これから、しばらくの間、大学時代に見た映画について語る予定なのだが、その前に、それらを見た名画座について語ろう。

 名画座は、文字通りに解釈すれば、映画史に残るような作品を上映する映画館のことだが、今は、二番館、三番館と呼ばれる映画館も含められる。また、娯楽映画やB級映画も上映された。要するに名作を中心とした旧作を安価な入場料で提供する映画館のことと言えよう。

 このような映画館は田舎にはなかった。東京で初めて知った。繁華街や学生街がある地区には必ずあった。

 初めて入ったのは1969年の夏である。当時私は、代々木ゼミナールで行われた高3対象の夏期講習に通うために一か月間上京し、従兄弟の部屋(アパート)に居候して通った。

 田舎者の私にとって大都会「東京」の生活は驚きの連続だった。人の多さ、ビルの群れ、満員電車、新宿の雑踏と猥雑さ、きらびやかなショーウインドー、新宿駅西口のフォーク集会、アパート生活、銭湯、定食屋など見る物聞く物のすべてが刺激に満ちていた。

 名画座もその一つだった。毎日暑い中で勉強に励んでいたが、時々息抜きがしたかった。しかし私には潤沢な小遣いがない。映画少年だったこともあり、それで名画座で映画を見ようと考えたのである。東京に名画座と呼ばれる安い映画館があることは雑誌で知っていた。

 入った映画館は「新宿パレス座」(西口にあったので新宿西口パレス座とも呼ばれる)である。見た映画は、米映画『卒業』と独映画『完全なる結婚』である。

 そのことを日記につけたのでこうして思い出せるのである。

                 (8月5日付:価格についてふれている)

 私は1971年から77年の春まで東京で暮らした。映画が好きだが、金がない私(当時の若者はこれが普通)にとって名画座は、値段が安い上に、上質な作品に出会える娯楽の殿堂だった。私の青春に欠かすことの出来ない大切な場所になった。私は、改めて名画座に感謝したい。その気持ちでこの文章を綴っている。

 

 私が頻繁に通ったのは71年から74年くらいまでである。平均すると、週に一度は通っていたのではないだろうか。年間100本見たとしても400本、前後の年に見た数を入れて500本は鑑賞したことになる。ただ、作品は玉石混交である。感動した作品もあれば、つまらなかった作品もけっこうある。

  どちらかといえば日本映画より外国映画を見た。したがって私が通った名画座は外国映画を主に上映している映画館だった。

  

 名画座の特長は、なんといってもかつての名作に出会えることである。

 次は入場料の安さである。私が記憶している中で、一番安かったのは、新宿パレス座の100円である。70年前後その価格を維持した。日記に書かれてあるように当時の田舎〈大田原市〉の映画館は200円だから、その半額で入れた。

 他の名画座の入場料は120円から170円くらいだったと思う。だから西口パレス座の安さは破格であった。当時、封切り劇場は500円くらいしたのではないだろうか。それに比べたらずいぶん安い。ただ、物価上昇に合わせて徐々に上がった。最後に通った77年(昭52)頃には70年の価格の2倍くらいになったと思う。

 第三は本数である。2本立てが普通なのだが、時には3本の時もあった。3本見ていたら、5、6時間は過ごせる。

 第四は客層である。若者が圧倒的に多いが、中年や老年の方も見られた。映画ファンもいれば、時間つぶしに入ったと思われる方もいた。その証拠に寝ているのである。時にいびきで邪魔されることもあった。『寅さんシリーズ』のような絶大な人気の作品には労務者も多かった。

 第四は入れ替え制ではないということである。現在のシネコンはどこも入れ替え制をとっているので、終了すると出なければいけない。再見できない。ところが、昔の映画館は違った。名画座を含めほとんどの映画館が自由制をとっていた。開館の時間から閉館までいたってかまわないのである。だから何度も鑑賞することが出来た。

 最後は、他人と喜怒哀楽を共有できる点である。楽しい場面では笑いが起こり、悲しい場面やキスシーンでは沈黙が支配した。感動した作品には、拍手が湧いた。気楽に入れる映画館なので観客は感情をストレートに表現する。「自分だけでない。他の人も同じだ」これに気づくことは人を幸福にさせる。

 

 次に私がよく通った名画座を紹介しよう。ただし、今はない。

 

1 渋谷全線座

 私が最も映画を見た71年から74年までの間に住んでいた場所は井の頭線の富士見が丘駅や東横線の学芸大学駅であった。だから、遊びに行く所は渋谷が多く、必然的に全線座で見ることが多かった。ここは洋画専門館で上映される映画は娯楽系の旧作が大半だった。ただ、断っておくが、娯楽映画の中にも名画はあった。

