4日目:5月16日(木)

 

 楽しい京都旅行も今日で終わり。昨秋訪れた時、京に魅せられ、京のとりこになった。今春再訪したのだが、4日間はあっという間に過ぎてしまった。もっと滞在したいが、金がない。桜や紅葉の季節にウイークリーマンションを10日ほど借りれば、より浸れるのではないかと非現実的な妄想に駆られる。

 さて今朝は6時から金堂で勤行体験に参加する。時刻前に金堂に向かう。伽藍は閉ざされているので勤行体験の宿泊者の姿しか見られない。

 金堂では、入口の戸が開かれ、そこに二人の若い僧が待っていた。

 私は金堂外部の写真を撮ろうと思ったが、内部が映る可能性があるので止めた。もしかすると僧が立っているのはそれをさせないように見張っていたのではないかと勘ぐった。

 私たちの前にいた三十代くらいの二人組の女性の一人もその気配を感じたらしく、手にしていたスマホをしまった。

 厳粛な雰囲気がすでに漂っていた。

 体験者は昨夕食堂で見かけた人だけである。比叡山延暦寺と比べたら極端に少ない。金堂の中は他の寺と違い、余計な物が置かれてないので、広々としていた。他の寺と全く違う。

 堂内のご本尊(阿弥陀如来坐像)はレプリカらしい。現在国宝になっている本物は霊宝館に安置され、年2回特別に公開されるという。

(撮影厳禁。これは資料写真)

 僧が4、5名参加し、勤行は三十分ほどで終わった。その後、担当者の講話があった。寺の歴史や御室派の教えを語り、日々どう過ごしたらよいのかを説いた。話術が巧みなので分かりやすかった。妻は感動したようだった。

 終わった後、金堂の入口が閉められた所で、私は金堂の写真を一枚撮った。他の参加者も同じような行動をしていた。青空が見える。天気がよさそうだ。

 部屋に戻って朝食。夕食同様豪華で美味しい。私は普段はコーヒーとトーストだけなのだが、料金を払っている以上、しっかり食べる。

 御室会館の近くに霊宝館がある。

 2018年に東京国立博物館で開かれた「仁和寺展」を見た。

 その時公開された「三十帖冊子」に感動したので、仁和寺を訪れたら、もう一度拝見しようと考えたことがあった。

 しかし昨日疲れていたせいかすっかり忘れてしまった。こういうところに老いは顔を出す。

 所蔵している霊宝館の会館時刻は9時である。ここで時間を過ごせば、次の訪問地の龍安寺に着くのは10時頃になり、団体客が押し寄せているだろう。龍安寺は静かな雰囲気で味わいたい。諦めることにした。

 

 ニ王門の前の道は龍安寺、金閣寺に続いている。きぬかけの路と名付けられている。

 歩いて15分くらいのなで歩くことにする。上り坂が多い。

 

 龍安寺に着く。山門の手前に受付があり、そこで拝観料を払うと、パンフレットがもらえた。

 山門を潜ると、道が続く。

 周囲の樹木の手入れを造園業者が行っていた。道理で青葉がみずみずしい。桜や紅葉の季節はさぞかし美しいだろう。

 左手に池が広がっている。ハスの花が少し咲いている。繚乱と咲く頃は見ごたえがあるだろう。

 建物(庫裡及び方丈)が見えて来た。

 

 入ると、まず石庭に行った。団体客がいない。外国人の観光客が4,5名いるだけだ。早く着いてよかった。混まないうちにこの静けさを味わおう。西欧人の一人の女性観光客が縁側に座り、端然と眺めていた。

 55年ぶり高校生の時の修学旅行以来である。その時の記憶はほとんどない。今回驚いたことは想像以上に小さいということである。

 風が梢を渡る音と鳥のさえずりしか聞こえない。目を凝らして枯山水の美を味わう。

 人が増えて来たので、彼らに譲り、方丈を巡る。

 奥に見えるのは勅使門。勅使はここから出入りしたのだろう。

 龍の襖絵。これは皐月鶴翁という人の作品。後で知ったのだが、細川護熙元首相が新たな龍の襖絵を描いて奉納されたのだそうである。

(資料写真:細川護熙氏作)

