今回は、大学及びフリーター時代(1971~77)に見たフランス映画の思い出について書こう。

 

 浪人時代(1970)、禁欲生活を自分に課していたので映画をほとんど見なかった。その反動もあり、大学生になると見まくった。小遣いが少なかったので名画座と呼ばれる入場料が安い映画館で見た。

 戦前から私の大学時代の頃までフランス映画は人気があった。フランス映画ばかりでなく、イタリア映画も含めヨーロッパ映画全般が人気があった。質の面から言えば、アメリカ映画より高かった。外国映画の人気が完全にアメリカ移ったのは80年代からだと思う。

 したがって名画座でもフランス映画はよく上映された。私も数多く見た。しかし、私が感動した作品は少ない。

 どちらかと言えば、私の場合、ヨーロッパ映画ではフランス映画よりイタリア映画の方が好きだった。ただ、私が青春時代に見た映画の中で、最も感動し、最も影響を受けた作品がフランス映画の『冒険者たち』((1967年:ロベール・アンリコ監督)である。

 私がフランス映画を語る場合、この映画をまず語らなければならない。この映画は私の人生に影響を及ぼした。したがってこの一作のためにページを割こう。

 

 この作品は1967年に公開された。私は高校時代に『ボーイズ・ライフ』という雑誌で知ったのだが、見る機会がなく、73年にようやく見ることが出来た。その感動は大きく、前回の記事でそれについてふれた。もっと早く見て置けばよかったと後悔したくらいである。

 80年代に入ると、レンタルビデオ屋が現れた。そこで字幕スーパー版を借りて見たこともある。また、ビデオデッキが家庭に普及したこともあって、テレビで放映された時にはビデオに収録した。ただ、テレビ放送は、吹き替えであった。私は吹き替えが好きではない。やはり俳優の生の声でなければ、その俳優の魅力が完全に伝わらないと思っているから、あまり見なかった。

 DVD時代になると、それを借りた。なんだかんだで半世紀の間に10回くらいは鑑賞した。

 

 主演の一人はアラン・ドロンである。日本における彼の人気は1960年代と70年代前半にかけて絶大だった。それも日本におけるフランス映画の人気に貢献していた。

 もう一人いる。リノ・ヴァンチュラである。この2人のコンビが素晴らしい。

そこにジョアンナ・シムカスが加わる。。

 この3人の冒険が本作である。

 映画が観客を感動させるためには、ストーリー、主題、俳優のキャラクター、演技、場面展開のメリハリ、カメラワーク、映像美、音楽などの要素が溶け合ってなければいけない。

 その点でこの映画は満点に近い。

 

 まず、男2人、女1人からなる3人組という設定が面白かった。40代後半の中年男性(ヴァンチュラ)のローラン、30代前半の男性(ドロン)のマヌー、20代前半の女性(シムカス)のレティシアからなる。

 青春真っ盛りなのはレティシアだけである。男性たちは青春は過ぎたが、いずれも独身で、夢を追っている。所帯を持っている男性に較べれば若い。

 1969年にアメリカで『明日に向かって撃て』が公開された。ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロスが主演である。この作品の設定が『冒険者たち』と同じだった。『冒険者たち』は『明日に向かって撃て』に影響を与えたのではないかと思っている。

 

 次に、彼らが大都会(パリ)に生きる庶民階級である点が私を引きつけた。恵まれたエリートでない。マヌーは曲芸飛行機のパイロット、ローランは自動車工場の技師、レティシアは前衛芸術家。それぞれ成功したとは言い難いが、夢を持ち続けている。この設定がいい。

 さらに、レティシアが夢を抱いて上京した田舎出身である点に共感した。映画の結末近くで彼女の故郷が描かれ、彼女が薄幸な生まれであることが分かる。田舎を出て都会を目指す人間は田舎で不幸に育っている。あるいは自分が不幸だと感じている。恵まれた家庭に育つなら、わざわざ苦労しに都会に出ない。

 大都会は、都会生まれの人と田舎出身者から構成される。前者には元々家があるが、後者は自分で探さなければいけない。経済的にも社会的にも田舎出身者はハンディを負っている。私も同じ立場であったのでレティシアの境遇がよく分かる。

 

 ストーリーを追って行こう。

 ローランとマヌーはレティシアに淡い恋心を抱いている。ただ、レティシアはどちらにも等距離を置いている。ローランとマヌーは友情を大切にしているので、レティシアを巡って争うことはしない。

