4日目(最終日):11月9日(木)
楽しい京都旅行も今日で終わりである。もう1日いたい。そう思いながら今回の旅の大きな目的である勤行に出掛けた。
勤行は6時半開始だが、15分前には部屋を出た。
外は薄闇である。歩いて根本中堂に向かう。
入口前には何人かの人がいた。
10分前に入口が開いたので入る。案内の僧侶はいない。先に入った人の後に続く。
予想していたより人数が少ない。十数名くらいである。
修理中のため白い工事用シートでおおわれている所は蛍光灯で明るいが、太い柱が続く回廊と思われる廊下や本堂の外陣・中陣は薄暗かった。
ここは撮影禁止なので、ネットの写真を紹介しよう。
こんな感じで参加した。写真は明るいが、実際は暗い。小さな電球だけしか点いてなかったように思う。たとえはよくないが、半世紀以上前の便所の電球の明るさで、黒と朱が混じり合ったような明暗である。
扉や簾の先にある内陣はもっと暗い。灯りらしいものがあるが、これが「不滅の法灯」だろうか。千年以上続いている。朝夕に菜種油を注いでいるらしい。
中陣より3m低いため、簾の隙間から覗くと地底のようだ。本尊の薬師如来を初め三尊が闇の中でおぼろげに浮かんでいる。誠に神秘的な雰囲気である。
(実際はもっと暗かった)
我々は三つある簾のうち左の簾の前に座った。ただし、簾は全開されていない。大きく頑丈そうな扉も閉まっている。
いつのまにか参加者が増えたが、50名くらいだろうか。
そのうち内陣から読経が聞こえ出した。声はけっこうよく通る。
朝の勤行への参加はこれで何度だろう。お遍路の際に多くの宿坊に泊まった。焼山寺、大日寺、鯖大師、仙遊寺、善通寺、高野山の福智院において参加したことを覚えている。
お経の種類は分からないが、般若心経だけは分かったのでその時だけ唱和した。
その後、読経を行っていたお坊さんが法話をしてくれた。30代くらいの若い方だったのには驚いた。
最澄には「一隅を照らす。すなわちこれ国宝なり」という有名な言葉がある。これを引き合いにして人生への取り組み方を語られたのだが、もう一つ心にしみなかった。
私はお遍路をしていたので空海に関する本は読んだが、最澄に関する書籍は開いたことがなかった。
(最澄)
したがって最澄に関して私が知っていることは以下の通りである。
・桓武天皇の庇護を受けた
・法華経の研究にいそしんだ
・唐へは留学生として渡った。同行した私度僧の空海より偉かった。
・密教の習得が不十分だったでの帰国後空海から教えを受けた
・空海の風信帖の宛先は最澄だった
・天台宗を確立した
・南都六宗と思想的に戦った
・死後大乗戒壇を認められた
比叡山延暦寺に関しては次の通りである。
・座主に円仁や円珍や良源など有能な後継者が現れた。
(円仁:慈覚大師)
(円珍)
(良源:延暦寺中興の祖)
・円仁は横川地区を開創した。同郷(下野:栃木県)出身のため親近感を抱いた
・10世紀に円仁派と円珍派が武装して対立した
・高野山が真言密教に重きを置いた単科大学的存在だったのに対し、法華宗、禅宗、念仏、浄土教などを教えた総合大学に近かった。これは高野山が振るわず、比叡山が栄えた理由の一つである
・念仏や浄土教を源信が発展させ、法然がその影響を受け、親鸞が続いた。禅宗からは栄西や道元、法華宗からは日蓮が現れた。これをもって比叡山は日本仏教の歴史的産地になった
(源信〔恵心僧都〕:『往生要集』を著した。横川に彼が隠棲した恵心院がある。良源に師事した)
・高野山が広い盆地に恵まれているのに対し、比叡山は谷間が多かった。この地形の違いは、宗教都市の発展に関係している
・信長によって焼き討ちされ、根本中堂を初め多くの伽藍が消失し、僧や住民が殺されたこと
私は知っているのはこの程度である。ただ、帰宅してから気づいたのだが、今はYoutubeで名所の概要が投稿されている。延暦寺自体も発信している。これらの動画は私の知識程度のことを教えてくれる。視覚的に立体的に学べるので、事前学習には最適である。私も次回から参拝予定の寺社仏閣は必ず目を通そうと思った。
