スタンダールと同時期の19世紀前半に活躍した作家が何人かいる。そのうち、バルザックと大デュマを取り上げる。実はバルザックの作品は1冊の短編集しか読んでない。大デュマの作品はたった1作、ただ文庫本7冊にまたがる大長編である。しかし2人の作品は強烈な印象を私に残し、大きな影響を及ぼした。

             (オノレ・ド・バルザック 1799~1850) 

           (アレクサンドル・デュマ・ペール 1803~70)

 なお、息子アレクサンドル・デュマ・フィスも作家で『椿姫』を書いた。どちらもアレクサンドルがついているので区別するため父は大デュマ、息子は小デュマと呼ばれた。

 2人の名を知ったのは中学1年、1964年(昭39)だった。東京オリンピックが終わった頃だろう。

 小6の時、担任の影響で日本史が好きになり、読書に興味を持った。それが中学生になったら物語に移った。それで母にねだり、近所の本屋で小学館の「少年少女世界の名作文学」のシリーズをとった。毎月1回配本で、中学校3年生くらいまでとっていた。

 子供向けなので、原作のストーリーをなぞっただけの読み物である。全ての漢字にルビまで付いていた。今なら小学生向けなのかもしれないが、私を含め60年前の田舎の中学生は幼かったのでこのような本に手を出していた。都会の早熟な中学生は飽き足りないものを感じるだろう。

 その中にバルザックと大デュマの作品が収録されていた。バルザックの『田舎医者』と大デュマの『巌窟王』である。それらに夢中になったので、彼らの名を覚えたのである。

 

 ただ、中3になると、このシリーズ本に飽きて来た。中学時代は体格が向上(私の場合背が20センチ以上伸びた)する。同時に知力がつき、読書力も向上した。それで河出書房の世界文学全集(本格的な翻訳本)に切り替えた。

 その中にバルザックの『谷間のゆり』が入っていた。

 高1の時に配本されて読んだのだが、つまらなくなり途中で投げ出した。

 この小説は、年下の青年が人妻に恋する物語である。人妻の方も青年を愛するが、青年は出世すると、別な女性に気が移る。最終的に嫉妬に苛まれた人妻は亡くなり、青年は後悔するという筋である。

 前の記事でも触れたが、フランスの小説には年下の青年と人妻の不倫が実に多い。ルソーの『告白』(これは自伝)、スタンダールの『赤と黒』、コンスタンの『アドルフ』、フローベルの『ボヴァリー夫人』、20世紀ではレディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』、コレット『青い麦』がそうである。

 18世紀や19世紀の支配階級は子どもを作るために結婚する。したがって世継ぎが誕生すると、夫や妻は不倫に走った。恋愛は芝居や物語の主題になりやすい。いつの世でも好きな異性と結ばれたいが、ほとんどの人が出来ない。だから芝居や物語で疑似体験を味わうのだ。

 大学生になり、再度『谷間のゆり』に挑戦したが、またもや失敗した。長編小説は、よほど魅力がないと、続かない。『谷間のゆり』にはどうしてもなじめなかった。『赤と黒』や『告白』や『ボヴァリー夫人』とは違った。

 主人公のフェリックスにはジュリアン・ソレルのような個性がない。人を蹴落としてまでも出世しようとする野心的エネルギーが少ない。小説はフィクションなので個性が強くないと、没入しにくい。

 副主人公のアンリエットにも、『赤と黒』のレナール夫人やボヴァリー夫人のような魅力がなかった。

 他の理由として文体も挙げられる。バルザックは写実主義の第一人者である。彼によって現実をそのまま描くというリアリズムの手法が広まった。ただ、フランス人の国民性なのか、簡潔明晰ではなく、形容詞や比喩を多用し、長々と描写する。一つの行為や人物の特長を数行にわたって綴ることが普通である。そのうえ翻訳文なので日本語としておかしい文章になっていることが多々ある。これではついて行けない。

