去年は、自分が意識的、あるいは無意識的に立てているアンテナ、というか広げている網?に引っかかって来たことが、
だんだん溜まってきて、少しづつ何らかの形を成そうとしているように感じて来たところで、ちょうど年が暮れた。
年も明けたし、ゴチャゴチャと集まったものを整理しはじめたいと思っていたら、
あれよあれよとお正月も終わり、新学期が始まってしまったσ^_^;
私はずっと、アドラーのいう「勇気づけ」に私が強い関心を抱き続ける理由は何だろう?と考えていて、
現在進行形の自分の子育てでとても有効だということはもちろんだけど、
自分の奥底にある何か…うまく言えないけど、自分が生きる上で求めている何かともっと深く結びつくような気がするからなのではないか、と思うようになった。
それは、
『世の中にもっと「勇気づけ」を広めたい』
というより、
『自分が「勇気づけ」の姿勢で物事に取り組むことで、今‘ここ’で世の中の役に立ちたい』
という気持ちに近いような…。
そんな事を考えるうち、何冊かの本が無性に気にかかって、新年早々から読み始めた。
フランクルの「夜と霧」と「それでも人生にイエスと言う」。
ナチスの強制収容所から生還し、その経験を心理学的に考察、生きる意味について追求したフランクルは、ウィーンでアドラーに師事していた時期があった。
読んでみると、なるほどとうなずける部分も多い。
ちなみにアドラーは、第一次大戦中に戦場で軍医をしていた時期に、自分の理論の軸のひとつ「共同体感覚」(ここにはいない誰かとの「つながり感覚」ともいえるもの)を見出したといわれている。
どちらも、戦争がもたらす極限状態の中で、生きる意味について考え、そして生き抜いた。
その経験の中で見出してきたものには、やはり多くの共通点があるように思う。
「夜と霧」は、3.11以降被災地でも多く読まれているとか。
強制収容所で生き抜いたフランクルの人生に、被災した経験を重ね合わせる人たちも多いのかも知れない。
東京で暮らす私には、想像するしかできない事も多いのかも知れないけれど、
3.11を経験し、原発問題や、政治経済など社会的な不安定を感じながら生きているの私の心にも
フランクルの言葉は、静かに、でも確固たる強さをもって響いてくる。
そんな気がします。
…年初めの読書はまだ続きます。