バロック音楽がきっかけでクラシック音楽に興味を抱いた私は、NHK—FMのクラシック音楽番組も聴くようになった。なんという番組だったのか忘れてしまったので、ネットで調べたところ、『朝の名曲』、『ステレオ・コンサート』、『大作曲家の時間』、『名曲のたのしみ』が当時放送されていることが分かった。どの番組だっただろうか、解説者の大木正興さんの名は覚えている。

 毎日気ままに暮らしていたが、学校へ行ったり、遊んだり、バイトをしたりしているため、しょっちゅう聞いているわけではなかった。

 クラシックの作曲家(古典派以降)ですぐにひかれたのはモーツァルトである。

 (W.A.MOZART)

 私は目覚めると、FMをかける癖があった。1972年(昭47)のある日、まぶしい朝の光に絶えられず、目覚めてしまい、ラジオのスイッチに手をかけた。すると美しいピアノの調べが流れて来た。一瞬でそのメロディにとらえられた。このような曲はそうはない。理屈では説明できない、神様からのギフトともいうべきだろうか。心が震え、肌が粟立った。私は耳を澄まし、その音を逃さないように努めた。

 曲が終わった時、解説者が曲名を述べた。

 モーツァルトのピアノ・ソナタ第12番ヘ長調KV.332第2楽章アダージョ。演奏者はイングリット・ヘブラー。

 この曲をもう一度聴きたく、当時取っていた新聞のラジオ番組で、モーツァルトのこの作品がどこかの番組で流されてないかと調べたが、載ってなかった。

 それでこの曲が入っているヘブラーのレコードを買ったのだ。

 だが、下宿にプレーヤーは置いてない。わざわざこの曲を聴くために帰省してしまった。家には数日しか滞在しなかったが、この曲を貪るように味わった。

 このアダージョの調べを聴いているうち、愛読した小説の一節が脳裏にふと浮かんだ。

 

     「彼女はよく笑った。それは、洗ったばかりの葡萄の房の綺麗な粒がいくつも転がっていくような印象を与えた」

 

 詩人であり作家の清岡卓行の芥川賞受賞作『アカシヤの大連』の言葉で、主人公が恋した女性の印象を語った部分である。

 「洗ったばかりの葡萄の房の綺麗な粒がいくつも転がっていく」という表現がまさにこのアダージョを形容しているように私には思えた。

 ピアノの一音一音がみずみずしい葡萄の粒のように転がっていく。それも朝の光を浴びて軽快に転がっていく。

 この光景が頭の中を駆け巡った。不思議な、かつ幸せな経験だった。モーツァルトの音楽にはこのような力があった。

 第1楽章も素晴らしかった。ポップスに通じる弾き方が印象的である。もちろん3楽章もよい。他に16番(新全集では17番。K570ハ長調)と7番ハ長調(k.309)が入っていたが、これらも名曲である。

 この啓示ともいうべき経験から私のモーツァルト熱が始まった。その頃、NHK—FMで音楽評論家の吉田秀和が『名曲のたのしみ』という番組を持っていた。

 そこでモーツァルトの全曲を紹介していた。確か午前中だったと思う。折しも大学紛争で学校がロックアウトに入った。授業がなくなって暇を持て余した私は週1回のこの番組を楽しむようになった。

 いつの日かモーツァルトのピアノ協奏曲を取り上げた。21番である。緩徐楽章の第2楽章アンダンテは、スエーデン映画『みじかくも美しくも燃え』で使われていたのでなじみがあった。私の耳を最も浸したのは第1楽章のアレグロである。なんていい曲なんだろうと興奮してしまった。演奏者はフランスのロベール・カサドシュ。ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団。

 私は21番が入っているアルバムを買おうと決めた。

 彼は日本ではそれほど有名ではなかった。ワルター、ホロビッツ、ルービンシュタイン、ケンプのようなレジェンドではない。

 もし他のピアニストの21番を聴いたなら、その人のレコードを買っただろう。私はそれほどピアニストに精通してなかった。

 B面に入っている23番もよかった。

 何かで読んだところ、モーツァルトの20番台の作品はどれも素晴らしいと書かれてあった。そのこともあり、20番台の作品をラジオで掛かった時、注意して聴くようになった。確かによかった。のめり込むように私は他の作品のレコードを買った。