 日本語による散文芸術の美点は、簡潔に的確に象徴的に描かれていることである。目に見えるように、音が聞こえるように、香が匂ってくるように、言葉が選び抜かれている。鷗外、荷風、芥川、志賀の文章がそうである。志賀は一つの到達点を成し遂げた。

 日本人の感性はそのような文章に反応する。長く、しつこく、くどい文章を受け付けない。したがって長々と描写するバルザックの文体は苦手なのである。日本人の作家がこのようなスタイルで書いたなら、まずもって評価されない。それに売れない。翻訳小説の領域だけにしか通用しない表現法なのだ。

 彼は長編(『結婚生理学』『「絶対」の探求』『従兄弟ポンス』等)をたくさん著わし、当時のフランス人の生態を『人間喜劇』という枠組みでとらえようとした。

 彼の全集は東京創元社から素敵な装丁で刊行されていた。

 全26冊。それを図書館で眺めていると、その量に圧倒され、読む気が失せてしまった。当時私は、ドストエフスキーやトルストイなど興味を持った作家の長編を呼んでいた。それだけで精一杯で、バルザックには手が回らなかった。

 ただし、短編なら読もうと思った。幸いにも岩波文庫で『知られざる傑作』という短編集が出ていた。題名も気に入った。それで手にしたのである。

 ここには5つの短編が入っている。その内容がうっすらと記憶に残っているのは『知られざる傑作』だけである。面白く読めたが、分かりにくい点があったことも覚えている。

 しおりに読了した年月日が記されている。昭和49年(1974)11月21日である。

 これを見ていると、当時のことがフラッシュバックする。私は大学2年生で、東横線学芸大学駅近くの古アパートに住んでいた。鷹番という地名である。四畳半の部屋だった。大学は学費値上げ反対闘争でもめていた。青春の悩みといおうか、いつも苛立っていた。

 主人公はフレンホーフェルというバルザックが生み出した架空の老画家である。有名だが、気難しく、独特の芸術観の持ち主だ。

 ある日無名の画家プーサンが、けっこう有名な画家ポルビュスを訪れる。この2人は実在し、フランス絵画史に名を残している。そこにフレンホーフェルがやって来て独自の絵画論を展開する。私は印象的な言葉には線を引いた。

 とりわけ、「芸術の使命は自然を模写することではない。自然を表現することだ。君はいやしい筆耕ではない。詩人なんだ。」という文は心に染みた。

 その後2人はフレンホーフェルの家に赴く。彼が10年書き続けている「美しき諍い女」という作品を見せようとするのだが・・・。

 脈絡の乱れで分かりにくい点もあったが、後半のストーリーの展開は実に面白い。美にとりつかれた芸術家の幻想が巧みに描かれている。

 バルザックは短編でも力量を発揮した。まさに文豪の名に恥じない。彼の絵画観の深さにも驚かされる。

 なお、美にとりつかれた画家の悲劇を描いた点で、芥川龍之介の『地獄変』を思い出す。

 90年代に『知られざる傑作』を元にした映画『美しき諍い女』がフランスで作られたが、私は見ていない。

 

 今回この記事を書くのにあたり、『知られざる傑作』をもう一度読んでみた。またWikiを参照にしたところ、分かりにくかった点が氷解した。

 

 次は大デュマである。

 彼の作品『モンテクリスト伯』(以下、モンテと表わす)は明治時代に『巌窟王』という名で訳され、多くの人に読まれて来た。

 中学時代にその梗概版を「少年少女世界の名作文学」で読んだ時、とても感動し、何度開いたか分からないほどである。原作は長いらしいが、大人になったら挑戦しようと意気込んでいた。

 ところが、大学生になると、他に読みたい本がたくさん現れ、本作は後回しになった。ひも解いたのは4年生の時だったと思う。75年(昭和50)である。

 その時は講談社文庫で読んだ。

 ところが、社会人になってからもう一度読みたくなり、今度は岩波文庫で読もうと思った。その時、講談社文庫の方を古本屋に売ってしまった。したがって手元にあるのは岩波版である。