しかし今回の参拝を通して比叡山への興味が募ったことは間違いない。最澄から宿題を出されたような気がした。調べてみようと考えている。
勤行を終え、朝食の会場に向かった。席は窓辺で眼下に琵琶湖が広がっている。上った朝日を浴びて湖面は光っている。
このような見晴らしのいい場所で朝食をとる。
これは勤行と真逆の経験である。根が貧乏性の私は戸惑った。
食べながら比叡山と関係した人物を思い出した。
一人は今東光である。
半世紀前、進路に悩んでいた私は、行きつけの定食屋で週刊プレイボーイを開いた。
そこで今東光が若者相手に「極道辻説法」というお悩み相談を行っていた。その回答が痛快なので私はとりこになった。それをまとめた単行本を買い求め、むさぼるようにして読んだ。
笑い、涙し、感動した。いつの間にか悩みは吹き飛んでいた。
それまで私は、彼をただの破戒坊主だと思っていたが、そうではなかった。彼が人生で行き詰まり、全てを捨てて延暦寺に入り、過酷な修業の三年籠山に耐えたことを知った。
彼を見直し、彼をさらに知りたくなり、回答シリーズを全冊読んだ。
さらにその一部を録音したレコードまで買った。
自分をさらけだす彼の声色には味わいがある。時に毒舌、時に興奮、時に諭す。しかし若者を見る眼差しは柔らかい。
教養も幅広く、深い。元々文学青年だったが、僧になったことにより、仏典や教義に造詣が深くなった。
小説も読んでみた。その中で『十二階建崩壊』という青年期を振り返った私小説が面白かった。
私は社会人になると、今東光を読まなくなった。しかし、彼から受けた恩恵は忘れない。
もう一人いる。
瀬戸内寂聴である。
作家瀬戸内晴美は今東光の元で得度を行い、寂聴になった。
(後姿の僧が今東光)
いわば今東光の女弟子である。
彼女に対して私は文学的関心を抱いてなかったのだが、65歳を過ぎてから関心を持った。それは私がお遍路を始めたことによる。
徳島市を歩いていたら、「瀬戸内仏具店」という看板が目に入った。
寂聴の生家が確か仏壇店だったことを思い出し、もしかしたらここがそうではないかと思った。
その頃、寂聴は人気絶頂で、エッセイを新聞や雑誌でよく書き、私も時おり目にしていた。するとしばらくして彼女は亡くなった。彼女と交遊関係があった作家たちが追悼文の中でこぞって推奨したのが『場所』という作品である。
これは、自分の生い立ちや家族、愛人との出会いと別れを、それらが繰り広げられた「場所」を訪れることで回想する内容である。私小説と言ってよかろう。
昨年私は読んでみた。そして感動した。本作に出て来る場所の幾つか(眉山、井戸寺、国分寺)は、私がお遍路で歩いた所なので不思議な臨場感を味わった。このことも感動につながっている。
(眉山)
考えさせられたことが幾つかあった。
まず、本作が79歳の時に完成させたという事実に驚いた。筆力が落ちてない。芸術的完成度が高いのである。描写もしっかりしている。
作家の多くは80歳になると筆力が落ちて来るのに寂聴は違った。恐るべき頭脳の持ち主である。彼女が衰えずに100歳近くまで生きたのも分かるような気がした。
次に、彼女は紛うことなく芸術家だということである。彼女は芸術(小説執筆)のために実子と夫を捨てた。最終的には愛人とも別れ、芸術を選んだ。
そもそも芸術家は非社会的人間である。彼女がその道を選んだ以上、一般人の生き方とは別れなければならない。その姿勢を貫いて数々の労作を仕上げ、80歳になっても美を追求した。芸術にひれ伏して長生きするとこのような鬼神になる一例である。
第三は、業の深さということである。
彼女は実子よりも芸術を選び、夫を捨てて年下の愛人の元に走った。一般人に出来ないことを行ったので世間の指弾を浴びた。現代と違い男尊女卑が濃厚な時代である。しかし、ひるまず創作に励んだ。
年下の愛人とうまく行かなくなると、別れ、今度は年長の作家二人と愛を育んだ。彼らは妻がいたので不倫を犯したことになる。
