11月6日(月)から9日(木)まで、3泊4日で京都及び滋賀へ旅して来た。

 

 ここ数年、日本の古代史に興味を抱き、関連著書を読んだ。通史に関しては、中央公論社の『日本の歴史』を読んで来た。半世紀以上前の本であるが、大学時代に親しんだので、そのシリーズを古代から読んでいるのである。

 奈良時代が読み終わり、春頃から平安時代に入った。『日本の歴史』では3冊当てている。

 何しろ平安時代は400年に近い長さである。江戸時代より100年以上長い。主役は藤原氏、舞台は京都。中国や朝鮮からの影響が弱まり、日本化が進み、王朝絵巻が繰り広げられた。

 改革より因習を重んじているため、なかだるみが感じられた時代である。摂関政治を仕切っていた藤原一族の名前を覚えるのに苦労した。

 ただ、仏教に関心を持っていたので、最澄や空海の登場は面白く読めた。空海に関しては、お遍路や高野山参詣を通して自分なりに掘り下げた。今回の旅は、もう一人の巨匠の最澄を感じるのが目的である。そのためには比叡山延暦寺を訪れなければならない。運よく、そこの宿坊に泊まれることになった。

 延暦寺からは法然や親鸞を初め、鎌倉仏教の宗祖たちが多く出ている。半世紀以上前の修学旅行で立ち寄ったが、深山にあったことだけしか覚えてない。

 京都はその後も歴史の舞台であり続けたので、訪れたい名所旧跡はたくさんある。その中から幾つかに絞った。その他は後に回す予定だ。これから何回か京都へ来ることになるだろう。ちなみに京都への旅は先述の修学旅行を含め三度目である。前回は20年前。友人から誘われ一泊の旅である。親交が目的だったので、訪れた寺社仏閣(清水寺、銀閣寺、南禅寺)の強い思い出はない。また当時の私は京都に興味がなかった。

 今はその逆なので有益な思い出がたくさん残せた。

 

 1日目:11月6日(月)

 前回同様、故郷の駅から宇都宮線黒磯行きの下り電車(5:57)に乗り、隣駅の那須塩原駅で6:12発上り東北新幹線東京行きに乗る。始発なので空いている。

 東京駅には7:20に着いた。前回は8:03発の東海道新幹線大阪行き「ひかり」に乗ったが、駅弁を買っても7:33発の「ひかり」に間に合った。2列席に座れたが、空席もあるので次回もこの電車で行くことにした。

 駅弁とは崎陽軒名物シューマイ弁当である。前回は帰りに買って家で食べた。あまりにも美味しかったので、今回は行きの東海道新幹線の中で朝食として食べることにした。

 美味しい。この弁当の味は自分に合う。キヨスクで買い求めた時、近くにいた人も買っていた。人気があるらしい。

 富士山の三分の一が雲のかさにつつまれていた。

 10:12に京都へ着く。

 コインロッカーに荷物をしまった後、駅地下のスターバックスでコーヒーブレイク。

 昨年娘から1万円分のスタバのギフトカードをもらった。春の奈良旅行で使ったりしたが、半分以上余っているので今回の旅でも使うことにした。

 すっきりしたところで東寺へ。歩いても行けるが、近鉄京都線で東寺駅まで行くことにした。

 

 駅から東寺まで歩いて五分も掛からなかった。南大門前で写真。

 東寺は空海が嵯峨天皇から下賜された真言密教の根本道場で、真言宗の総本山である。数年前、お遍路を行い、無事結願したので是が非でも参拝したいお寺であった。

 ただ、ここからは入れない。ぐるっと回って慶賀門へ行く。

 しかし、金堂、講堂、五重塔を見学するのには拝観料が取られる。宝物館や観智院も見られる共通券を1000円で購入。

 入口は食堂(じきどう)のそばにある。

 現在宝物館では秋期特別公開が実施され、空海の「風信帖」(国宝)が展示されている。これを見るのも今回の旅行の目的である。

 2019年に上野の東京国立博物館で「特別展東寺空海と仏像曼荼羅」が開かれ、立体曼荼羅の仏像の大半、両界曼荼羅、風信帖が展示され、私は見に行き、その素晴らしさに目を見張った。かなりの人でにぎわっていたことも覚えている。

 今回の特別公開では、前半に両界曼荼羅、後半に風信帖が展示された。

 まず、五重塔(国宝)から。江戸時代に再建されたもの。高さが日本一だという。迫力は確かにある。奈良の興福寺のそれに似ている気がした。これまで名だたる寺院の五重塔を見て来たが、法隆寺のそれに適うものはない。千年以上の時を越えて存在しているという事実がそう思わせるのか。

