フローベールという作家は作品数が少ないのにもかかわらず、フランス文学史においては重要な存在らしい。

          (ギュスターヴ・フローベール〔1821~1880〕)

 私が大学生だった70年代、サルトルは健在であった。80年に亡くなるから晩年に近いといっていいか。その彼が「家の馬鹿息子」という題のフローベール論を執筆しているという記事を朝日ジャーナルか何かで読んだ。それもかなりの長編だという。

(ジャンポール・サルトル)

 哲学者の彼がどうしてフローベールに行きついたのか分からなかったが、それだけフローベールという作家はフランスにおいては重要な存在であると私は思った。

 フローベールの作品数はバルザックやゾラに比べると少ない。岩波文庫に入っているのは『ボヴァリー夫人』(以下ボヴァリーと略す)、『感情教育』、『三つの物語』(短編集)だけである。私はこの3つを読んだ。他に『聖アントワーヌの誘惑』や『サランボー』などの長編もあるが、人口に膾炙していない。

 『ボヴァリー』と『感情教育』は私に少なからず影響を与えた。

 

 まず『ボヴァリー』から語ろう。

 私は高校時代に河出書房の本で『ボヴァリー』を読んだ。

 当時性的に目覚めており、不純な動機でスタンダールの『赤と黒』をひも解いたのだが、それと全く同じで『ボヴァリー』にも取り掛かった。彼女が年下の恋人と逢引する場面を必死で探し、その箇所を嘗め回すようにして読んだ。そんな動機で読んだので、この本の真の魅力を味わうことが出来なかった。

 ところが大学時代に西欧の文学を渉猟しているうち、フローベールがフランス文学において重要な存在であり、代表作の『ボヴァリー』が様々な点で画期的な作品であることを知った。

 前回に登場したS君もフランス文学に凝り出していて『ボヴァリ―』を読み、これは傑作だと話した。それに刺激を受け、私も再読した。今度は岩波文庫で読んだ。

 今回は鑑賞力が付いて来たので熟読することが出来た。S君の言う通り、私もこの作品は傑作だと思った。

 本作の魅力は何か。

 まず作品が徹底したリアリズムで描かれていることである。フローベールは登場人物の行動、情景、心理などを出来る限り主観を入れずに描いた。したがって文体が抑制され、冗漫に流れなかった。言葉の使い方に厳密で、場面にふさわしい形容詞や修飾語を求めて3日間悩んだという伝説が生まれたくらいである。徹底した芸術至上主義者だった。日本で言えば、志賀直哉に近いかもしれない。

 次に題材を神話や歴史的出来事ではなく、19世紀半ばの地方で起きた不倫事件に求めた。取り上げることによって当時の世相をえぐり出した。

 人妻と年下男性の不倫はフランス文化の特長で、『赤と黒』に見られるように多くの作品に取り上げられた。

 この題材は陳腐だが、当時の世相も含め、客観描写に徹したので当時のインテリに歓迎された。これにより彼は写実主義の創始者だと言われ、ロマン主義から次に現れる自然主義(ゾラが有名)への橋渡しのような存在として評された。影響力は大で、『ボヴァリー』で示したスタイルはやがてモーパッサン、ゾラ、イプセンに引き継がれた。

 第3は、ロマンと現実の相克をあぶりだしたことである。

 19世紀半ば頃の地方で平凡な医者の妻として生きるエンマ・ボヴァリーは夫との倦怠な生活に飽き、ロマンを求めるようになる。それを見抜いた村の俗物たちがエンマに近寄って来るが、その中でレオンという青年を好きになる。しかし彼は性的対象としてエンマを求めたので、エンマが死にそうになると彼女を捨てる。エンマのロマンは悲劇に終った。

 ロマンでは生きていけない。ロマンは現実の前に膝を折りがちである。多数の人はそうして夢を捨てる。

エンマ・ボヴァリー(映画『ボヴァリー夫人』より)

