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大正霊術の巨人たち
松本道別・田中守平・臼井甕男——断食と覚醒、そして手当ての時代
明治末から昭和初期。西洋医学が急速に広まりつつも、まだ民衆の身体の痛みに十分に応えきれなかったあの時代に、「霊術」と呼ばれる不思議な療法が日本全土を席巻しました。
その担い手たちは、奇妙なことにほぼ例外なく「社会から弾き飛ばされた人」たちでした。政治で詰み、逮捕され、服役し、そして山に籠り断食して——何かを掴んで戻ってくる。今回は、そんな時代の中でも特に整体の源流と深く交わる三人の人物を取り上げます。
一、松本道別(まつもと ちわき)
1872年〜1942年 享年70歳
政治から霊学へ
伊勢国生まれ。伯父が伊勢神宮の神官という神道の血を引く家柄でした。三重県立中学から早稲田大学の前身・東京専門学校に進み、英語を専修しながら図書館で漢学・国学を独学しました。知的好奇心の旺盛な青年でした。
卒業後は婦人雑誌の記者として筆を振るっていましたが、日露戦争が終わると政治の世界へ飛び込んでいきます。1905年、日露講和条約への反対運動で猛烈な活動を展開しました。東京市電の値上げに反対して上野・日比谷で騒擾事件を起こし、翌1906年には焼き打ち事件の主犯として逮捕、巣鴨刑務所と小菅監獄で3年間服役しました。
服役中、そして出所後——松本は「神霊」の問題に没頭するようになります。御嶽山、那智の滝。聖なる山と水を求めて修行を重ね、霊的な感覚が開いていったとされています。政治という外への衝動が、完全に内側へと反転した瞬間でした。
霊学道場と「輸気」
修行を経た松本は「霊学道場」を東京・小石川に開設しました。古今東西の霊術・霊学を独自に統合・体系化し、1928年(昭和3年)には主著『霊学講座』を完成させました。心霊研究の重鎮・浅野和三郎が「この種の講座中、最優秀のもの」と激賞したほどの水準でした。
松本の霊学が扱ったのは、呼吸法・行気法・霊動法・催眠・帰神交霊など多岐にわたります。その中に「接手輸気法」という手技がありました。「相手の患部に片手又は両手の掌面を当てて、人体放射能を輸り込むこと」——「輸気(ゆき)」とは、気を輸る(おくる)ことです。野口晴哉先生がのちに「愉気」と書き改めた、あの概念の原型がここにあります。
野口晴哉との師弟関係
野口晴哉先生は12歳から16歳の間、松本道別に師事しました。『霊学講座』の中にはすでに「活元運動」「愉気」「行気法」に相当するものが詳しく論じられており、若い野口先生が受けた影響の深さは計り知れません。今日の野口整体の核心概念——体が自然に動き出す自発運動と、手当てによる気の伝達——は、この松本道別という人物なしには語れないものです。
「霊界の三傑」と田中守平との確執
松本は同時代の霊術家・田中守平と焼き打ち事件の頃に出会い、一時は交流を深めました。しかし田中が「太霊道」を大々的に組織化すると、その誇大さに怒り決裂しました。著書の中で田中を「片腹痛い」と痛烈に批判しています。
それでも1919年、江間俊一の仲裁によって二人は和解。「霊界倶楽部」を結成し、松本道別・田中守平・江間俊一の三人は「霊界の三傑」と称されるようになりました。仲介者が誰かも含めて、なかなか人間くさい話です。
二、田中守平(たなか もりへい)
1884年〜1929年 享年45歳
政治青年から霊術家へ
岐阜県恵那郡の寒村生まれ。16歳で上京し、苦学しながら日本大学と東京外国語学校に学んだ秀才でした。しかし学問より先に、熱烈なナショナリズムが彼の心を動かしていました。
1903年(明治36年)、19歳の田中は「日露戦争を訴える」上奏事件を起こします。天皇への直訴という過激な行動は当局から「誇大妄想狂」と判断され、郷里に強制送還されました。山中の小庵に四ヶ月あまりの蟄居(ちっきょ)——いわば自宅軟禁です。
絶食と霊動の覚醒
蟄居中の絶食。食を絶ち、孤絶の中に置かれた田中の体に、ある日「霊動」が起きました。全身が意志とは関係なく躍動し始める、不随意的な運動現象です。これが彼にとっての最初の修行となり、「治病能力」への扉を開きました。
その後、21歳で恵那山に再び入山し、本格的な断食修行を行いました。宇宙の根本原理「太霊」を感得する体験を得たのは、1905年のことです。
太霊道の創設と「霊子術」
覚醒後の田中は中国・蒙古へ渡り「神人」と称して各地を行脚しました。大正に入って帰国し、東京麹町に「宇宙霊学療院」と「太霊道本院」を開設します。
田中が編み出した「霊子術」の核心は二段階でした。まず「霊子顕動法」——合掌した手が自発的に動き出し、やがて全身に振動・跳躍が及ぶ現象を引き出します。次に「霊子潜動法」——その力を外に向け、治病や遠隔への応用へ進みます。
太霊道の修行で特徴的なのは、「精神統一・精神集中を禁じた」ことです。田中はこう言いました。「精神統一など容易にできるものではない。しかし実践を深めれば、自然と精神は統一される」と。やることをやれば、体と心は勝手に整っていく——この発想は、整体の哲学と驚くほど重なります。
大正最大の霊術団体へ
太霊道が爆発的に広まった理由は、その「体験のしやすさ」にありました。講習を受ければほとんどの人が霊動を体験できるカリキュラムが整備され、新聞を駆使した大々的な宣伝が全国に届きました。田中のカリスマ性は大本教の出口王仁三郎と並び称されるほどで、「西の大本、東の太霊道」と言われるまでになりました。