そのような行為は彼女の業(ごう)がなせるのだろう。彼女は我々より格段に業が深いのだ。
ただ、業の深さは快楽を与えてくれる一方、苦悩も与える。とりわけ子どもを捨てた辛さは彼女を苦しめた。その点も本作ではきちんと描かれていた。
仏門にでも入らなければ、波乱万丈の生き方をしてきた自分は救われないと思ったのだろう。自分と同業で、自分と同じ道を先に進んでいた今東光の手で剃髪してもらい、寂聴という法名まで頂いた。彼女からすれば当然の帰結なのだろう。彼女も先輩今東光の後を追い、比叡山で修業した。
七十歳を過ぎて、この本と巡り会えたことは幸せであった。二十年前に読んだらも寂聴という人間を理解できなかっただろう。
これから坂本ケーブルで下界に降りる。チェックアウトをしてケーブル延暦寺駅に向かう。朝の歩行は気持ちがいい。
15分くらいで駅に着いた。
8時の初発に間に合わなかった。
乗車券を買う。
次まで30分くらいある。屋上に行ってみよう。
今日も快晴。眼下に坂本の街が広がる。動画を撮った。
近くの釈迦堂に寄る。屋根は檜皮葺である。私が参拝したお堂全てが檜皮葺であった。檜皮葺の美しさで統一されているので風格がある。
続いてメインの金堂に参拝する。豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたものである。重厚さをかんじさせる姿は実に美しい。国宝である。
しかしこの美しい建物群に至るまで三井寺の歴史はすさまじかった。
この寺は平安時代円珍によって再興された。彼の死後、延暦寺では円仁派と円珍派で抗争を繰り返し、その結果円珍派は追い出され、この寺で独立を図った。やがて円珍を宗祖とした天台寺門宗(寺門派と呼ばれる)として発展する。
ところが、延暦寺(山門派と呼ばれる)との対立は続き、11世紀の終わり頃から武装して戦うようになる。僧兵の誕生である。
源平の戦い、南北朝の争い、戦国時代と争いを繰り返し江戸時代まで続いた。どちらかと言えば山門派の方が山の上にあるので有利である。三井寺は約700年の間に50回くらい焼かれ、全焼は14回に及んだという。
信長は両者の対立を利用し、延暦寺焼き討ちの際三井寺に本陣を構えた。
宗教と政治は表裏一体である。古今東西それは変わらない。血生臭い歴史がこの静かな境内に流れているのだ。
金堂の近くに閼伽井屋(おかいや)という小さな建物がある。この井戸で湧く泉を護るために作られた。この泉は天皇の産湯に使われたところから霊泉とされてきた。御井(みい)と呼ばれ、それが三井に変化したらしい。三井寺という名の由来の場所である。
鐘楼もある。鐘の音色が有名で、「三位の晩鐘」と呼ばれている。
続いて一切経蔵を見る。この屋根も美しい。中に経を納めた八角輪蔵がある。
隣の唐院という名の場所に行く。三重塔を仰ぐ。
続いて大師堂。この大師は弘法大師ではなく、智証大師(円珍)のことである。
もっとじっくり見たいが、これから石山寺に行かねばらない。午後2時には京都を立つ予定でいる。
他には寄らず、寺を去る。帰宅して調べたのだが、この寺には見どころがたくさんある。再訪する機会があったら、ゆっくり見よう。
三井寺駅に戻り、電車に乗って石山寺まで向かう。
車窓から琵琶湖が望めた。20分くらいで石山寺駅に着いた。
今回、石山寺に行こうと思ったのは、平安時代の女流作家に興味を持つようになったからである。
当時、都の貴族の間には観音信仰が流行り、如意輪観音で名高い石山寺への参詣(石山詣)が宮廷の女官たちの間で盛んになった。『枕草子』、『源氏物語』(以下、『源氏』とする)、『和泉式部日記』、『蜻蛉日記』、『更級日記』、に石山寺の記述が出て来る。後世作られた『石山寺縁起絵巻』や『源氏』の注釈書等に紫式部が石山寺で源氏物語の構想を練ったという伝承が記された。
『源氏』には思い出がある。
半世紀近く前、私は、中・高の国語教師の免許を取るために通信教育で国文学を学んだことがあった。『源氏物語』の科目があり、原文をひも解かねばならず、岩波の本を買ったのだが、とても全文を読みこなすことは出来なかった。
