私はこの時期に演劇を見たのはたった2回である。入場料が高いことや、映画にはまっていたことが理由として挙げられよう。

 1回目は1971年である。大学に入学したうれしさのあまり、それまで禁欲していた娯楽を貪欲に味わいたい欲求が生まれた。当時流行っていたアングラ演劇を見てみたいと思った。

 私は高校時代に郷里の映画館で「わらび座」という秋田を拠点にした劇団の演劇しか見たことがなかった。

   内容はほとんど忘れたが、メインの芝居の後に披露されたベトナムの踊りの中でアメリカ人政府を糾弾していたことだけを覚えている。踊りの後半で観客参加を行い、関心を持った何人かの観客が舞台に上がった。一人は私がよく見かける人だった。当時はベトナム戦争真っただ中ゆえ、共産党支持の「わらび座」はこの芝居を通してベトナム戦争反対を訴えたものだと思われる。

 高3の私は少年特有の正義感からベトナム戦争に興味を持ち、アメリカ軍の行動に反対していた。だから郷里を訪れたこの演劇を見たのだと思う。

 60年代の終盤、歌人の寺山修司が渋谷に開いた「天井桟敷」や、新宿花園神社境内に設けたテントで興行を開始した唐十郎率いる「状況劇場」がとりわけ人気があった。状況劇場はテントの色から「赤テント」と呼ばれた。

(寺山修司と天井桟敷館。山手線で渋谷から恵比寿に行く時に車窓から見えたことを覚えている)

(唐十郎)

(赤テントの状況劇場)

 どちらかと言えば、私は状況劇場に関心を持っていた。唐は上演作品のポスターに新進気鋭のイラストレーター横尾忠則を起用した。私は彼の絵が好きだった。そのことも関係している。

(横尾忠則のポスター)

 状況劇場は花園神社を追われた後、色々な場所で開いていたが、71年の秋、渋谷のパルコ近くの空き地で実施されることになった。それを知り、早速出掛けた。

 演目が何だったかは忘れたが、雰囲気や唐十郎たち役者の存在感は忘れられない。

 縦横十メート弱くらいの広さで、椅子の観客席がなく、観客は何枚も敷き詰められた青いビニールシートの上に体育座りを強いられた。100人くらい入れたのだろうか、満員なため、ちょっと動くと隣の客に触れてしまう。若い女の子だったので私は当惑してしまった。痴漢と間違えられるのを恐れ、触れたらすぐ体を離すよう努めた。

 そしてステージがない。ステージはどうやら地面らしい。左右にそでらしきものが張られてあったからである。ステージは観客席より高い位置にあるという固定観念にとらわれていた私はびっくりしてしまった。

(テントの中で芝居)

 開演前から熱い雰囲気に満ち、何かこれまで経験したことがないような催しが繰り広げられるのではないかという期待感が高まった。

 なにしろすぐそばで生の役者が演じるのだから迫力満点である。どぎつい化粧が鼻腔をくすぐり、台詞の際に唾が飛ぶことさえあった。雑誌を通して知っていた李麗仙や四谷シモンが現れた時はうれしかった。李の甲高い声と早口の台詞回しが耳を突く。ただ、麿赤児が前年度脱退したのは残念だった。

(李麗仙)

(四谷シモン)

 しばらくすると観客席の後ろで大きな声がした。振り返ると、唐十郎が立っている。

(唐十郎)

 意外と小柄である。どういう衣装だったか忘れてしまったが、役柄を表す服装で声を出す。声量があり、偽悪に富んだような言い方には圧倒的な迫力がある。花道などないから観客の間を縫うようにして前へ歩いて来た・・・。

 私の記憶はそこまでである。内容やフィナーレもみんな忘れてしまった。3人の存在感だけが今でも残っている。

 それから数週間後のことである。私は当時、渋谷センター街にあった「三平食堂」でアルバイトをしていた。

  ( 現在は「三平酒寮」に変わり、2・3・4階で開かれている)

 ここは安くておいしく、量もあるので客は若者や労働者が多かった。看板メニューは「三平ランチ」、150円。店で一番安い商品である。銀皿にハンバーグと2つのフライととキャベツの千切りと型で押した楕円形のライスが載り、カップ入りスープが付いている。当時でもこれほど安いメニューは珍しかった。学食並みの安さだった。

(三平ランチはこれに似ていた)

 この店は調理場が3階にあり、一階と2階にホールがあった。それぞれのホールにはウエイターやウエイトレス(アルバイト)がいて、客の注文を書いた伝票をカウンターに置くと、カウンター内の係がそれを小型エレベーターで3階の調理場に送る。やがて料理が3階からエレベーターで送られて来ると、カウンター内の係がそれを取り出してカウンターに置き、ウエイターは客まで運ぶという流れになっていた。

 それだけならカウンター内の係の仕事は楽だったが、そうではなかった。ウエイターが片付けた皿やどんぶりなどを洗う仕事、すなわち皿洗いの仕事が待っていた。むしろこちらの方がメインである。

(ホールの造りはこんな感じだった)

