三菱商事の会議室で | ふくじーんのブログ

ふくじーんのブログ

ふと疑問に思った食べ物にこだわった。

大正12年7月 日本缶詰協会が大手町にある三菱商事の会議室で会合を開いた。そこに出席した鶯亭金升(長井総太郎)は列席者に回想的な語り口で鶯亭の師匠・梅亭金鵞が福神漬を命名した時の話をした。この会合での談話が機関紙『缶詰時報2巻』に掲載され、昭和9年輸入食品を中心として商っていた明治屋が従業員のための食品辞典を作ったとき、缶詰時報に掲載された福神漬の由来を転載した。

今多くのカレー本に書かれている福神漬の由来の多くは明治屋の食品辞典か大日本洋酒缶詰沿革史(1915からの引用と思われる。(一部の事実が誤っているので転載と解る)缶詰時報が発行されて間もなく関東大震災が起き、この伝承が食品関係者から忘れ去られた。つまり明治屋の食品辞典が無ければ福神漬の由来の多くは消えていたと思われる。

様々な記録から、酒悦主人が明治10年頃から研究開発し、福神漬が命名されたのは明治16年から19年の頃と推定される。命名者梅亭金駕が病床についたのが明治23年2月で寝たきりとなり26年に死去している。福神漬の缶詰入りは創製者酒悦店主の営業努力にもかかわらず、当時としては高価な食品のため一部の人達に売れたに過ぎないと推測される。酒悦主人の思惑もあり、明治の広告では先端を行っていた池の端の薬舗守田宝丹の影響もあって、戯作者梅亭金鵞に商品の命名を依頼し販売促進したと思われる。


命名の由来は谷中・上野周辺で盛んになっていた『七福神めぐり』からと思われるが当初から福神漬と命名されている。ただ当時の人気風刺漫画雑誌・團團珍聞編集者・梅亭金鵞が明治16年頃の政情から商品名に何も寓意(隠れたメッセージ)を入れなかったのだろうか疑問に思える。明治10年に発刊された人気風刺雑誌であった團團(○○)珍聞に対して藩閥政府が新聞雑誌に対する弾圧をシツコク強めていた時でもあった。様々な手段(法律・警察力)によって政府の意に沿うような報道が要請されていた時でもあった。しかし政府の希望する記事は読者の望む記事とはならず、発行部数が増えず、編集者が○○等の伏字を使うなどして創意工夫して表現することが試されていた時代でもあった。もし寓意が漏れて裁判沙汰になった時、十分勝訴できることを梅亭は命名時考えていたのではあるまいか。まだ明治憲法が出来るまで日本の裁判で裁判官が政府の意向に沿わない判決を出すことは裁判官自身の地位が危険だった。

 

福神漬の語り部ともいえる鶯亭金升は戊辰戦争期の生まれである。彼の團團珍聞への投書が載り始めたのは明治16年頃からで、團團珍聞には竹葉亭昌安、驥尾団子(きびだんご)には総多楼昌安という名前で投書文等が掲載されている。16歳の少年とも言える人物が度々、この当時の人気雑誌に掲載されている。資料によると明治13年の最盛期に團團珍聞と驥尾団子の発行部数は34万部を超えていたという。才能のある投書少年だか後に団団社に簡単に入社できたのだろうか。別の要素があったと思うのが一般に想像される。つまり縁故入社ということになる。鶯亭は明治17年8月には團團珍聞に入社し、19年には社主野村文夫と共に紀州・関西旅行をしている。

彼の父(元幕臣長井昌言)は明治6年工部省鉄道局の地位で死去し、下谷根岸に母と生活していた少年にどんな縁故があったのだろうか。