松江駅に着くと、歩いてホテルに戻った。無料自転車を借りるためである。妻のアイディアである。今から松江城と小泉八雲記念館及び旧居を訪問するのでそれを利用するという訳だ。

 宍道湖大橋を渡った時、湖の青さがひと際きれいだった。

 自転車に乗ってホテルの裏手にある松江城に向かう。快晴なので気持ちがよい。左手に県庁が現れ、松江城が見え出した。かなり高台にあるので自転車に乗って来たのは正解である。

 入場券売り場で、松江城、小泉八雲記念館、武家屋敷に入れる「3館共通入場券」というチケットを購入。私は文学老人なので八雲記念館に興味があった。

 松江城の天守閣は現存する12のオリジナルの一つである。

 お遍路している時、高知城、松山城、丸亀城に上ったことがある。20年前には家族旅行で松本城にも行った。ここで5番目である。それらの内部は木造なので当時の雰囲気が味わえる。

 天守閣から市内を一望する。北以外の方角は平地なので広々としている。

 とりわけ宍道湖が広がる南の方角が気に入った。天気がいいので湖面が輝いている。松江はとにかくいい街だ。かなわぬ望みだが、松江に住みたいと思った。

 松江城の見学が終わり、裏手から小泉八雲記念館に向かった。

 それほど遠くあるまいと思って歩いて行ったら、予想に反して時間が掛かった。自転車を使わなかったことを後悔した。後で気づいたが、迂回していたのである。

 記念館と旧居は隣接していた。私たちのルートでは記念館が先にあった。

 記念館には当然持ち物や著書などが展示されている。正直に言えば、私は彼の著書を読んだことがない。ただ、英文に訳された『怪談』の一部を大学で学んだことがある。要は関心が湧かなかった。

  ただし、彼の経歴には興味があった。以前何かの本で、彼がアメリカのオハイオ州で暮らしていた時、白人と黒人のハーフの娘と恋仲になり、結婚したという記事を読んだことがある。ところが、当時の州法は、異人種結婚を認めなかった、すなわち合法的結婚ではなかったので、彼は差別を受け、不利益を被ったらしい。そのうち娘と不和になり、別れ、ニューオリンズに移住した。とにかく人種差別が激しかった時代にこのような行動をとった彼に私は共感した。

 彼自身のことではないのだが、彼の子孫に興味を持ったこともある。彼は日本人女性と結婚し、3人の息子に恵まれた。彼らはやがて結婚し、子をもうけているので、八雲の子孫は末広がりに増えたと思われる。中には知名度がある人もいた。

 次男(稲垣巌:養子に行ったので稲垣姓)は京都の中学教師だったが、ガンのため40歳くらいで亡くなった。その後残された妻は3人の子どもたち(八雲の孫。クォーターである)を連れて、実家がある青森県八戸市に転居した。終戦後、妻は自宅の一部を下宿部屋にした。

 そこに入居したのが作家三浦哲郎である。彼は新制八戸高校の三年生で、実家が焼け、家族が疎開したので下宿せざるを得なかった。

 私は三浦哲郎が好きで彼の随筆の多くを読んでいる。『笹船日記』という作品にこの下宿のことが触れてあった。

 子どもたちの上2人は娘さんで、長女の方は嫁いだが、よく顔を出していた。三浦少年より年上である。娘さんのお父さんはハンサムで有名だった。娘さんたちも容姿端麗だったらしい。下の写真に「一と目見ただけでやるせなくなるような容姿をしていた」と描写されている。これは私の想像だが、三浦少年は彼女たちに憧れたのではないだろうか。

 彼の子孫が島根から遠い東北の地でも生き、当時としては珍しい外国人の血を引いた若く美しい女性(それも見ている側がやるせなくなるような)が八戸にいたことは私の想像をかきたてる。

 

 続けて隣の小泉八雲旧宅を訪れる。

 

 城の掘割に面し、城を仰げる場所なのだから八雲にとって立地条件はよかったと思われる。

 なんとこの家はほぼ当時のまま残っている。だから国指定史跡になっている。現代から見れば小さな家だが、当時にすれば、恵まれた家屋だっただろう。典型的な日本家屋なので、日本びいきの八雲をしのぶにふさわしい場所である。彼は小柄(身長160センチくらい)なので、鴨居に頭をぶつけることもなかったろう。

 最後に武家屋敷を訪れる。

 このような屋敷は他の城下町を訪れた際に入ったことがあるので、あまり感慨は湧かなかった。

(辞去する前にご挨拶)

