新年あけましておめでとうございます。
新年早々、大変なことが日本で起こっていますね…
元日の能登半島地震といい、昨日のJAL炎上といい…
被災された方に心よりお見舞い申し上げます。
石川は先月行ったばかりだったのでまさかという驚きでした。
今回の地震は揺れが長く大きく、思い出したのは東日本大震災。
NHKをつけたらアナウンサーの切羽詰まった呼びかけ。
繰り返し繰り返し、避難を呼びかける緊迫した声。
その声をヒステリックだとか絶叫だとかこの程度で大声を出したら本当にひどい時に段階がなくなるとかいろんなことを言う人がいますが、
わたしはその呼びかけにどうか逃げてほしいという願いや呼びかけることしかできないもどかしさを感じた。
大津波警報、それは東日本大震災で繰り返し見た津波の実際。
家を車を人を飲み込んでいく水の恐ろしさ。
逃げた結果、巻き込まれずに済んだなら、津波が思ったよりも小さかったなら、それでいいじゃないか。
逃げた後のことはあとで考えたら。
考えられるっていうのは生き残った証拠なのだから。
生きていればこそ。
JALのことも、生きていればこそ。
亡くなられた方にご冥福をお祈りいたします。
2週間前、友人の突然の訃報。
は?
しか出て来なかった。
元気だったのに。
また会おうねって。
信じられなかった。
葬儀場で顔を見て、初めて涙が出た。
なにこの寝顔。
寝てるだけじゃん。
なんで起きないの?
なんで箱の中に入ってるの?
夏うちに来たばかりじゃん。
一緒に遊んだじゃん。
来年も来るって、また会おうって約束したのに。
彼女とは幼稚園のママ友だったけど、それも続ければ10年の友人になるわけで。
同じ幼稚園の女子ママ5人。
娘たちが中2になったいまもよく似た子育ての悩みを共有し、夏には娘たちもうちに泊まって遊びに行ったりプリクラ撮ったり化粧したり楽しんでいた。
一緒に飲んで、ママたちはママたちで深夜まで話して。
また来年ねって手を振って別れた。
あの笑顔が最期になるなんて、あの時誰も思ってもいなかった。
喪主である旦那さんのとなりに、中2の彼女は制服姿で立っていた。
旦那さんに会釈をすると、彼女もぺこりと頭を下げた。
わたしは思わず彼女を抱きしめた。
腕の中でその小さな肩が震えた。
抱きしめたわたしは涙があふれて止まらなかった。
悔しくて、悲しくて。
なんで、と思って。
式の間中、わたしたち残された4人は並んで亡くなった友人や遺された家族のことを思いながら泣いていた。
一番泣きたいのは亡くなった彼女自身だろう。
一人娘の成長を見届けたかったはずだ。
まさかこんなことになるなんて、彼女自身が一番思ってもみなかったはず。
人生の、なんと先のわからないことか。
帰宅後、ムスメをしっかり抱きしめた。
ムスメにも事情を話した。
ムスメはこの夏アメリカにいたので、ビデオ通話で話をしたのが最期になってしまった。
「もっと話したかった…。遊びに行くって言ったのに」
うん、そうだね。
人が亡くなると、あれもしたかった、これもしたかった。ああしてあげればよかった、こうすればよかった、と、できなかったことを数えてしまう。
でも、それよりは。
できたことを数えよう。
できなかったことを数えればきりがなくなってしまうから。
それよりはできたことを数えて、満たされよう。
電話で話すことができた。
夏に遊ぶことができた。
一緒に飲むことができた。
たくさん遊んだ。
一緒に公園に行った。
一緒にランチもした。
友達になれて、よかった。
これからは貴女の代わりに、わたしたちがしっかり遺された娘ちゃんの力になるからね。
精一杯支えていくから。
見守っていてあげて。
始まったばかりの新年は、辛いことが多いけれどこれがこの年のすべてではないと信じて。
どうかどうか、よい一年になりますように。