 前もって分かっていれば、一見したのだが。

 彼が陶芸をやっていることは知っていたが、日本画を描くとは知らなかった。細川家は代々美術工芸を庇護して来た武家だが、ついに画家まで誕生したという訳か。

 外に出る。垣間見た庭園が素晴らしかったので、じっくり味わうことにする。

 この寺は石庭が有名だが、この広い庭園も素晴らしい。京都の庭園には造園技術の粋が詰まっている。全国の造園業者の跡継ぎが京都の造園業者で修行する話を読んだことがある。何百年にわたってその技術は磨かれてきた。その一端を味わうため、いつか紅葉の季節に再訪したい。

 弁天島に渡る。橋の欄干に座り、記念撮影。

 庭の美を堪能したところで、次の目的地金閣寺を目指す。

 

 当初歩く予定だったが、時間を稼ぐため、バスを利用することにした。

 近くにあるバス停から乗る。途中、立命館大学衣笠キャンパスの停留所があった。

 金閣寺道というバス停で降りる。バスを使って正解。きぬかけの路は山道なので起伏が多かった。時間が掛かれば混雑に巻き込まれる。

 その予想は的中した。現在9時半頃だが、すでに修学旅行生の姿が多く見受けられた。今は修学旅行の季節。金閣寺はそのコースから外せない。私の高校時代の修学旅行も同じであった。

 総門をくぐると拝観受付所がある。

 受付をすると、拝観券の代わりにお札をくれた。このアイディアは素晴らしい。帰宅した時、仏壇に飾った。我が家には神棚がないので。神仏習合的な態度を保持している。

 パンフレットもくれた。ありがたい。英語・中国語・朝鮮語でも表記されている。

 金閣が見えて来た。写真に映ってないが、絶景ポイントは人だかり。外国人観光客が多い。アジア人では断トツ中国人。彼らは声が大きいのですぐ分かる。我々のような日本人老夫婦観光客は少数派。ここの込み具合は清水寺、伏見稲荷大社を思い出させた。外国人には圧倒的に人気があるようだ。

 人の波をかいくぐってシャッターを押す。

 2020年に金箔を張り替えたので、燦然と輝いている。やはりその姿は美しい。

   人工的な美であるのにもかかわらず、荘厳さが感じられる。青空なら水面にその姿が映っただろう。

 私は文学老人なので、金閣寺と言えば、大学時代に読んだ三島由紀夫の『金閣寺』を思い出す。主人公は金閣の美しさに幻惑され、火を放つ。水辺に浮かぶ金色の建物は美の象徴であった。

 三島の文体は絢爛だが、人工的な美文である。金閣寺と似ている。金閣を描くのに彼ほどふさわしい作家はいない。小説にしたこと自体彼にとっては運命的な出会いである。

 どこも写真や動画を撮る人ばかり。人のことは言えない。群集心理に巻かれて我々もいたるところで同じ行為にふける。この輝きは世界の人を魅了している。どこの国の人もゴールドが好きなようだ。

 

   あまりにも混んでいるので退散することにした。十分鑑賞した。もういい。散策コースに不動堂があった。

 

 同じバス停から下賀茂神社に行くバスに乗る。神社は鴨川のほとりにあるので東方面に進む。20分ほど掛かった。

 バス停が鳥居の近くではなかったので、境内の横から入ることになった。

 境内に隣接している三井神社の前を通る、

 中門の前に来てしまった。

 門の右に受付があり、無料のパンフレットがあったのでいただく。

 中は参拝のエリアである。正面に御本殿参拝場所があった。この建物に隠れてあるのが東西の本宮である。

 参拝して中門を出ると、目の前に舞殿がある。ここで舞楽が行われる。このエリアは様々な催しが行われる場所らしい。

 近くに御手洗川という小川が流れ、そこに架かるようにして橋殿が立っている。

 御手洗川(みたらしがわ)のそばに紅梅の木が建っている。尾形光琳はこの木をモデルにして『紅白梅図屛風』を描いたと言われている。

 川の上流に小さな池がある。御手洗池である。

 そばに小さな社も建ち、縁起が書かれている。葵祭の前儀として斎王代がこの池に手を浸ける禊の儀が行われる。この池の水泡をかたどって作られたのがみたらし団子らしい。

 このエリアの入り口に朱塗りの楼門が立っている。これは門の裏側の写真である。

 楼門を潜ると、振り返る。表側から見た楼門。幕が映っている。

 そばに記念写真のパネルがあった。妻が面白半分に利用した。

 楼門の先に大きな鳥居がある。くぐって振り返ると、奥に楼門が見える。

 参道は長い。両側に糺の森が広がっている。紅葉の季節はさぞかし美しいだろう。

 