しかし田中本人は1929年、45歳の若さで没しました。カリスマを失った太霊道は急速に衰退し、消滅しました。昭和5年当時の霊術家の数は推定3万人といわれますが、その多くは田中のシステムを模倣した人々でした。
三、臼井甕男(うすい みかお)
1865年〜1926年 享年60歳
多彩な経歴と「人生の目的」への問い
岐阜県山県郡の生まれ。幼少から苦学を重ね、欧米・中国にも遊学した国際感覚を持つ人物でした。公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家・後藤新平の秘書——職歴だけ見れば、当時の日本でこれほど多彩に動いた人物も珍しいです。
しかし、立身出世には恵まれませんでした。どれだけ努力しても何かが噛み合わない。そのうちに臼井の関心は、外の世界での成功から「人生の目的とは何か」という内側の問いへと移っていきました。
答えを求めて禅の道に入り、京都の禅寺で3年ほど修行しました。しかし周りが結果を出す中、自分だけが悟れない。焦った臼井は住職に直接聞きました。「どうすれば悟れるのか?」
住職の答えはこうでした——「一度死んでごらん」。
鞍馬山、21日間の断食
その言葉を受けて、臼井はまだ雪の残る1922年3月、京都・鞍馬山に入山しました。死を覚悟した21日間の断食修行が始まりました。
21日目の深夜。脳天を貫くような雷の衝撃を受けて、臼井は気絶しました。「ついに死ねた」と思ったそのとき——気づけば夜は明け始め、朝焼けの光の中で心身が宇宙と一体になった感覚の中、自分がまだ生きていることを知りました。求めていた「安心立命」の境地に、ついに到達した瞬間でした。
「手当て」の誕生
歓喜した臼井は、小躍りしながら山を駆け下りました。その途中、木の根(あるいは石とも言われます)に足をとられ、大きなケガをしました。体力が極度に落ちている状態での大怪我です。激痛に耐えながら、臼井は反射的に傷ついた箇所に手を当てました。
すると——手から何かが流れました。痛みが和らいでいきました。
これが「靈氣療法」誕生の瞬間です。天から降り注ぐエネルギーを、施術者が自らの体を通して相手に届ける。その入り口が「手を当てること」——日本語の「手当て」という言葉の、最も根本的な意味がここにあります。
臼井霊気療法学会の設立と世界への広がり
同年1922年4月、臼井は東京・青山原宿に「臼井霊気療法学会」を設立しました。治療と伝授を開始し、翌1923年の関東大震災では被災地を回って多くの負傷者の手当てに尽くしたとされています。門人は生涯で2,000人を超え、うち約20名を師範として育て上げました。
臼井は1926年3月、広島県を訪問中に60歳で没しました。しかし霊気療法はそこで終わりませんでした。師範の一人・林忠次郎がハワイ在住の日系人・高田ハワヨに伝授し、高田がアメリカでそれを広めました。今日「レイキ(Reiki)」として世界中に普及している手当て療法は、この流れを汲んでいます。現在数百万人が実践すると言われています。
おわりに——三人に共通するもの
松本道別、田中守平、臼井甕男。それぞれ背景も手法も異なる三人ですが、振り返ると驚くほど同じパターンが浮かび上がります。
松本道別は、焼き打ち事件で服役3年ののち御嶽山・那智滝で修行しました。田中守平は、上奏事件による蟄居・絶食の中で霊動が覚醒しました。臼井甕男は、禅修行でも悟れないという挫折の末、鞍馬山で21日間断食して気絶し覚醒しました。
外に向かうエネルギーが完全に行き場を失ったとき、人は内側へと向かいます。そして食を絶ち、静かに籠り、体の奥底に耳を澄ませたとき——「何か」が動き出す。
それを「霊動」と呼んだ人もいれば、「靈氣」と呼んだ人もいました。野口晴哉先生はそれを「活元運動」と名付け、整体という体系に組み込みました。名前は違えど、彼らが掴もうとしていたものは、おそらく同じだったのではないかと思います。
体には、自ら治ろうとする力があります。それを邪魔しないこと。そして、その力が動き出すのを、静かに手で支えること。整体の仕事は、今も昔も、そこに尽きます。
【まとめ】ブログです☟
今日も素敵な1日に感謝![]()
福岡県みやま市瀬高町
福岡県大牟田市の2店舗で
・整体操法 ⋯⋯通常の整体
【二宮整体】という整体法でやってます
・整体勉強会⋯⋯整体操法と知識的な勉強会
・お手当ての会 ⚠️これは瀬高店のみです⚠️
月2整体指導室
https://ameblo.jp/tuki2seitai/entry-12839005585.html
こちらにも、ブログやってます。
整体のことを、こちらでも
書くことにしました。
https://note.com/joyous_murre479/portalノート
【感動の整体】と呼ばれる、NPO法人二宮整体アカデミー協会ホームページです。
https://ninomiyaseitai.jimdofree.com/
全国の指導室の連絡先など載ってます。
YouTubeもやってます
https://youtube.com/channel/UCDj1otcQbe54aaAqKD5rt6w?si=DmByhnO4ElZOsRQW
今日も整体通じて皆様に恩返しできたことに
感謝します。
月2整体指導室 代表 吉本 孝次



