神奈川日記(小田原編) | 津人のブログ

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前回の続き。
神奈川県のあれやこれやを巡る旅という事で、湘南海岸、七里ヶ浜、鎌倉の大仏、鶴岡八幡宮などを一通り回ったわけやけど、もう1つ訪れてみたい場所があり、この駅に降り立った。

小田原駅。

あの「小田原城」でお馴染みの小田原市の中心駅。


表玄関にあたる東口には、小田原出身の偉人、二宮金次郎(尊徳)像が。


つーわけで、外に出ると、小田原駅前もまた都会。

ペデストリアンデッキが整備されてて、小田原の街を一望できる。



そして、シンボルの「小田原城天守閣」が。

驚いたのが、やけに大きいという事。
3重4階の天守なので、彦根城ぐらいの大きさかと思っていたが、遠くからこれだけ大きく見えるという事は、かなりの大きさ。
一体、小田原城天守閣とはなんぞや?


というわけで、ペデストリアンデッキを降りて、早速、小田原城へ向かう事に。


小田原駅前。

早朝で、まだシャッターも閉まり閑散としていたが、日中は人通りが多い事が容易に想像できる。
地方都市に見られる駅前の衰退は全くない感じ。

案内表示に従って小田原城へ。

水堀、発見。

駅から徒歩10分程で、小田原城に到着。

水堀に映える、櫓と天守。

水堀と小田原の市街地。

そして、のぼり旗が多数。

のぼり旗には、後北条氏の家紋が。

小田原市ではやはり、後北条氏は英雄視されている。

そりゃ、戦国武将·北条早雲が小田原城を奪い本拠地とした事から始まり、氏綱、氏康、氏政、氏直と、4代に亘り領土を拡大し、

現在の神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県、群馬県、静岡県東部地域·賀茂地域がすっぽり収まる広大な領国を築いたわけやから。
小田原はその首都的な感じで、小田原城はその中心やったわけ。

ただ、知っての通り、豊臣秀吉の小田原征伐により、後北条氏は降伏し領国を取り上げられ、小田原城の主は大久保氏となり明治まで続くわけさ。
こういう石垣も江戸時代に整備されたもの。天守閣も、江戸時代のものが復元されたもの。後北条氏時代の建物はないんだよね。


橋を渡り、

城内に入り、

経路を歩き、

階段を登り、

更に橋を渡り、階段を登り、

門をくぐると、

それが現れる事に。

小田原城天守閣。

1706年に建てられた2代目天守閣を、現代の1960年に外観復元したもの。


江戸中期の洗練された建築デザインを見る事ができる。

きらびやかなデザインも好きだけど、自分はどちらかと言うと、こういう簡素で洗練された江戸時代独特のデザインの天守閣がたまらなく好きなんだよね。



んで、




突然だけど、クイズ。

この4つの天守閣の中で、天守閣(天守台除く)の高さが一番高いものはどれか?




そりゃ、松本城に決まっとるやないかい、


何言うとんねん、岡山城や、


いや、どう見ても広島城でしょ、



って感じやと思う。



実は、




小田原城なんだよね。




嘘やろ、どう見ても小田原城が一番小さいやんけ、と思うかも知れないけど、


小田原城(右上)・・27.2m。(天守台含め38.7m)

広島城(右下)・・・26.6m。(天守台含め39m)
松本城(左上)・・・24.4m。(天守台含め29.4m)
岡山城(左下)・・・20.45m。(天守台含め22m)



こういう事なんよ。


小田原城天守閣は、実は、全国でも7番目に高い天守閣なんだよね。確かに、離れた駅からも、小田原城天守閣は結構大きく見えて驚いた。あれ?何か大きくね?みたいな。

ただ、

自分が間近で見た感覚としては、松本城が一番高くて、広島城と岡山城が同じぐらい。小田原城は4つの中では一番低く感じた。


本来高いのに、なぜか、低く見えてしまう。

小田原ミステリーだよね。




そんな、小田原城址公園内にはとある神社がある。
その名も「報徳二宮神社」。

進んでみると、

見えて来た拝殿。

鳥居をくぐると、

左手に二宮金次郎(尊徳)像が。

そう。ここは、小田原出身の偉人、二宮金次郎を祭る神社。

二宮金次郎と言えばこの像のイメージしかないけど、

一体何をしたのかと言うと、百姓の子として生まれ、持ち前の勉強熱心·研究熱心さで知識を蓄え、幼少の頃に洪水で流された生家を20歳で復興させ、

小田原藩士として取り立てられ、家や村や藩の財政再建など、数々の復興再建を成し遂げ、最終的には幕臣に取り立てられた、勤勉と奉仕の人。

その財政再建策の根幹となったのが、自らが説いた「報徳思想」。分かりやすく言えば、天道に従い働き、贅沢を捨て、剰余の利益を困ってる人に分配したりする事で人は真の豊かさと繁栄を得られるという思想。宗教的な思想ではなく、経済学的な思想であり、財政再建策について具体的な事が説かれているらしい。
その、現代ビジネスにも通じる思想は、今でも多くの人に支持され、二宮金次郎は戦後お札の絵にもなり、ここでは受験生に勤勉家の鏡として崇められている。

この両サイドの絵馬。

受験生達の切実な願いが綴られている。

金次郎に願う受験生は、幼児から高校生までと幅広い。

中には2才の子まで。
幼稚園受験か?

金次郎は、今も尚、多くの人の切実な想いを背負っているという事になる。


これが、二宮金次郎の成人バージョン。

身長180㎝~185㎝あったとの事。当時の男性の平均身長より22㎝~30㎝高いらしい。
何か、それが一番驚きなんすけど。


そんな、身長180越えの農政家、経済思想家が、なぜ、薪を背負って歩きながら本を読む少年のイメージとして世間に浸透したのか?

それは、時の政府が、二宮金次郎を勤勉と奉仕の見本として学校教育に取り入れたという経緯があるから。で、金次郎について記した本に「薪を背負いなが本を読み、怠ける事がなかった」的な記述が登場し、その後それをイラスト化したものが登場し、更にそれを彫像化したものが登場し、子供向けの版画や伝記でもその姿が描かれ始め、石材業者もビジネスチャンスと捉え、その姿を彫像にして小学校に普及させたとの事。結果的にそれは、イメージ戦略としては大成功で、二宮金次郎の負薪読書像は、戦後79年の現在でも全国の老若男女に知られる存在になっている。
ただ、実際に二宮金次郎少年が薪を背負って本を読んでいたという事実は一切確認されず、二宮金次郎自身も生前、少年時代の事は語らなかったらしい。





(サイト「二宮金次郎像」より拝借)
つーわけで、二宮金次郎像にも今やいろんな派生型が存在する。
代表的なのが座像。歩きながら本を読むのは危険だという大人達の指摘を反映したもの。
確かにこれだと見てて安心。子供が真似しても問題はない。ただ、従来のスピード感は無くなる。



(サイト「二宮金次郎像」より拝借)

津市明合小学校の「わらじを配る」バージョン。

少年時代、堤防工事に参加し、自ら作ったわらじを大人に配るというエピソードに基づいたもの。このエピソードは信憑性があるらしい。子供も真似できるし、従来のスピード感も損なわれない。




(サイト「ねとらぼ」内のTwitter投稿画像を拝借)
ジェットパックを装着したバージョン。
スピード感においては右に出るものはない。
ただ、あらゆる意味で、一体、どこに向かおうとしてるのか?






つーわけで、この小田原編を以て神奈川日記を終わりにしたいと思います。なぜ、毎回、こんなに長くなったのか、自分でも分かりません。