当時働きながら通信教育を受けていた私には読破する力と意欲は欠けていた。
『源氏』の特長の一つに主語が省略されていることがある。動詞や補助動詞等の尊敬表現で主語が誰かを突き止めなければならない。これが難しかった。
谷崎文学が好きな私は彼の『新訳源氏物語』を開いたが、彼も原文を尊重して、主語を省いた訳し方をしている。英語や翻訳文や論理的文章の記述などで主語をふんだんに使っている私には読みにくくて仕方がなかった。これも途中で放擲した。
科目の単位は参考書を利用してなんとか取れた。
それから40年の月日が流れた。今時間がたっぷりあるので谷崎源氏を読んでみよう。
さて、彼女たちに影響を与えた石山寺はどんな場所なのか。それで今回の旅行の締めくくりにここを選んだのである。
駅から寺までの道は分かりやすい。左側に琵琶湖から出ている瀬田川が流れている。
歩くこと10数分、東大門に着く。石山寺は天平時代に良弁(東大寺初代別当)が開創した。
ここを潜り、参道を進むと、志納所に着く。ここで拝観券を買う。
入ると、くぐり岩が現れる。石山寺はその名の通り、石の山を利用した寺である。
坂道を上がると、小振りのお堂が建っている。毘沙門堂である。
蓮如堂である。真言宗の寺なのにどうして浄土真宗中興の祖である蓮如を祀る堂が建っているのだろう。そういえば四国の善通寺(真言宗)にも親鸞堂が建っていた。宗派の異なる名僧を祀るおおらかさがあるのが日本の仏教の特長かもしれない。
この境内で目を引いたのが硅灰石(けいかいせき)である。これを見ると、なぜ石山寺なのか、納得する。
本堂(国宝)に向かう。
ここの本尊は秘仏である。高さ5mに及ぶ如意観音の座像らしい。
面白いことには堂内に源氏の間が設けられていることだ。誰が作ったのだろう。伝承では、八月十五夜の名月の晩に「須磨」「明石」の巻の着想を得たと言われてい
る。
本堂の縁側に立つと、木々が紅葉し始めていた。
本堂を出て多宝塔(国宝)まで上がる。源頼朝が寄進した。多宝塔の中では最古だそうだ。形が美しい。
この高台から見る瀬田川が美しい。なお、この川はやがて宇治川となり、最後に淀川となって大阪湾に注がれている。
多宝塔の裏手にある豊淨殿という宝物館を訪れる。仏教関係の宝物以外に「石山寺縁起図絵」を初め『源氏』関係の文化財が多く展示されていた。来年度のNHK大河ドラマが紫式部や藤原道長を扱うので、便乗しようとしているのか。寺をよりよい形で維持するには収益を上げなければいけないのだろう。
そういえば広い境内に紫式部の像もあった。今や式部はパンダの役割を果たしているのかもしれない。
京都駅でおみやげを買う必要がある。そろそろお暇しなければいけない。
石山寺駅から京阪電車に乗り、二つ目の京阪石山駅で降りる。
隣接のJR石山駅に移る。
JR琵琶湖線(東海道本線)に乗って京都駅へ。30分もかからない。
キオスクでお土産を妻は買う。
京都を2時33分の「ひかり」で立ち、東京駅5時12分着。
この電車は空いているので、これからもこれで帰ろう。
東北新幹線に乗り換え、那須塩原駅で上りの普通電車にまた乗り換え、故郷の駅へ。外は真っ暗だった。
こうして楽しい京都旅行は終わった。京都は実に面白い。こんなにいい所とは思っていなかった。歴史・文化・寺社仏閣が好きな者にはたまらない。訪問したい所はたくさんあるのでまた訪れる予定だ。
私たちは年2回(春と秋)遠出の旅行をしている。60代はお遍路がライフワークだったが、70代のそれは奈良・京都を中心とした関西への旅になりそうである。
私のような関東北部に住む人間にとって、歴史と文化の奥が深い近畿地方は魅力に富んでいる。
来春は2回目の奈良の旅を予定し、吉野・箸墓古墳・室生寺などを訪れる。
――― 終 り―――
※次回の記事は、フランス文学に戻り、コンスタン、ブリア=サヴァラン、メリメを紹介します。