 

 次に金堂(国宝)。風格がある。

 豊臣秀頼が寄進し、片桐勝元が再建の任に当たった。歴上の人物が出て来るのがうれしい。本尊は薬師如来。なお全ての堂内及び宝物館内は撮影禁止である。

 続いて講堂に移る。

 この中に「立体曼荼羅」と呼ばれる多くの仏像が安置されている。これを鑑賞したいがため本寺に参った。大半は二度目であるが、博物館で見るのと違う。本来の場所で見ると迫力が違う。確か亀井勝一郎だと思うが、博物館の仏像は美術品として見がちだが、堂内の仏像は祈りの対象として手を合わせてしまう、というようなことを言っていた。私も賛成である。

 曼荼羅ゆえ中心にあるのは大日如来である。

 これを囲むようにして20の仏像が置かれてある。このうち五仏以外の16の仏像(五菩薩、五明王、梵天帝釈天、四天王)が国宝である。すごいというしかない。圧倒されるとはこういうことだ。

 大日如来の前で合掌した後、一つ一つを鑑賞する。これらの中で人気があるのは梵天と帝釈天である。

(梵天)

(帝釈天)

 4年前の展覧会では梵天は公開されなかった。帝釈天は覚えている。整った顔だちは印象に残る。現代人の好みなのだろう。実にハンサムである。

 堂内を一周できるのが素晴らしい。薄暗いのがいい。立体の側面や背面も見られる。仏像好きにはたまらない。

 続いて西院御影堂(太子堂)に回る。国宝である。ここにはこれまた国宝の不動明王坐像が安置されている。秘仏ゆえ公開されてない。

 次に宝物館に入る。

 お目当ての風信帖を凝視した。これも前述した展覧会で公開されていた。したがって二度目である。ただ、あまり覚えていないかった。

 風信帖について思い出がある。私は高校中学の国語の免許状を取得しているが、書道の単位が必須であった。その際風信帖の模写が課題として出された。三筆の一人である空海の筆跡は書の手本とされていた。単位取得のため必死に何枚も反故にして書き上げたことを思い出した。

 筆跡の良し悪しは分からないが、1200年前の書状という歴史的事実はあまりにも重い。

 腐朽せず現存しているということは、当時の墨と紙がいかに素晴らしいかを物語っている。

 それで思い出したことがもう一つある。2018年に東京国立博物館で「仁和寺と御室派のみほとけ」という特別展が開かれ、私は見に行った。

 そこで国宝「三十帖冊子」が展示されていた。

 これは空海が唐に留学中、経典を書したものである。なんと字が鮮明、紙が腐朽していないのである。これだけの品質を生み出した中国文明のすごさに改めて驚いた。三十帖冊子の方が風信帖より崩れの度合いは少なかった。

 深い感動を味わった後、観智院へ。

   ここの客殿も国宝だそうである。石庭の手入れが効いている。

 建物自体はさほど関心を引かなかったが、宮本武蔵作の絵には驚いた。これは本物だろうか。床の間の壁に描かれた「鷲の図」と襖絵の「竹林の図」である。墨絵である。

 鷲の図などは色が落ち、一見鷲だと分からない。一説によると、吉岡一門との決闘の後東寺に滞在した折に描いたらしい。20代前半のことである。技法を長谷川等伯に学んだという説もある。彼の画才は有名だが、真筆とされているのは晩年の作である。確定されてない以上、「伝宮本武蔵」とすべきではないか。

 

 雨が降り出した。折り畳み傘を取り出し、西本願寺に歩いて向かう。グーグルマップには歩いて16分と出ている。

 道に迷い、花屋町通に面した入口から入る。目の前に伝導本部が立っている。

 境内への入場は無料である。これはうれしい。

 数年前、鈴木大拙の『日本的霊性』を読んだ。

 著者は親鸞を絶賛し、彼の出現によって人民は仏教を信じるようになったと説いた。平安時代の仏教を信仰したのは天皇や貴族であって、宗派の目的は主に国家鎮護だったとも言う。それを物語っているのが東寺の正式名称である。教王護国寺の「護国」にその姿勢がよく出ている。

(親鸞)