 この後、橋を渡って城内の駐輪場に戻り、自転車に乗ってホテルに帰った。

 今夜の夕食は、昨夜の夕食より価格が高いディナーバイキングである。料理からデザートまで40種類あり、満足した。

 

 第3日:10月26日(水)

  食堂に一番乗りし、大好きな洋食系朝飯をたっぷり食べる。窓外に薄闇に包まれた宍道湖が見える。

  ホテルを出、大橋を渡ったら、宍道湖でしじみ漁をしている舟を見た。

 少し宍道湖周辺をぶらつく。NHK島根支局のタワーが見えた。

 駅のロッカーに荷物を預け、今日の目的地の境港を目指す。

 その後、中海にある大根島に寄り、松江に戻る。駅でお土産を買って、出雲に向かい、出雲市駅始発の『サンライズ出雲』に乗り込む予定である。

 境港を訪れるのはそこが水木しげるの生誕地だからである。市は、彼の人気にあやかり、街起こしとして水木しげるロードや記念館を設けた。

 私は水木の本当の読者ではない。『ゲゲゲの鬼太郎』に代表される作品をほとんど読んでないからである。

 私が彼に興味を持ったのは、彼が戦争で左腕を失い、戦後右腕一本で創作したという事実を知ったことがきっかけである。それも田舎から上京し、ハンディを克服し、成功をつかんだ。すごい人だと私は思った。

 その彼が戦争体験をマンガに描き、随筆に表した。

 私はこれらを読み、感動し、彼を尊敬した。とりわけ『総員玉砕せよ!』は名作である。戦争は悲惨だ。この平和な日本で暮らすことのありがたさを覚える。と同時に、ナショナリズムをやたら主張する軍人及び政治家及び文化人には気を付けなければいけない、戦争を知らない若者に読ませたい作品であると痛切に感じた。

  他国や他民族による不法侵入の際に生じるナショナリズムには共感できる部分もあるが、こちらからの侵略する際に使われるナショナリズムは危険極まりない。国民を破滅に導くだけである。

 それで一度彼という人間を育んだ境港に行ってみたいと思ったのだ。

 松江駅のコイン・ロッカーに荷物をしまい、軽装で出発。昨日同様山陰線の各駅停車の列車に乗り込む。米子まで行き、そこでローカルの境線に乗り換える。

 米子まで35分しかかからない。安来の次である。思ったより近い。

 安来といえば、前回記すのを忘れたが、水木しげるの妻布枝さんの出身地である。水木の作品に感心した数年後、NHKの朝ドラで『ゲゲゲの女房』が放映された。私は朝ドラを見ないが、この番組だけは楽しみにした。それで彼の妻が安来出身だということを知った。彼女にも興味を持った私は、図書館から彼女が書いた『ゲゲゲの女房』を借りた。

 

 米子駅で境線に乗り換えた時、驚いた。列車に水木のマンガが描かれている。

 

 米子駅には「ねずみ男駅」という愛称がつけられている。境線の全駅に愛称がつけられ、境港駅は「鬼太郎駅」である。

 車内の座席や天井にもキャラクターが描かれている。水木しげる一色である。

 もっと驚いたことは、車内アナウンスである。女性の声なのだが、のんびりした口調で妖怪風に話す。思わず笑ってしまった。

 米子境港間は約18キロなのに駅が16もある。駅間の距離が1キロくらいしか離れてない。小さな無人駅ばかりなのだが、地元の人が乗り降りしていた。

 私も妻もこの鉄道が気に入ってしまった。駅間が1キロしかないので、ゆっくり走る。中州のような地形なので両側に平地が広がり、のどかな感じに包まれている。それでも駅の周囲には新しい家屋がたくさん建っていた。私は松江が気に入り、もし引っ越せるなら松江がいいと思っていたが、ここも負けず劣らず住み心地がよさそうだと思った。

 境港駅に着いた。乗客の多くが観光客らしい。駅前に出ると、水木しげる色はさらに強まる。

 駅前を少し歩くと、水木しげるロードの入口である。

 元来商店街通りである。歩道が整備され、所どころにあるミニ公園の美化も保たれている。歩道の両側にキャラクターの銅像がたくさん置かれている。当然その前で写真を撮る観光客が多い。

 日本中の田舎の商店街は人通りがほとんどないのに、ここは平日にもかかわらず観光客の姿が見られる。休日はすごいのだろう。店の多くは食べ物やおみやげ屋なのだが、当然水木しげるにあやかった物ばかりである。水木がいなかったら、間違いなくシャッター通りである。水木しげる様様だ。この街は彼で持っていると言っても過言ではない。