 フローベール自身がこのことに苦しんだ。因習に背を向け、新しい生き方を模索したエンマの立ち位置は、既成の文学に異を唱え、独自の芸術を求めて暗中模索をしていたフローベールの立ち位置でもあった。彼は自分の精神的悲劇をエンマに託したのだろう。だから彼は「ボヴァリーは私だ」という名言を吐いた。

(執筆中の若き日のフローベル:この絵は妹によって描かれた)

 フローベールの取り組みは成功した。したがってエンマの印象は強烈である。私には魅力のある人物に映った。

 この有名な言葉やエンマの生き方をについてS君と喫茶店で論じたことは懐かしい思い出である。 

 この頃、私は三島由紀夫の『美徳のよろめき』を読んだが、『ボヴァリー』の影響を明らかに受けているように思った。   

(三島由紀夫)

 

 続いて『感情教育』にまつわる思い出を語ろう。

 芸術作品としては『ボヴァリー』の方が優れているが、私への影響力では『感情教育』の方が大きかった。

 この内容は、田舎に住むフレデリックとデローリエという二人の青年がパリに出て、恋や革命騒ぎなどを経験しながら大人になっていく話である。その点ではドイツの教養小説に近いのだが、教養小説特有の道徳性は弱い。そこがフランス文学とドイツ文学の違いかもしれない。軟弱と謹厳とでも言えようか。  本作は1回目に発刊された稿と、20年後に発表された稿とでは大幅に違う。現在2回目を決定稿としている。岩波の訳も2回目の方である。

 作品の完成度からみれば、『ボヴァリー』に適わない。ストーリーの展開や描写に退屈さが感じられた。ただし、気になった表現には線を引いておいた。

(傍線を引いた文が載っているページを扉に記した)

 幾つかを紹介する。

・愚かしい人間が自分の現に失敗した企画でうまく成功したのを見るほどいまいましいことはない。

・欲望が強ければ強いほどますます実行にうつのが困難だ、そういう人間もいる。自信のなさが障害になり、嫌われはしないかという心配でおじけついているのだ。

・それに、彼女はもうそろそろ思慮とおだやかな愛情の時期である、女の秋に近づいていた。この年頃は、始まりかけた円熟に眼の色も深みのある光をおび、情熱と人生の経験とがよく溶け合い、もう花の咲き終わろうとする季節にあたって、全人間が美の調和の中にあふれるばかり豊かにあらわれる時なのだ。

 本作には私なりの思い入れがある。それはフレデリックとデローリエが私及び高校時代の親友G君と似ているからである。

 私たちの体験と、フレデリックやデローリエが経験した出来事とはかなり違うが、夢を抱いて首都に出て行ったこと、首都で波乱万丈の青春を送ったことはかなり似ている。

 古今東西野望を抱く田舎の青少年は皆同じである。一例として70年代初頭に公開された『真夜中のカーボーイ』が上がるだろう。夢を抱いた地方の若者は大都会に憧れた。

 私たちは60年代末に栃木県北部にある県立大田原高校の学生だった。その高校は7年前那須雪崩事故で当校生徒を亡くし、全国にその名が知られた。

(大田原高校。私が入学した時、この古い木造校舎がまだあった)

 当時は大学紛争が花盛りで、その波は高校にまで及んで来た。高校生が政治や社会問題に目覚め活動したのである。日本だけでなく世界の若者が立ち上がった。その背景にあるのはベトナム戦争、ソヴィエトのチェコ侵入、中国の文化大革命がある。

 私は高2の時、G君と同じクラスになった。G君は隣の湯津上村(今は大田原市)の小さなか農家の出であった。彼は社会主義に関心を抱き、反米の立場を取っていた。席が私の後ろの彼は学校規則に対する疑問や時事問題に関する意見を私に語った。その意見は未熟だが、正義感に基づいていた。文学少年の私は、反米にはくみしなかったが、学校規則に対する反発では一致した。 