 仏教に疎かった私は驚いた。てっきり人民は天平時代から仏教を信じていたと思っていた。その後、歴史書や仏教関連書を読んだら、鈴木の言うことは正しいことが分かった。

 このことによって私は親鸞に興味を抱き、親近感を覚えた。親鸞が私の住む栃木でも布教した事実が拍車を掛けた。

 伝統的仏教では浄土真宗の信者数が最大である。南無阿弥陀仏を唱えれば救われるという教えはシンプルである。文盲である人民にこれほど分かりやすい教えはない。だからこそ広まったのだろう。とりわけ源平の戦いや戦国時代に広まったのは当然である。殺し合い、天災、飢餓。地獄を見れば人は何かにすがりたくなる。

 このような地点に立つゆえ、開放しているのだろうか。思えば宗祖で妻帯したのも親鸞が初めて。仏僧の長髪の認可もしている。

 我が家は真言宗(檀家として)であるが、私が大人になった時浄土真宗の親戚を名古屋に持つようになった。そこで仏事があり、参加したら、お坊さんが長髪っだったのに驚いた。でも真宗では当たり前のことらしい。

 阿弥陀堂に出た。

 

 前に広がる庭が広い。それより寺が大きいのにはもっとびっくりした。事前学習で知っていたが、実際に見ると圧倒される。木造建築ゆえ余計驚かされる。

 向かって右が阿弥陀堂で左が御影堂である。どちらも江戸時代の再建で国宝である。

(阿弥陀堂)

(御影堂:イチョウが目印)

 御影は「ごえい」と読む。お遍路で巡った札所では「みえい」と読んでいた。宗派によって違うらしい。御影堂の方が大きい。両者は渡り廊下でつながっている。

 それにしても木造建築でこれだけ大きいことは驚きである。どうやって築造したのだろう。余談だが、耐震性も気になる。

 お茶所で地図をいただく。

 御影堂から上がる。

 御影堂の中である。広い。千人くらい入れるか。普通のお寺からすると考えられないくらいの広さである。近くの賽銭箱にお賽銭を投げ、手を合わせる。

 二つのお堂をつなぐ喚鐘廊下(渡り廊下の正式名称)に出る。

 阿弥陀堂の中も二つの堂内を巡る。こちらも広い。

 堂内に椅子がたくさん置かれているのはうれしい。座って信仰ということを考えた。

 普段私は宗教を意識しない。苦境に陥った時のみ意識する。その時の自分を自分が救えないからである。俗的な表現を使えば、「神頼み」である。

 ただ、今回の旅でもそうだが、目に見えない、畏怖を感じるような、敬虔な存在が祀られ、何百年にわたって信頼を勝ち得て来た寺院、教会、神社ならば私は手を合わせる。そうすることによって心が洗われるからである。したがって宗教心もしくは宗教性はある。

 しかし、自分を滅却してまでも特定の宗派に帰依することは私には出来ない。またしない。葬式で寺に世話になるのは、先祖がその寺の檀家になり、その寺との縁を現在切れないという現実的理由による。

 四国をお遍路している時は札所で宗教心を強く意識したが、今回の旅のように旅行

で寺社仏閣を回る時は内面における発酵まで感じない。むしろ、この建物が、あるいはこの空間が千年あるいは何百年の間人々の拠り所になって来たという「歴史」を強く感じる。その時間に生きた群像に思いをはせ、人間っていったいどういう存在なのだろうと思い巡らしてしまう。

(阿弥陀堂から見た境内。前方に見えるのはお茶所。左の門は阿弥陀門)

 西本願寺を去る。お堂と同じく門も二つある。阿弥陀堂門と御影堂門である。阿弥陀門の方が豪華に見える。

(阿弥陀堂門)

(御影堂門)

 門のそばに表示板が。

 こういう看板も。誰でもご自由に。これこそ本来の寺院の姿ではないか。宗教は全ての人間に平等に接しなければならない。

 

 時間に余裕が生じたので、東本願寺に寄ることにした。当初の計画では入れておらず、2回目の時に参拝する予定だった。

 こぬか雨の中東の方に歩いて15分ほどで東本願寺に着いた。こちらの方が京都駅には近い。門前から京都タワーが大きく見える。門前の通りは烏丸通りでこの下には地下鉄烏丸線が走っている。

 通りに面して二つの門が構えている。御影堂門と阿弥陀堂門である。御影堂と阿弥陀堂の前に設けられている。西本願寺と同じである。

(阿弥陀堂門)

(御影堂門)

 西本願寺の門と似ているが、よく見ると形が違う。御影堂門の方は東本願寺の方がはるかに大きい。

 中に入る。ここも無料である。一般大衆に開放されている。京都や奈良の古刹の多くは有料である。それを考えると真宗は立派である。

 向かって右にあるのが御影堂で、左にあるのは阿弥陀堂である。

(御影堂)

