さようなら池永正明さん | 極楽ブログPart2

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世の中に寝るより楽はなかりけり浮世の馬鹿が起きて働く(「母の教へ給ひし歌」なのです)

池永正明さんが亡くなった。76歳だった。


1963年の春のセンバツで優勝した下関商業高校の2年生エース池永投手は、山口県のヒーローであり、女の子たちのアイドルであった。Yako姉など「池永さん、池永さん」と熱を上げていたな。


Toko姉の同級生のサカモトくんが下商の選手で、首に優勝メダルを掛けて、下商OBのKitaroに挨拶に来たっけ。Kitaroは「優勝するんだったら、もっと寄付しておけばよかった」と言っていた。


超高校級の池永投手を擁した下商は、1963年の夏の大会でも決勝まで進んだ。当然春夏連覇が期待されたのだが・・・


2回戦で左肩を脱臼した池永投手は、以後の試合を左腕を固定したままで投げ抜いたが、決勝戦ではバント攻撃を仕掛けた大阪の明星高校に敗れたのである。明星は春の敗戦のリベンジを果たした。正に野球漫画のようなストーリーであった。


翌週の少年週刊誌には、表彰式で涙を流す池永投手の写真と共に「泣くな池永投手!」と題した特集記事が掲載されたのを覚えている。


下商は、翌年の春のセンバツにも出場したが、2回戦で橋本孝志投手を擁する博多工業高校に敗れた。福岡では池永より橋本のほうが上だと喧伝された。


更に。


夏は山口県予選で早鞆高校に敗れた。正に転落の一途。ワタシは、慢心したか池永投手と思ったものである。


池永投手は西鉄ライオンズに入団した。当時の監督は中西太サンだったな。


その年、わが田舎の球場で西鉄ライオンズ対大洋ホエールズのオープン戦が開催された。池永投手が投げるというので、超満員の盛況であった。ワタシも3塁側のスタンドから観戦した。


試合前、グラウンドでは2人の新人がキャッチボールをしていた。背番号20の池永投手と22の尾崎投手である。尾崎投手は徳島の海南高校出身で、彼も甲子園優勝投手であった。後のジャンボ尾崎である。(画像はネットの拾い物)




池永投手は、大洋を7回2安打に抑え、勝ち投手になった。試合後、球場前でバスに乗り込む池永投手を間近に見たが、とっぽいお兄ちゃんだった。


池永投手はデビューの年に20勝して新人王を獲得し、以後西鉄のエースとして君臨した。ワタシの記憶では、オールスター戦は5年連続無失点の筈である。


その池永投手は、黒い霧事件に巻き込まれ、実働5年でプロ野球から永久追放された。(金は預かったが、八百長はしていないというのが池永投手の主張であった)


その後。


池永さんは博多中洲でドーベルというバーを開いた。


池永さんはたまに草野球で投げることがあった。「遊びで投げてるんだろうけど、とても打てる球じゃなかった」というのが、対戦した知人の言であった。


池永さんは、せめて娘が結婚する前に名誉を回復したいと願っていたそうである。2005年に35年ぶりに復権したのだが、間に合ったのかどうか。


あのまま西鉄のエースとして投げ続けていれば、日本を代表する大投手としてプロ野球史にその名を残しただろうに。返す返すも惜しいことであった。


復権しても失われた時は帰って来ない。まことに苦渋の半世紀であったろうと思う。


それもこれも伝説になってしまった。


さようなら池永正明さん。