 3人のパリでの夢は思うように行かなかった。そんな時、第二次世界大戦中にコンゴ沖に沈んだ飛行機に財宝が積んであったという話を知る。

 夢を抱いて生きている彼らが、一攫千金というさらなる夢を描く。

 そのために灰色の冬空のパリから太陽が輝くアフリカの海へ飛ぶ。都会と自然、冬空と太陽が対比的に描かれる。そして海は夢を育む絶好のシチュエーションである。

(パリで)

(コンゴ沖で)

 なんと夢が実現し、財宝を探し当てる。

(財宝を分けている場面)

 大金を手に入れたからだろうか、マヌーは密かにレティシアに恋心を打ち明けるが、拒否される。

 逆に彼女は、ローランに「あなたが好き」と打ち明ける。

 ローランはその告白に戸惑う。マヌーを気遣ったと思われる。

 そこへ警備隊を装ったギャングが現れ、彼らと銃撃戦になる。

 巻き添えをくったレティシアは死んでしまう。

 

 ローランとマヌーは死んだレティシアに潜水服を着させて海の底に沈める。

 この場面は観客を沈鬱にさせる。口笛とスキャット(音楽はフランソワ・ド・ルーベ)が、観客の情感を高める。

 大金をつかんだ代償として、レティシアという掛け替えのない存在を失った二人の嘆きは大きかった。

 「禍福は糾える縄の如し」という格言が示すように、幸福と不幸は表裏一体である。

 そのため、二人の仲は一時疎遠になるが、彼女の故郷(大西洋に面した小さな漁村)を訪ねることで修復された。レティシアの分の大金を幼い従兄弟に与えた。

 沖合に要塞の島があった。そこを訪れた時、再び、財宝をねらうギャングが追いかけて来た。

 戦闘になり、ギャングを一掃したが、マヌーが倒れてしまった。

 息を引き取る前に、ローランは、「レティシアはお前と暮らすと言っていた」と嘘をつく。友を安らかに旅立たせるために嘘をついたのだと思う。しかし、マヌーはローランに向かって「嘘つき」とつぶやく。マヌーは、レティシアが好きだったのはローランだったことを見抜いていたのだ。

 彼のそば呆然とたたずむローランを空から撮影し、旋回しながら、遠ざかって行く。音楽はない。聞こえるのは潮騒だけ。

 親友を失ったローランの心情をこのような形で表現する技法は成功している。観客は椅子から立ち上がれなくなると思う。

(死んだマヌーのそばでたたずむローラン)

 

 この映画は、結局、若者2人が死に、中年男性だけ生き残る。「死」が主題の一つである。

 名作には若者の「死」が多い。それは名作に必須な条件なのだろう。若者と死は本来遠い関係であるがゆえに、若者が死ぬ結末は観客に言いようのない悲しみを味合わせる。老人に未来はないが、若者にはある。それが寸断される衝撃は大きい。だから芸術の主題になりやすい。 

 「死」を効果的に描くのに恰好な舞台が「海」である。コンゴ沖以外にも、大西洋に面したレティシアの故郷が使われている。レティシアは前者で亡くなり、マヌーは後者で死ぬ。共通しているのは共に銃撃戦で死んだことだ。

 

 もう二つの主題が「恋愛」と「友情」である。一般にこのような関係の映画は、一人の女を巡って争うどろどろの三角関係映画になるのだが、そうはならなかった。というのは、本作は「恋愛」より「友情」に重きを置いたからである。だから、マヌーの「嘘つき」というセリフは嫌味に聞こえない。さわやかなくらいだ。

  また、レティシアが好きだったのは、美貌の若いマヌーではなく、初老に近いローランだったという設定も面白い。普通なら、レティシアとマヌーが結ばれると思うだろう。観客の多数もそれを期待していると思われる。

 しかし、筋書は違った。ひねっている。現代ならこのようなカップルもけっこう見られるだろうが、当時はまだ少なかったはずだ。レティシアはファーザー・コンプレックスなのかもしれない。

 脚本家の理想も込められているように見受けられる。脚本を担当したのは監督のロベール・アンリコと原作者のジョゼ・ジョヴァンニの二人だが、アンリコが30代半ばに対し、ジョバンニは40代半ばである。

(ロベール・アンリコ)