 当時の我が校は長髪を禁止し、文化祭を開かなかった。要するに「質素堅実」の校訓をかざして、「本校の学生は勉強、もしくは運動だけに打ち込めばよい」という考えであった。しかし世の中が騒然としてきたので、この姿勢に対する不満はマグマのように生徒の間に広まりつつあった。事実1年生及び2年生の時の生徒総会で先輩たちが議題に取り上げた。

 G君は私や他の級友を誘って、壁新聞を作ることを提案した。そこに上記の問題に対する私見を書いたのである。それを教室に貼っていいかと担任に聞いたら、担任は認めてくれた。この辺のことは日記に書いておいたので、ここに記せるのである。今思えば、担任のK先生は寛容だった。

 その年の卒業式の時、前生徒会の役員たちがいきなり壇上でマイクを奪って、全生徒に向かって長髪禁止は非合理だと訴えた。以前から学校側に訴えても無視されたので実力行使に出たわけである。式は騒然となり、彼らは一時卒業延期となった。

 この出来事は翌朝の新聞に大きく取り上げられた。栃木県の高校では初めての事件だった。

 彼らが卒業した後、そのバトンを引き継いだのがG君や私を含めた有志グループである。

 その結果、1学期に長髪が許可され、2学期に文化祭が開かれた。私たち有志グループはベトナム戦争を考えるシンポジウムやフォーク集会を開いた。

(新宿駅のフォーク集会。これを真似してやったが、集まったのは10人程度)

 私はギターが弾けたのでフォーク集会を担当した。岡林信康の『友よ』、高石ともやの『受験生ブルース』、フォークルの『戦争を知らない』を歌った。同市内の女子高生が結構参加したので私は緊張した。女子高生と接する機会がなかったからである。当時の田舎の高校生の大半は男女交際をしていなかった。

 こんな高校時代を送ったので、私とG君は学業では劣等生であった。そしてまもなく旅立たなければならない。

 私は小説家か詩人になりたかった。それが無理なら出版社社員、それも駄目なら書店員。ただ大学で文学を学びたかった。文人たちを多く輩出している早稲田に行きたかった。しかし現役で受かるのは無理なので、浪人することに決めた。

 商売をしている我が家は狭く、私には自分の部屋がなかった。そのため家を出て東京で浪人したかったが、父は金がかかると許さなかった。それで私は牛乳配達しながら予備校に通える制度に応募した。新聞配達か牛乳配達をしながら学校に通いたい生徒を東京の新聞店や牛乳店が募集していたのである。

 一方、G君は、家が小さな農家で兄弟が多かったので、進学を諦め、就職を選んだ。その他の理由としては、革命家を目指していたことが挙げられよう。彼はマルクスにひかれ、プロレタリアートの道を進みたいと考えていた。働くなら地元以外の場所に行きたかった。

 

(G君はゲバラに憧れた)

 ここからが『感情教育』の主人公たちと重なるのである。

 私は牛乳配達に挫折し、親に泣きついて、最低限の生活費を送ってもらいながら、予備校に通った。G君は千葉県東金の小さな工場で働いた。その頃、新宿の風月堂で再会を果たした。店内の雰囲気に私たちは「東京」を感じ、興奮した。

(風月堂の内部は田舎から出て来た私にとって衝撃的な異空間だった)

 私は一浪の後、志望の早稲田には落ちたが、ライバルの慶応に入った。

 G君は、工場を数か月で辞め、上京して五反田の新聞店で働いた。この頃G君は大学でマルクス主義経済学を勉強したい願望に襲われ、明治学院の経済学部を受験した。だが、自信がなかったのだろう、私は発表を見に行ってくれと頼まれた。結果は落ちていた。でもG君はこれでふっきれ、プロレタリアートして生きると決意した。ただし共産党や社会党、新左翼の過激派に入らない道を選んだ。