 境港は街起こしに成功した例である。

 800mほど歩いたら「水木しげる記念館」に着いた。ここが終点らしい。

 入場料を払って中に入る。

 けっこう人が入っている。飽きないよう様々な仕掛けがされていた。撮影許可の場所が多いことはいいことだ。

 見学後、来た道を戻り、JR駅に隣接しているフェリー・ターミナルの待合室で時間をつぶす。

 これからコミュニティバスで大根島の由志園という牡丹で有名なフラワーパークに行く。妻はぜひここへ寄りたいと主張した。私は関心がなかったが、ツアコンの彼女の願いを時には聞かなければならない。

 1時間ほどで由志園に着く。

 季節外れなので牡丹は一部しか咲いてないが、かなり広い庭園の手入れが行き届いている。箱庭を大きくしたような日本庭園である。足立美術館と違い散策できる点はいい。

 帰りは市営バスで松江に戻る。セイタカアワダチソウが生い茂っている所が多い。

 風がなく天気がいいので中海の水面は空や丘を写し、きれいだ。大山が遠望出来た。

 松江市の郊外に女子高前というバス停があり、多くの女子高校生が乗って来た。

 車内は満員近くになり、当然私たちの前の席にも座った。彼女たちを見て改めて思ったのだが、島根の若い女の子にはきれいな白い肌の子が多い。駅やおみやげ屋の店員さんにも多く見られた。そう言えば、島根は美肌日本一をキャッチフレーズにしていることを思い出した。嘘ではなかった。日照時間が少なく湿潤な気候だからだろう。冬に空っ風が吹き、肌が乾燥しやすい関東とは大違いである。

 駅で私がコーヒーを飲んでいる間に妻はおみやげを買う。クーポン券を使い果たした。

 16:20分発出雲市行列車(各駅停車)に乗り、出雲市へ。宍道湖沿いに走るので夕日を浴びた宍道湖が美しい。これで見納めかと思うと寂しい。私はすっかり島根が好きになった。

 美しい夕日は出雲市駅に着いた時も見られた。

 妻が駅の南口にある地元の回転ずし店にサンライズ出雲の中で食べる寿司を買いに行った。

 妻が言うには、ネタが新鮮で大きいという。価格も高くない。さすが日本海に面した街である。店員さんが親切だったとも話した。それを聞いて思ったのだが、どこでも店員さんや従業員は親切である。コミュニュティバスや市営バスの運転手さんも同様である。ホスピタリティが素晴らしい。島根は失われつつある日本人の美点を保持している風土なのかもしれない。

 10分前にサンライズ出雲が入行して来た。

 

 帰りは「サンライズツイン」という2人用の部屋で1階にある。

 広さは行きの部屋(シングル)の倍以上あり、4畳くらいか。

 

 

 18:53、出発。さっさくお寿司の夕飯にする。美味しい。

 食べ終わり、歯を磨き、横になった。今回の旅行のことを考える。

 ・出雲大社と出雲古代歴史博物館は再訪したい。今度は稲佐の浜にも足を運びたい。    

 ・足立美術館、松江城、八雲記念館、水木しげるロード及び記念館はこれ一回切りでいい。私にとってはただの観光施設。

 ・見果てぬ夢だが、松江に住んでみたい。

 ・山陰地方がこんなにいい所とは思ってもみなかった。今度は鳥取県をゆっくり回りたい。

 こんなとりとめのないことを考えていたら、眠くなって来た。外は真っ暗なので景色は見えない。思えば、行きの時も寝てばかりいた。そのせいか13時間掛かったが、遠いという気はあまりしなかった。お遍路で東京四国間の夜行バスを何十回と使ったことも関係しているかもしれない。

 妻も横になっている。

 

 第4日:10月27日(木)

 時々、目が覚めた。大阪の茨木駅を通過したのは覚えている。が、そのうちまた眠り、茅ヶ崎辺りで目覚め、そのまま起き出した。

 予定通り、7:08に東京駅に着いた。

 夜行乗り物で朝東京に着いた時、なぜかマックのコーヒーとホットケーキが食べたくなる。東京駅の八重洲口に出来たので、寄ってみたら若者で込んでいた。旅行者も多い。運よく席が見つかった。

 腹ごしらえが終わったところで、宇都宮線に乗り、故郷へ。宇都宮で乗り換え、西那須野に昼前に着いた。

 

              ――― 終 り―――

 

 ※次回は思い出の文学シリーズに戻り、ドイツ文学、中でもゲーテについて語ります。