 私は1階のカウンター内の係を担当した。そこから細長く、さほど広くないホールが見渡せる。ある日、お昼のピークが過ぎた午後二時頃、二人連れの男性客が奥の席に座った。そこはカウンターから最も近い席である。ラフな身なりだが、一人はどこかで見たような客である。そうだ、四谷シモンだ。どうらんは塗ってないが、その姿や振る舞いや声から彼のように思われる。雑誌の写真で何度も見ている。そのうち話し始めた内容が芝居に関することだった。彼に間違いなかった。

 二人が注文したのは、「三平ランチ」だった。アングラ劇の役者は裕福ではないのかもしれない。観客席は少なく、料金は高くない。ギャラも少ないんだろう。だから渋谷界隈で有名なこのランチを食べに来たのだろうと私は勝手に解釈した。

 

 もう1つは大学時代の友人MK君が出た演劇である。

 2度目の観劇について語る前には彼のことを紹介しなければならない。

(S君を中心に開かれた第1回忘年会。〇で囲まれているのがMK君)

 74年、3年生になった私はK教授のゼミに入った。そのゼミには友人S君が入っていた。彼とは1年生の時にドイツ語Fクラスで一緒になり、親交が続いていた。私は1年生の時に落第したが、彼は順調に進級したので、私が3年生の時、4年生だった。

 ゼミに加入する前、S君からゼミには面白い男がいるという話を聞いていた。気性が荒く酒が強い九州男児だという。二浪して入り、その後は順調に進級していたので私たちより一つ年上だともいう。それがMK君だった。

 S君から紹介されると、私とMK君は、共に芸術好きということもあってたちまち仲良くなった。実際将来役者になりたい気持ちがあるという。ただ、そうは言っても劇団のサークルに入ってなかった。小説家になりたいのだが、作品を書いていない私と似ていた。要するに二人共「夢見る人」だった。なお、彼は、映画俳優ではポール・ニューマン、小説家では三島由紀夫に傾倒していた。

 家が裕福でなく、生活費はバイトでまかなっていた。慶応には珍しい苦学生だった。出身は福岡県の大宰府で、高校は筑紫丘高校だという。福岡県で最も伝統があり、最難関の高校は修悠館高校で、彼の兄貴はそこに行ったという。彼の口からよく修悠館という言葉が出た。どうやらそこへのコンプレックスがあったらしい。

 郷土愛が強く、上京したからには「故郷に錦を飾りたい」とも言っていた。

 また、「九州から出て来るの大変なんだよ」と言う言葉も口癖だった。当時は新幹線や長距離バスが通じていなかった。飛行機代は高いので苦学生はとても利用出来ない。夜行列車(長距離急行)で帰省するのが一般的だが、旅費の関係上、年に1回しか帰らなかったらしい。似たようなことを、私は1年生の時、級友の北海道美唄市出身のKA君からも言われた。チューリップの『心の旅』に歌われているように、九州や北海道から上京するのは大変だったのである。

 彼は大森に下宿していた。その地のパーマ屋の娘でアイドル歌手としてデビューした小林麻美(代表曲『雨音はショパンの調べ』)を見かけたので「サインしてください」と声をかけたところ、不審者と思われたらしく、ふんと横を向かれたというエピソードを面白おかしく話してくれた。

(小林麻美)

 Mk君との交遊については「青春グラフィティ1974・大学3年・青春回顧7及び8」の記事でふれたので興味のある方は開いてみて欲しい。

 

 交遊して分かったが、S君の言う通り、MK君は気性が実に激しかった。株の乱高下のように揺れ動いた。普段はにこにこしているのだが、何か気に障らないことがあると、丸い目が吊り上がり、喧嘩腰の口調になった(彼の気性が招いたトラブルについても上記の記事で紹介した)。

 その他、最近当時の日記を読んで分かったことがる。74年の11月、彼は頬にあざをつくった状態で私のアパートに突然現れた。「やくざと喧嘩して殴られた。痛い」言ったので、私はサロンパスを貼ってあげた。

 私が彼と親密だったのはわずか1年だった。やはり私の方で彼の気性について行けなくなったのである。彼は自分でも言っていた。「人とすぐ仲良くなるのだが、すぐ離れて行く。だから本当に心から話せる友はいない」と。見事な自己分析であった。

 彼は4年生の時、就職するか演劇の道に進むか悩んでいた。就職ならマスコミに行きたかったが、志望先(時事通信社など)に全て落ちたらしい。そのこともあって劇団の試験を受けたのだ。

 75年になり、卒業が近くなった頃、聞いたことのない小さな劇団(名前は忘れた)に合格したという話を彼から聞いた。その後、稽古や新しい仲間との交流やバイトで忙しかったのだろう、音沙汰がなかった。彼が卒業するまでは三田の図書館でよく待ち合わせしたが、卒業したら学校に来ることもなかった(当たり前の話だが)。私の方も就職活動等で忙しく、彼に連絡しなかった。

 晩秋の頃だろうか、彼から入団者の卒業公演の招待状を受け取った。初舞台であるという。これが私にとっての2回目の観劇になったのである。

 どこの場所で行われたか、これも忘れたが、たぶんどこかの公共施設の小さなホールのような所だった。新しくないためか、照明が薄暗い。それよりも観客数の少なさにショックを受けた。二十人もいなかっただろう。出演者の関係者ばかりなのだろう。