 20番と24番が収録されているブレンデルのアルバムを次に買った。

(ブレンデルの顔が帯に隠れている)

 ブレンデルは中堅ピアニストとして脚光を浴びていた。20番の第一楽章はよく耳にするメロディで、どちらかと言えば、20番の方がよかった。

 続けて25番が入っているバレンボイムのアルバムを買った。74年の頃だろうか。彼は新星ピアニストとして登場した。

  少し時間が経ったが76年頃、ポリーニがカール・ベーム指揮ウィーンフィルとの共演したアルバムを買った。ポリーニは大型新人ピアニストとして注目を浴びていたのでこのアルバムは話題を呼んだ。19番と23番が入っているが、19番を聴いて、いい曲だと思っていた。

 その他の20番台の曲も好きだったが、全曲をそろえる金銭的余裕がなかった。

 

 次に好きになったのはフルート協奏曲である。清岡卓行の『アカシヤの大連』文庫本に『フルートとオーボエ』という短編がある。この題名は、モーツァルトの『フルート協奏曲第2番』とその原曲である『オーボエ協奏曲』の比較からつけられた。

 この小説から俄然私はフルート協奏曲に興味がわいた。

 フルート協奏曲には1番と2番とがあるが、どちらも好きである。アルヒーフから1番と、2番の原曲である『オーボエ協奏曲』とのカップリング盤があることを見つけたので、これはお得と思いすぐ買った。フルート奏者はハンス=マルティン・リンデ、オーボエ奏者はハインツ・ホリガーである。

 春夏はフルートの方を、秋冬はオーボエの方を聴いたが、全く飽きない名品である。

 

 その他、フルート関係では、『フルートとハープの協奏曲』も大好きだった。こうみると、バッハについても言えるが、私は協奏曲が好きなことが分かる。

 『フルート四重奏』にも心ひかれた。どちらも春の朝に聴くと最高である。心が自然と弾んでくる。ただし、レコードは買わなかった。

 他の曲で印象深かった作品を挙げよう。これらもレコードは購入しなかったが、中には社会人になってから買った物もある。

 交響曲ではト短調の40番、41番の『ジュピター』。協奏曲では『ホルン協奏曲3番』。器楽曲では、『クラリネット五重奏』。歌劇の曲は好きになれなかったが、社会人になってからひかれた。

 彼の膨大な作品からみればほんのわずかである。当時、部屋にはプレーヤーがなかった。また、ラジカセも普及してなかった。したがって彼の曲を聴くにはラジオしかない。吉田秀和の『名曲のたのしみ』でしかモーツァルトを聴く機会はなかった。

それでも約6年間くらいモーツァルトに凝った。私にとってこの時期のクラシックの作曲家はモーツァルトただ一人といっても過言ではない。

 モーツァルトの音楽は、この世を超越した天上の音楽のような気がしてならない。西洋の「神」に最も近い音楽だろう。

 私にとってベートベンのイメージは大地に踏ん張って強風に向かう立ち姿で、バッハのイメージは暖炉の前に座る思索家であるが、モーツァルトは神の周りを飛び交う天使のようなイメージである。ただし、無邪気にスキップする彼の笑顔には時々悲哀が射す。これがモーツァルトの魅力である。

 

 私のモーツァルト好きには書物の影響もあった。

  私は大学生になってから小林秀雄を読むようになった。彼の『モオツァルト』には感動させられた。

 深い思索。鋭い感受性。両者でとらえたモーツァルトの音楽をアフォリズムような文章、歯切れのよい文体で表現している。散文で書かれているが、作品が「詩」に昇華していた。彼はただの文芸評論家ではなく、詩人でもあることが分かる。このような文人は日本では稀である。

 その中に、有名になった「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる・・・・」という一文がある。「悲しみの疾走」と呼ばれるモーツァルトの特長である。

 小林は若い頃、女性問題に悩んで大阪の街をうろついていた時、突然40番交響曲が頭の中で鳴り、感動で慄えたと書いた。この曲こそ「悲しみの疾走」という形容にふさわしいのではないかと思われる。

 吉田秀和はこの作品から啓示を受けたという。以降吉田は小林に私淑するようになった。ここに小林、吉田、大岡昇平、河上徹太郎の4人から成る「文壇モーツァルト・カルテット」(私が勝手に名付けた)が誕生した。