 全7冊あり、その長さはトルストイの『戦争と平和』に匹敵する。しかし『モンテ』は「文学作品」というより「物語」である。情景描写や心理描写より、波乱万丈のストーリーが読者を引き付ける。長いにもかかわらず、夢中になり、寝る間を惜しんで一気に読んだことを覚えている。

 

 この物語が私をとらえたキーワードは2つある。

 一つは「復讐」、もう一つは「金」である。 

 これは中学時代に『巌窟王』で読んだ時から変わらなかった。大学時代にいっそうこの考えは強まった。

 まず「復讐」について見てみよう。 

 中学時代、私は学校不適応生徒であった。その原因や実情については以前の記事でふれたので、ここでは繰り返さない。とにかく中学校が嫌で嫌で仕方がなかった。

 そういう私を救ったのが書物である。「少年少女世界の名作文学」を貪るように読んでいる時だけ、嫌なことを忘れた。

 中でも『巌窟王』には感動した。主人公エドモン・ダンテスは牢獄のある島で無実の自分を陥れた3人への復讐を誓う。幸運にも脱出出来たのでそれを実行した。思えば、この長編は復讐をするためのドラマとも言える。

 中学生の時、この本を読んだ私は、自分を見下している同級生に復讐したいと思ったことがある。しかし、実行したら犯罪者になること、物語のように相手を破滅させることが出来ないことは、子どもでも分かる。

 それだからか、「今に見ていろ。見返してやる」という考えに襲われた。それには、彼らが唖然とするような実績を見せつけなければならない。しかし、私には秀でた能力と特技がない。では、どうしたらよいか。そうだ、自分が夢中になっている物語の作者になろう。小説家になって有名になり、彼らの見方が間違いであったことを彼らに気づかせてやろう・・・と本気で思ったものである。

 結果的にはそうならなかったが、そのような気持ちが、高校卒業後に私を必死で勉強させたことは言えると思う。勉強嫌いだったが、何が何でも志望校に受かりたいと思った。「復讐」から派生した「今に見ていろ」という暗い情念が意欲の導火線になったことは間違いない。

 だが、それから長い人生を生きて気づいたことは、「復讐」もしくは「今にみていろ」という考え方では自分は救われない、自分を追い込むだけだということだ。

 他人はどうだか分からないが、自分に関して言う限り、「許し」「容赦」という境地に達しなければ心の救済につながらなかった。

 人生は小説と違う。『モンテ』(巌窟王)に人が惹かれるのは、それがフィクションだからである。「復讐」は実人生では出来ないので、作品上で行ってくれる人物に喝采を送り、カタルシスを味わう。

 題名に大デュマはどうしてクリストすなわちキリストの名を付けたのだろう。キリストは復讐を禁じている。復讐で人間が救われないこと、他人に向ける刃は結局自分に向かってくることをさとした。

 ダンテスが復讐はしたが、直接手を下すことはしなかった。自分の財宝を弱者に惜しみなく差し上げた。この展開は興味深い。大デュマなりに考えることがあったのだろう。

 次に「金」である。

 ダンテスは牢獄で知り合った老人から財宝のありかを教えられる。脱獄した後、彼は財宝を発見し、一躍億万長者になる。それがあるからこそ復讐を遂げられた。

 当たり前の話だが、金がなければ何事も果たせない。金がたくさんあれば夢の一部は買うことが出来る。

 中学生の時、私は自分もこのような大金持ちになりたいと思った。自分もこういう幸運に巡り会いたい。財宝を発見できないか。高校、大学生の時も続いた。下宿の天井を見上げながら、お金が降って来ないかなあと思った。夢想だと分かっていても思ってしまうのだ。

 社会人になると、忙しくなり、そんな非現実的な夢は遠のいた。代わりに、宝くじを買って一縷の望みをたくした。ギャンブルや株の方が確率は高いと思う人がいるが、そのためには財産をつぎ込まなければならない。元来臆病な私は手を出さなかった。

