きな権力と発言権を持つ僧兵が4〜5000人も在籍しており、織田信長からも大いに嫌われました。
信長が延暦寺の領地を接収し、延暦寺が反発し反信長軍に肩入れをする、特に本願寺や浅井朝倉軍の軍事的な陣地としての機能を果たしました。
特に「野田・福島城の戦い」時で、この時は信長最大のピンチと言っても過言ではないほど信長は追い詰められました。
しかし宇佐山城の「森 可成」、信長の弟「織田 信治」「青地 茂綱」らの命をかけた奮戦により窮地を脱しました。
宇佐山城石垣
窮地を脱した信長は、軍を再編し延暦寺の「力」を排除するために3万の兵で囲み攻め上がりました。
よく3000名を超えるの僧侶やそこにいた女子供が切られ、500もの寺社堂塔が焼かれたと言われてますが、近年の発掘によると、そのような事実はなかったと言われています。
信長死後も、延暦寺は保護されましたが、信長以前のような権力は持てませんでした。
血生臭い歴史はあるものの、1000年以上の長い祈りと保護の歴史を経て比叡山全体が世界遺産に登録され、これからも長い歴史が刻まれていくのでしょうね。