私はずっと「自分」を探しています。
それはジプシーのように「彷徨う」という感じではなく、発掘に近い。
あとは、研磨に近い。
見つけた言葉を磨いて、もっとしっくりするものにしていく。
Facebookへの投稿
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私は、まだまだ「自分」が知りたくて、
探して、
出会って、
驚いて、
納得して、
また「しっくりくる表現はないか」と掘ってみて。
色々本読んだり、ワークしたりしてます。
遊びだな(笑)
私の遊びなんだな、と思った😆
旦那さんに、「私って、何を大切にしてそうな人?」って、今やってるワークの1つを聞いてみたけど、「そんな難しいこと、分からんわー。そういうとこちゃう?」と言って終わり(笑)
旦那さんは、「じゃ、逆に俺は?」とか全く聞いてこない。興味ないらしい。なんでもいいんだって。
そうだよ、私の壮大な、飽くなき遊びなんだ。
私はこんな人だよと、しっくりくる表現を見つけて、それを「届けたい人」がいるから。響きあいたい人がいるから。
1人でやってるけど、その先には、届いてほしくて分かち合いたい人がいる。
そういうことなんだよ。だから、やめられないとまらないっていう、大好きで楽しい遊びをしてるんだ。
また1つ、今日気づいたことがあって、うふぁー💖💖って感じた。
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私はどこか、「ちゃんと実にならないと」とか、
「役立つようにしないと」とか思っていて、自分を表現する言葉が見つかることは、私が提供できるものと引き合うお客様が、私を見つけやすいような看板を作り上げることにも繋がるのかと思っていた。
でも、そんなことではない。それだけではない。
私の遊びだったんだと思ったら、なんか力が抜けた。その方が楽しいじゃないか。
私はこんな人だと発信できたら、「同じー❣️」とか「会いたいー❣️」とか、そういう人と繋がって、作りたい世界を一緒に創れるんだ。
幸せじゃないか💞
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でね、また1つ分かったことは、私は「鏡として在りたい」と思っているんだということ。これは、私のハート数9にも繋がる。
私は「鏡」
お社の「鏡」
だから、映るものが曇らないように、自らを磨く。
それには、ニュートラルでいる(フラットである)ココロや、カラダが必要。
発信方法や内容を考える時、ペルソナが浮かびにくいんだけど、神社の鏡を思い浮かべたら、納得かもしれない。
鏡が前に立つ人を、選ぶわけではないもの。
今、立った人を映すだけ。
あなたとして、すでにそこに在る。
あなたは誰なのか。思い出す。自分に問う。
見つめる。向き合う。整える。
その時に鏡として、あなたの前にいる。あなたを映す。
アドバイスをするわけでも、励ますわけでもないけれど、「大丈夫。あなたのままで大丈夫。愛されている。だからそこにいる。思い出して。あなたを思い出して。」って祈りながら、映す。
そんなことができたらいいな。
私は、イヤシロチになりたい。
だから行きたくなる。だから会いたくなる。
理由はないけど、ただそこにいたい。そんな存在になりたい。自分に還りたくなったら会いに行く。そんな場所。
だから、本当は私がいただきたい料金も、お賽銭なんだと思う。有り様として、そうなれるように、場も提供するものも、向かっていきたいな。