  参道と並行して馬場とよばれる道のような区域が伸びている。ここで葵祭当日(行列が境内で休んでいる間か)、走馬の儀が行われ、飾り立てた馬が疾走する。騎手は平安朝の衣装を着ている。昨日実施されたので蹄の跡が残っている。また葵祭の前儀として5月3日に流鏑馬も行われる。

 馬場のそばある石碑を発見した。それは関西ラグビー部発祥の記念碑である。写真を撮るのを忘れたので、資料写真を載せる。

 明治44年にこの糺の森で京都三高は、日本の学校で初めてラグビーを導入した慶應義塾からラグビーの手ほどきを受けた。それを記念したのだ。

 実は知人の祖先が大正時代の三高ラグビー部員だった。1919年、早稲田にもラグビー部が発足し、記念すべき第1回の他流試合の相手に三高が選ばれた。結果は15-0で早稲田のぼろ負け。その試合で最初の点数を入れたのが祖先の人だった。早稲田にとって忘れられない人になった。三高より早稲田ラグビー部史にその人の名は刻まれた。

 この話を知っていたのだが、この石碑の前を通った時に思い出さず、記事をつづっているうちに思い出したので記した次第である。

  

  河合神社があったので覗いてみる。あまり収穫なし。

 このようにして下賀茂神社を観光し終わったのだが、ここと上賀茂は再訪したいと思った。葵祭を初め、様々な伝統行事を行っている。最古で長い間朝廷の庇護を受けて来た。明治になり伊勢神宮に次ぐ官幣大社にも選ばれた。糺の森が現存している。歴史の重みがすごい。伏見稲荷大社や八坂神社とは格が違う印象を受けた。

 大きな通りに出てしばらく歩くと、バス停が見えた。降りたバス停とは違うが、京都駅行きのバスがあったので乗ることにした。

 

 

 京都駅に着く。

 まだ11時台。疲れたのとお昼代わりにいつものスタバでフラペチーノを飲む。外にこういう席があるのがうれしい。

 12時33分発の大阪発東京行きひかりに乗ることにした。時間があるので妻はおみやげを買いに。興味のない私は外で待つ。

 ホームで待っていると後ろに立っていた青年から声を掛けられる。中国人の青年で日本語が話せない。英語も話せない。私は中国語を話せない。彼はスマホの翻訳機能を使って意思疎通を図った。彼とのやりとりは次の通り。

 「この電車は東京に行きますか」

 「行きますよ。大学生?」

 「そうです」

 「日本は初めて?」

 「そうです」

 「東京ではどこを見るの?」

 「浅草寺です」

 「他には?」

 「その後富士山を見に行きます」

 「富士山なら左側に座ればいい。天気がよければ見えるから」

 「ありがとうございます。日本人は親切で礼儀正しいです」

 「こちらこそありがとう」

 昼間のひかりはけっこう空いている。青年は私たちの一つ置いた後ろの席に座った。2列の席である。

 富士山が近づいた時、天気は曇り空だった。私は彼の席に近寄り、グーグルマップを使って晴天なら見えることを教えたが、残念ながらこれでは見られないことを伝えた。

 東京駅に着き、私たちは東北新幹線乗り場に行かなければならないので、彼を普通電車に通じる改札口まで連れて行き、そこで別れた。彼は頭を下げて礼を述べた。同じアジア人だと思った。背がとても高く、礼儀正しい青年だった。彼と話せたことも思い出の一つになった。

 東京駅の駅弁売り場で夕食用のサンドイッチを買い、東北新幹線の中で食べる。万世のカツサンド。久しぶりである。実に美味しい。

 那須塩原駅で上り普通電車に乗り換え、故郷の駅に降り立ったのは6時ちょっと前だった。

 妻と話し、今年の秋の旅行も京都に決まった。紅葉の季節に訪れる予定である。

               ーーー 終わり ーーー

 

※次回はフランス文学の思い出に戻り、カミュとサルトルについて語ります。