 現代劇だったと思う。内容も彼の役も忘れた。ただし主役ではなく脇役だった。彼が登場すると、私は注視した。上手かどうか分からないが、役になりきっていたように見えた。

 見終わった時、劇団員は食べて行くのが大変のような気がした。役者として成功するのだろうかと不安にもなった。

 私は彼にお礼の電話(彼の下宿には電話の取次ぎがあった)をし、会いたい旨や新しい下宿先の話をした。その頃、私は学芸大学駅前のアパートから上京して来た妹と同居するために北区豊島のアパート(下宿とほぼ同じ)に引っ越していたのである。

(北区豊島のアパート)

 彼から電話連絡があり、私のアパートに来ることになった。彼は家庭料理にいつも飢えていたので、妹の手料理でもてなすことにした。彼の好きなビールも用意した。

 それは年が明けた76年の1月の頃だった。

 久しぶりに会ったので、話は弾んだ。彼は妹の料理を「うまい、うまい」と言ってたいらげた。ビールも何本か飲んだ。「役者の道は大変だ。収入がないのでアルバイトで生活しなければならない。きつい時がある。だが、しばらく頑張ってみる」と話した。彼が「お前、就職の方は?」と聞いて来たので、日本武道館や法政大学の事務職に落ちたことを伝え、「将来小学校教師になる予定だ」と答えた。4月から玉川大学の通信教育を行い、バイトをしながら、小学校教諭2級免許を取得すると言った。

 彼は驚き、「小学校教師ねえ。学校の先生は俺に最も向かねえ仕事だなあ」と笑った。いつもの無邪気なにこにこ顔を久しぶりに見ることが出来、私はうれしかった。

 これが彼との別れだった。私も彼もそれを知っていた。私たちはそのような関係だった。

 

 それから4年経った78年、私は栃木県小山市の小学校に勤めていた。秋、川越のS君から、「MKから久しぶりに電話があった」という連絡をもらった。元々MK君はS君の友達である。

「役者を辞めた後、アメリカに渡り、約一年放浪していたんだって。今年いっぱいで東京を去り、福岡に帰るという話だ」

 そうか。役者の道を進むのは大変と悩み、自分探しをしようとアメリカを旅したのだろう。その地を国内ではなくアメリカに求めたということに感心した。自活して慶応を卒業したくらいだから、バイタリティ―にやはり恵まれているのだ。放浪した結果、夢をあきらめ、故郷に戻って地道に生活しようと決断したのだろう。

 その点では私と同じである。夢を抱いて上京したが、思うように行かない。悩んだ挙句、帰郷する選択を選ぶことは人生の重大決意である。自分は一体どういう人間なんだ、これから先どうやって生きて行かなければいけないんだ。この自問自答に踏ん切りをつけなければ、帰郷は出来ない。都落ちでもある。

 MK君の決断に敬意を払いたいと私は思った。それはS君も同様なので、二人で計らい、彼のために送別会を開こうという話に決まった。

 74年からS君と私は、S君の友人を交えて忘年会を開いていた。第1回目にはMK君も参加していた。その忘年会に彼を招き、送別の宴にしようしたのである。場所は大宮に決まった。当時MK君は実兄が住む浦和のアパートに居候していたことを考慮した。

 12月の初旬に開かれた忘年会は盛り上がった。主賓のMK君は喜んでいた。彼がみんなと会うのは4年振りである。「もう役者をやらない。地道に生きる。帰郷したら博多で職を見つけるよ」と気炎を上げた。

(送別会でのMK君。とても喜んでいた)

(大宮の路上で。MK君は左から2番目。手前の紺のコートを着ているのが私。右端がS君)

 翌年の79年、私が忘年会の写真を彼の実家に送ると、返事が来、アメリカで撮った写真が1枚同封されていた。

(彼の手紙はいつも素っ気ない)

(アメリカのどこだろう。中央がMK君)

 さらに次の80年の5月、彼から結婚したという挨拶状が送られて来た。

 そこに記されていた電話番号に連絡すると、受話器からMK君の元気な声が響いて来た。

「相手の出は佐賀県の田舎。博多で知り合った。それから今、ボウリング場で働いている」

 こんな内容だった。帰郷してわずか1年の間に職と嫁さんをゲットしたMK君に、(さすが九州男児、やることが早い)とまたまた私は舌を巻いた。

 

 その後、MK君とは会ってない。連絡も途絶えた。それでいいと思っている。S君とMK君との関係も同じである(S君と私の仲はその後40年続いている)。

 最近、彼の実家や連絡先(いずれも団地)をグーグルマップで調べたら、その住所はなくなっていた。団地も取り壊されたようだった。

 だが、私は彼が博多のどこかで頑張っていると信じている。

 私の青春に強烈な思い出を残していったMK君。付き合いは短かったが、交流してくれてありがとう。

 

            ――― 終 り ―――

 

※次回はこの時期に鑑賞した展覧会の思い出を語ります。