(阿弥陀堂)

 なんと西本願寺と反対である。どうして違うのだろう。西本願寺のそれらに負けないくらいこちらも大きい。明治時代に再建されたせいかこちらは重要文化財扱いである。

 ただ、東本願寺も御影堂の方が大きい。屋根が二重になっているのが特長である。法然の浄土宗も御影堂の方が大きいそうだ。

 ウィキペデイアによれば、宗祖の像を背景に大勢の信徒の前で法話を行えるようにしたためらしい。

 総合案内所で東本願寺の概要を表わした無料のパンフレットをいただく。

 西本願寺にはこういうパンフレットがなかった。

 御影堂に入る。整然とし綺麗である。案内表示も分かりやすい。堂内の奥には宗祖と並んで中興の祖の蓮如上人の像も掲げられていた。蓮如の出現によって教団は一大勢力になったらしい。

 本願寺が西と東に分かれた理由がパンフレットに分かりやすく示されていた。古今東西、宗教だろうが政治だろうが集団は必ず方向性を巡って分裂と結合を繰り返す。

  

 続いて向かうのは二条城である。お寺ばかり見ていると飽きるので世界遺産のお城を入れたのだ。

 ここは徳川慶喜が大政奉還を行った場所である。幕末史に一時凝ったことがあるので実際にその場を見てみたかった。

 歩いて京都駅に行き、そこから二条城行きのバスに乗ることにした。駅で私たちがバス乗り場を探していると、年配のご婦人が案内してくれた。

 私一人だったらそうならなかったかもしれない。大阪でも経験したが、関東より関西の人の方が気さくである。見習わなくてはいけない。

 バスで15分くらいで着いた。

 大型バスの駐車場が整備されていることもあり、大勢の観光客でにぎわっていた。西欧、東アジア、東南アジアなど外国人旅行者も多い。修学旅行の学生や団体旅行の人たちも目立つ。

 入場料を払って東大手門から入る。

 案内板を見る。

 次に唐門をくぐる。

 見どころは国宝になっている二の丸御殿である。江戸城や大阪城の御殿が失われた現在、江戸時代の御殿の様子がうかがえるのはここだけである。

 中に入る。重厚な床板を歩きながら、各部屋を垣間見る。写真撮影禁止。狩野派による障壁画が素晴らしい。松や虎の図が目立つ。松の緑が色あせてない。天井や欄間の造りもすごい。

 大広間の一の間・二の間で大政奉還が行われた。その様子を示すため、将軍や大名(一部)の人形が置かれている。その様子を描いた日本画があったが、意外と広くない。ここで世紀の決断が下されたかと思うと、感慨深さを禁じえなかった。

 慶喜の任期はたった1年である。激動に翻弄された彼の人物像は面白い。歴史家や、幕末を描いた小説家の間でもその評価は分かれている。私が読んだ浅田次郎の『壬生義士伝』に出て来る慶喜は弱腰のリーダーとして描かれていた。

 外に出て二の丸庭園を眺める。

 雨に煙る枯山水も乙なものだ。

 本丸櫓門をくぐって本丸に入る。

 庭園のそばを通って天守閣跡へ。

 天守閣跡で記念撮影。

 高台なので周囲の景色が眺望できる。これから紅葉に彩られるのだろう。

 帰りは地下鉄を利用して京都駅に行く。

 コインロッカーから荷物を取り出し、再び地下鉄に乗る。ホテルの最寄りの駅は烏丸線の四条駅である。京都駅から2つ目。

 外へ出ると、宵闇につつまれ、雨脚が強かった。

 ちょっと道に迷ったが、なんとか見つかった。

 このビジネスホテルは、娘が勤めている会社の取引先なので利用することにした。値段はリーズナブル。

 今回は朝食をここでとらない。老舗の有名珈琲店を利用するからである。

 ひと息ついた後、夕飯を食べに外に出る。予定では「餃子の王将」に中華を食べに行く予定だったが、かなり歩かなければいけないので近くにする。ホテルが面していた四条通にある店に入る。

 名物のタンメンと餃子を注文。ところが、関東のタンメンと全く違っていた。塩味ではなく醤油味。キャベツやもやしは全くなく、野菜はほとんど白菜。所変われば品変わるか。

 ホテルに戻り、風呂に入って、ベッドに潜る。

 

             ――― 続く―――

 

※次回は京都ツアーの2日目の思い出を語ります。前田珈琲、嵐山、天龍寺、高野悦子関連場所、北野天満宮、京都御所、清水寺などです。