 ただ、現実は厳しい。私は一作も書けず、G君の夢想について来る仲間はいなかった。

 G君は新聞店の職場を1年ごとに替えた。五反田、葛飾の尾花茶屋、杉並の堀之内、蒲田、大井町と転々とした。変わる度に遠方へ旅行した。一時北海道で牧童となる夢を追ったが、挫折して舞い戻った。

 これらの経験を経て、G君の内面は変化して行った。革命家志望を辞め、仙人でもなろうかなと漏らしたことがあった。戦前に生まれていたら、俺は大陸浪人になっていたと思うとも語った。

 私も小説家や詩人の道が無理だと思い、それなら編集者の道に進もうと考えた。 

 互いの夢はうまく行かないが、何しろ青春期である。それも花の都大東京で暮らしている。G君は朝食及び住居完備の新聞店員なので経済的には恵まれた。太っ腹で、私をいかがわしい場所に連れて行ってくれた。

 当時、トルコ風呂が全盛で、川崎堀之内はそのメッカだった。ストリップは全裸が見られる、東神奈川、西船橋、松戸など東京の周辺地の劇場が有名だった。

 

 食事もおごってくれた。初めて朝鮮焼肉を食べ、カルビやロースのうまさに舌を巻いた。まだ焼肉は現在のように一般的ではなかった。 

 その頃に読んだのが『感情教育』なのである。私は主人公たちに自己投影した。

 本書の最後はこういう場面である。パリでの夢が叶わず、二人共帰郷し、中学時代を回顧する。

「あの頃がいちばんよかったな!」

「うん、そうだ、あの頃がいちばんよかった!」

 この下りを読んだ時、私は、自分とG君の運命はこうなるのではないかとふと思った。それでG君にこの本を貸した。

 数か月後、G君に会った時、彼は、面白くなかったと答えた。もともと彼は小説は読まないタイプである。彼にとって帰郷などは考えられなかった。家を出た彼に帰る場所はなかったのである。小さい農家は彼の兄が継ぎ、兄には家族がいた。

 最終的に私とG君の運命はこの本と違った。私はフレデリックのように帰郷し、G君はしなかった。

 

 私が郷里で働き出して10年以上経った頃である。90年代の初めの頃だった。私は40歳を過ぎていた。

 G君とは疎遠になり、彼がどこで何をしているのか分からなくなっていた。

 それが突如現れたのである。帰省した折、私の実家(衣料店)に寄ったのだ。母から電話があり、実家からそう遠くない所に住んでいた私は実家に赴いた。私たちは邂逅を喜んだ。彼は埼玉県の東川口で新聞配達を行っていた。

 私と疎遠の間、向ヶ丘遊園やその他の地で新聞配達を行っていたらしい。私は家庭を営んでいたが、彼は独身のままだった。父親の葬儀の際は、家族との音信を経っていたので、参加出来なかったとも言った。

 革命家の夢は消え、将来どこかで自給自足の生活をしようかなと語った。それは昔と変わりなかった。私は彼に帰郷を勧めたが、彼は、それは出来ないと言下に否定した。

 私の両親とG君は波長があったらしい。それから1年に1回の割合で帰省する度私の家により、話好きな父と談笑し、私とは近況報告を交わした。

 『感情教育』の主人公たちと違い、帰郷したのは私だけだった。高校時代の思い出も話に上ったが、二人共「あの頃はよかった」とは言えなかった。

 その頃G君は正社員として働いているのでそれなりの収入があった。購入した車で来たこともあった。また、携帯電話を購入した。まだ一般的に普及していなかった。私も持っていなかった。私の前で携帯で話している姿が焼き付いている。

(1990年代の携帯電話)

 45歳の時に立ち寄ってくれたことが最後になった。母親の葬儀の帰りだという。

「お母さんを大切にしろよ」

 彼は、自分は親不孝をしたと私に言った。

 でも、私が想像する限り、彼のご両親は彼の生き方を温かく見守ってくれていたと思う。

 高校時代、G君は宇都宮で行われた労働組合の反戦デモに参加し、担任が父親に停学を匂わせた。その時父親は息子の正義感を尊重したい、自分は息子を信じていると抗弁した。このことをG君は私にうれしそうに語った。