 『音楽のたのしみ』や小林秀雄と吉田のつながりから、私は吉田にも興味が湧き、彼の全集の一冊を買った。小林秀雄、大岡昇平、中原中也に関するエッセイが含まれている。

 72年から77年までの6年間、モーツァルトをよく聴き、小林、大岡、吉田、河上、中原の作品に親しんだ。この豊かな経験は私の人格形成に役立った。

 

 モーツァルトに次いで好きになったのはベートーヴェンである。

 ベートーヴェンの曲は小中高でかかるので、有名な曲、例えば『運命』や『田園』の第一楽章などに耳にたこが出来るくらいなじんでいた。

 ある日、新聞のレコード評で、ゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団の『運命』が絶賛されていた。今まで『運命』を通して聴いたことがない。なぜか、この時、このレコードを買って『運命』を味わってみようと思った。

 全4楽章あるが、どの楽章にも記憶に残るような旋律がある。それを各楽器のパートが織り上げる。変化や起伏に富んでいるので全く飽きない。そのうえ引き締まっている。

 第1楽章や終楽章には勢いがあり、劇的に展開する。運命に甘んじることなく、自力で前進し続けるような迫力がある。

 全体が太い背骨で結ばれていることが何となく分かる。緻密な構成がまるで隙のない堅牢な建物のようだ。この完成度の高さなんだろう。モーツァルトやバッハと全く違う。地に足がついたような強さを感じた。私は、思わず感動し、「うーん」とうなってしまった。

 『田園』の全体はFMで聴いた。カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモーニー管弦楽団の演奏である。第2楽章、第3楽章とすすむうち感情が高揚し、終楽章が終わった時には、鳥肌が出来るような感動を味わった。モーツァルトのピアノソナタを聴いた時と同じである。どうしてこのような有名な曲を今まで避けていたのだろうと、後悔したくらいだ。このレコードも買うことに決

めた。

 

 

 春の到来、嵐の前触れ、落雷、カッコウの鳴き声、収穫の喜びがぞれぞれの楽章で描写され、一つの物語になっている、その情景が目に浮かび、自然豊かなヨーロッパの田舎にたたずんでいるような錯覚になる。実に絵画的な作品だと思う。改めてベートーヴェンのすごさに気づいた。

 普通のレベルの交響曲は、退屈、あるいは眠気を誘うような楽章が一つくらいあるのだが、この2曲は違った。最初から最後まで私を引き付けた。私ばかりではない。古今東西に及んでいるだろう。名曲の名曲たる所以である。

 大学時代の同級生S君の家で、交響曲第7番の緩徐楽章を聴いた時の感動も忘れられない。これまた飽きないメロディである。

 ショルティの『運命』には『エグモンド序曲』、カラヤンの『田園』には『フィデリオ序曲』が収録されていた。

 私は『エグモンド序曲』にも参ってしまった。緊密な構成、心に残る旋律、弦楽器の開花、迫力のある演奏。心をわしづかみされたような気になった。ショルティのこのレコードは実にお得だったと思った。

9

 印象的な作品は、ピアノ協奏曲の『皇帝』やピアノソナタの『悲愴』など他にもあったが、これらのレコードを求めたり、多様な作品を味わったりするようになったのは社会人になってからである。

 

 他の作曲家の作品でこの時期に心に残った曲を列挙してみる。なお、レコードは買ってない。社会人になってから購入した曲は幾つかある。

ブラームス 『弦楽六重奏第1番第2楽章』

ショパン 『ノクターン第1番』

チャイコフスキー 『交響曲第6番〈悲愴〉』

ワーグナー 『ジークフリート牧歌』

サン=サーンス 『序奏とロンド・カプリチオーソ』

シベリウス 『ヴァイオリン協奏曲二短調第3楽章』

ドビュッシー 『牧神の午後への前奏曲』『月の光』

ムソルグスキー:ラヴェル編曲『展覧会の絵』

ラヴェル 『ボレロ』

ストラビンスキー 『春の祭典』

マーラー 『交響曲第5番第4楽章・アダージェット』(映画『ヴェニスに死す』でこの曲を知った)

 他にもあるだろうが、思い出せない。

 

                    ――― 終り ―――

 次回はこの時期に心が揺さぶられた洋楽(西欧のポピュラー・ミュージック)の思い出について語ります。