 結局、長い人生をかけて分かったことは、億万長者にはなれないということである。そこまで行かなくても、富裕層の仲間入りなら出来るかもと思いがちだが、単なる他力本願では無理である。ケチに徹したり、年収の高い職業についたりすればその程度は可能かもしれない。私はそれも出来なかった。

 ただ、これは言えるかもしれない。金=幸福とは、言えない。金がないと豊かな生活は出来ない。家庭を営み、子を持ち、子の夢を叶えようとするなら金が必要である。これは事実である。では、富裕層が幸せかというとそうでもない。身近な人にそういう人はいる。反対のことは低所得者層にも当てはまる。要はその人の心次第だ。金は上手にも下手にも使える。

 こう考えて行くと、金で幸福の半分くらいは買えるかもしれない。この考えは人によって違うだろう。

 モンテ・クリスト伯は金があるからこそ「復讐」という本願を果たした。それを実現した彼の後半生は幸福か。あとは読者の想像力に委ねられる。

 最後に、彼が救った人たちに贈った言葉が太字で書かれてある。

待て、しかして希望せよ!

 苦しい人生を乗り越え、夢を実現した彼であるからこそ、説得力がある。

 

  この記事を書くにあたり、気が付いたことがある。それは、この物語の影響の大きさである。以降、東西の国々で小説、演劇、時代が推移するとラジオ、映画、テレビなどで類似した作品が作られた。

たぶん作家や制作者は『モンテ』を読んでいたのではないかと想像される。

 日本では『金色夜叉』が挙げられよう。明治の30年代に尾崎紅葉が新聞に連載し、大きな反響を及ぼした。最終的には未完に終わったが、芝居や映画で何度も演じられた。

 私は大学生の時、岩波文庫で本作を読んだ。

 当時のことゆえ、口語文ではなく、擬古文(雅俗折衷文)で書かれた。ただ、教養のある紅葉は漢籍を学んだのか、漢語を用いた描写力に優れていた。後日、日本文学の思い出を語る際に詳しく触れるが、塩原温泉渓谷の自然描写は名文とされている。

 この本の主題は、金と復讐である。これだけでも『モンテ』を彷彿させる。主人公間貫一は、許嫁のお宮が金に目がくらんで貫一から離れ、富豪の富山に走る。傷ついた貫一は守銭奴になって金を儲け、お宮に復讐しようとする。

 ただ、本作は貫一の葛藤を思想的もしくは哲学的に掘り下げてなかった。そして作者が急逝したため未完の通俗劇として終わってしまった。返す返すも残念でならない。漱石がこのような作を書いたなら主題をもっと追及しただろう。

 次に思い出すのスティーブ・マックイーン主演の映画『パピヨン』である。ちょうど『モンテ』を読み終えた頃(1974か75年)見たせいか、強く印象に残った。

 これは身に覚えのない罪で終身刑を言い渡され、南米ギアナ沖の孤島にある刑務所から脱獄する話である。刑務所の生態や囚人との友人が克明に描かれる。脱獄で『モンテ・クリスト伯』と結ばれている。最後まで希望を捨てない主人公はエドモン・ダンテスと同じである。この作品からも勇気をもらった。

 最後は、90年代に見た映画『ショーシャンクの空に』である。

 これも、誤って終身刑に処せられた主人公が最後は脱獄に成功する話である。脱獄より、アメリカの刑務所での様子(第二次政界大戦後)に力点が置かれていると思われた。ここでの囚人生活は『モンテ・クリスト伯』や『パピヨン』よりはるかにましである。他の囚人との間に友情が生まれる点は前2作と同じであった。

 この映画にも『モンテ』のエキスが注がれていると思った。本作を見終わった時、すごい感動に襲われた。

 これら作品に共通する概念は、「希望」「あきらめない」「自由」「勇気」だろう。それゆえにこそ、時代を越えて鑑賞され、今後も続いていくだろう。

 

              ――― 終 り ―――

 

※ 次回はフランス文学の思い出シリーズをいったん止め、「我が懐かしき本・中学編」という題で中学時代の読書について語ります。