 私は両親の悪口を彼に何度も語ったが、彼は一度も私にもらしたことがなかった。むしろご両親の生き方を尊敬していたように見えた。

(G君の家の近くにある寺。彼は光丸山〔こうまるさん〕と呼んでいた)

 彼の父親は農家の次男に生まれたが、旧制中学に行けなかった。小学校を卒業して上京し、大井町の工場で働いていた時に、栃木県南那須村出身の母親と知り合ったらしい。

 徴兵された時、生まれたばかりの女の赤ちゃんを連れて母親は実家に疎開し、戦後、父親は実家の土地を分けてもらい分家として農業に励んだ。その収入だけでは食べていけないのでご両親共土木作業のバイトもした。それで末っ子のG君を含む4人のお子さんを育てた。4人共学業が出来たのでこの地方の進学校に進んだが、上の学校に行かせる余裕がなくて卒業後全員就職した。長女は隣の市で働いた後、隣町の素封家に嫁ぎ、長兄は村役場に勤め、次兄は上京して秋葉原の金物屋の卸問屋に勤めた。

 G君が杉並に引っ越した時、彼のアパートで私は次兄にお会いした。優しそうな人で、それから数年後、栃木県中央の田舎町出身の女性とお見合いして、埼玉に所帯を持った。

 G君はこのご兄弟に対しても悪口を言ったことがなかった。むしろ彼らをリスペクトする言い方をした。長女の方とは十歳近く離れていたので、幼児期に大変世話になったと話した。

 私はうらやましかった。父と仲が悪かったし、母や姉妹にもそれほど肉親の情を抱かなかったからである。

 G君はその後勤め先の新聞店経営者とうまくいかなくなり、店を辞め、スーパーの売り場の店員になった。住所も変わった。携帯も処分した。電話がつながらないので手紙を書くと、戻って来た。引っ越したのは間違いなかった。これ以降消息は途絶えた。

 

 それから15年経過した。定年退職を迎えた私は彼の実家のお兄さんに彼の消息をたずねた。受話器から漏れるお兄さんの反応からG君のことに触れたくない印象を抱いた。明言はしなかったが、行方が分からないようだった。

 でも、たくましい彼のことである。日本のどこかで仙人になっていると私は信じている。


 その他の作品では『三つの物語』(短編集)を読んだが、内容は全く忘れてしまった。感動した記憶はない。今回この記事を書くに当たり、ひも解いてみたが、興が湧かなかったので途中で止めてしまった。

 

 最後に、フローベールと言えば、中村光夫を忘れてはいけない。

 私は小林秀雄やその周辺にいた人物に興味を持ち、彼らの作品を渉猟した。とりわけ大岡昇平には魅せられた。その他、中原中也、河上徹太郎、永井龍男などもけっこう読んだ。

 中村光夫もその一人であった。彼は東大の仏文で小林の後輩に当たる。在学中、フローベールに引かれたゆえ、フローベールに関する論評をたくさん残した。

 私は、彼の『ギュスタフ・フロオベル』を慶応の図書館で読み、論理の展開と鋭い分析に眼を見張った。頭脳明晰な人だと感心した。

 その縁で彼の作品を幾つか読んだ。思い出すのは『秋の断章』、自伝的回想の『今はむかし』と『憂しと見し世』である。後者は私の手元にある。

 この回想の時期は戦前及び戦後直後である。彼から見た当時の文壇や世相を読みやすく書いている。とりわけ戦中の食糧難の思い出が面白かった。

 昨今中村光夫は忘れられた作家になってしまったような気がする。彼に光が当てられることを望みたい。

 

              ――― 終 り ―――

 

※次回はモーパッサンの思い出を語ります。