 私の勘繰りだが、ジョバンニの思いが表れているような気がする。

 彼はローランに自分を投影した。若い女性に好かれたいという気持ちをローランに託したのではないだろうか。

 このジョヴァンニは面白い人物である。若い頃暗黒街に生きたり、死刑宣告をされたりしたのだが、その後、小説を書いたり、脚本を執筆したり、映画監督になったりした。硬軟併せ持った人間であった。小説家のジャン・ジュネと似ているといえよう。

 このような複雑な履歴を持つ人間の芸術性を珍重する所に、フランスという国の懐の深さが見いだされる。

               (ジョゼ・ジョヴァンニ)

 名作には詩情にあふれた場面が必ず織り込まれている。

 ひげづらのマヌーとローランがビキニ姿のレティシアと遊ぶ場面は観客を楽しませる。

 BGMがそれを盛り上げる。ピアノを使ったアップテンポの曲と口笛によるテーマ曲が交互に用いられている。

 

 これらは繰り返し使われたので耳に残った。なお、劇中では用いられなかったが、テーマのメロディに歌詞をつけてドロンが歌った。「愛しのレティッシア」という題である。

 ルーベの音楽があまりに素晴らしかったので、鑑賞後、サントラのシングル盤を買ってしまった。

     (フランス語の響きはどうしてこんなに胸を打つのだろう)

 

 レコードを買ったという話で思い出したが、パンフレットも買った。

 今はどうだから知らないが、あの頃、映画のパンフレットがけっこう人気があり、ファンの中には収集している者もいた。私も一時仲間入りした。感動した作品のすべてを購入したわけではないが、計100部くらい集めたのではないだろうか。しかし、そのうち飽きてしまい、やがて全て古本屋に売ってしまった。

 

 ドロンは、その美貌から、野心を抱いて成り上がる青年の役が多かった。実現のためには手段を択ばない。ただ、最後には必ず失敗する。『太陽がいっぱい』がその代表だろう。 

 高校時代にこの作品を見なかったので、上京後どこかの名画座で見た。ただ、私が期待したほどには面白くなかった。だが、孤独な青年役をドロンが見事に演じていたのは特筆に値する。彼にぴったりのやくだったと思う。最後のシーンと、ニーノ・ロータによる有名なテーマミュージックが印象的である・

  

 このような主人公は昔も登場した。有名なのが19世紀前半の小説『赤と黒』(スターンダール)である。主人公はジュリアン・ソレル。『赤と黒』を60年代に映画化したなら、ドロンが適役だったと思う。

 彼の場合、演技より美貌が目立ってしまうからだろうか、またその美貌が鼻につくようなタイプなせいか、私は好きになれなかった。

 しかし、本作は違った。優れた曲芸飛行士になる夢は抱きながら、青春を引きずって20代後半まで来てしまった普通の青年である。ドロンの別な一面を監督は引き出した。

 私はこのようなドロンにひかれた。この映画の中のドロンが好きになった。

 リノ・ヴァンチュラの映画は何本か見ていたが、このような明るく人間味にあふれた役のヴァンチュラに出会ったのは初めてだった。

  たぶん、私も含めた20代の男性観客は自分をマヌーに置き換えていると思われるが、もし中年になったらローランのような男性になりたいと思ったのではないだろうか。それくらいヴァンチュラの魅力が引き出されている。

 この映画によって私はジョアンナ・シムカスに恋してしまった。彼女の美しさが私の理想美になった。その後、数本の映画(『若草の萌える頃』『オー!Ho!』に出た後、彼女はスクリーンから消えてしまった。残念だった。

 

 ここで、魅力的なシーンが網羅された動画を紹介しよう。音楽も素晴らしい。ぜひご覧になってください。

 

 映画に感動した後、いきつけのコーヒー店『トップ』でコーヒーをすすった。 

 友情。恋愛。三角関係。夢。理想。現実。海。ヨット。金。死。故郷。音楽。口笛・・・これらの言葉が頭をよぎる。

 やがていつもの物思いにふける。

  友情を大切にするこのような関係を築きたい。

  将来、マヌーやローランのような大人になりたい。

  シムカスのような女性と恋をしたい。

  いつの日か海辺に住みたい。

 

 しかし、人生はこの反対に進んだ。やはり映画の世界は夢であったのだ。

 

                 ――― 終 り ―――