 全線座は駅東口を出てすぐの所にあった。明治通りに面していた。元々封切館だったので、すり鉢構造で座席数が多く、2階席まであった。通路が傾斜し、一部階段になっていた。座っていて楽で、見やすかった。それも全線座に足しげく通った理由である。

 一般に名画座の内部はその反対である。座席数が少なく、床がフラットである。したがって見上げるような姿勢を取らざるを得なくなり、首が痛くなることが時々あった。

(渋谷全線座:1960年代の頃か。価格の「百円」が目を引く)

 ここを出た後、喫茶店の『らんぶる』か、道玄坂入口のコーヒー専門店『トップ』に寄って、コーヒーを啜り、タバコをくゆらしながら見て来た作品を回顧することが無上の喜びだった。

(ここのコーヒーがBEST1。今でも渋谷に行くと必ず寄る。ミルクの相性が抜群)

 ここで見た映画で最も覚えているのは仏映画『冒険者たち』である。

 あまりにも感動し、館外の景色が別に見えた。その様子が日記に綴られている。

                (1973年7月10日付)

 『スケアクロウ』を見た感想も残っている。

(1973年3月3日)

他にS・スピルバーク監督の『激突』も覚えている。

  

 また、ニュー・シネマの代表作である『明日に向かって撃て』や『真夜中のカーボーイ』もここで見た。

 

2 新宿西口パレス座

  この映画館は現在のビック・カメラの裏手にあった。

 69年の夏に見た映画は他にもあった。

 米映画『シンシナティ・キッド』と『駅馬車』の2本立てである。どちらも名作である。これで100円とは超お得だった。

(1969年8月19日)

 まじめに予備校に通う反面、なんどもこの映画館に足を運んだということは、それだけ映画が好きだったことを証明している。

 この映画館は当時若者文化の中心地の新宿にあり、価格が安かったせいか、客層の多様性が見られた。おかまのような人、いかがわしい商売をやっているような女性、会社をさぼっているようなサラリーマンである。新宿特有の猥雑さが凝縮されたような館内だった。

 私は19歳の時、隣席に座ったある女性から、休憩時間に話しかけられたことがある。ひし形の飾りのイヤリングを身に付け、薄いサングラスをかけ、白を基調とした高価そうなワンピースで着飾り、香水を漂わせていた。どういう内容だか忘れたが、田舎から出て来た少年にとってこのような見知らぬ大人から突然話し掛けらたことは驚きだったのだろう。

 

3 高田馬場パール座

 

 日記によれば、浪人時代に高田馬場の映画館に入ったことが書かれてある。これはパール座のことと思われる。2本立て150円。作品は、大島渚の『新宿泥棒日記』と『忍者武芸帳』である。

 ということは新宿西口パレス座に次いで入った名画座である。従兄弟から勧められて行った。

 当時、邦画では大島渚監督に関心を持っていた。『忍者武芸帳』は白土三平の劇画を静止画によるモンタージュ手法で撮影した作品であり、若者から絶大な支持を得ていた。それに私も感化されていた。

(ポスターは横尾忠則)

 『新宿泥棒日記』の主人公に演技素人の横尾忠則をつかった。当時新宿は若者文化の中心地。その特性を生かしていた。

 大学生になってからこのパール座によく通った。高田馬場にあるので早稲田の学生が多かったかもしれない。

 何を見たか大半は忘れた。記憶は不思議なもので、感動した映画のことは覚えているが、どこで上映されたのかは忘れてしまった場合が多い。その逆の場合もある。

 『ブラザーサン・シスタームーン』はなぜか覚えている。内容は今一つだったが、映像の美しさと音楽(ドノヴァン)のよさにひかれたからだろう。

 ここである出来事に遭遇した。その日は満員で、座れなかった私は後ろで立ち見をしていた。その時、右の方、5、6メートルの所で、「何すんのよ!」という声が起き、人の頬をたたく音がした。すると出入口のドアが突然開き、逃げ出した男の影が見えた。

 痴漢の現場に遭遇したのである。これまで何度も満員電車に乗ったり、満席の館内で鑑賞したりしたが、このような現場に遭遇したことがなかった。人があまりいない田舎では痴漢行為に出会う確率はかなり低い。やはり都会では起きるのだ。

 それにしても暗闇で行うとは卑劣である。後で考えたのだが、痴漢者は逃げられるように出入口の近くで行為に及ぶのだろう。計算高いのだ。

 私ばかりでなく、かなりの人が驚いたと思う。それより声を上げた女性は立派だと思った。彼女が反抗したから相手は逃げたのだ。黙っていたならさらに触られただろう。

 被害者らしい人もその後、出て行った。従業員に訴えたのかもしれない。

 忘れられない思い出である。

 

4 池袋文芸座及び地下劇場

  地上1階の文芸座では外国映画が上映され、その地下にある劇場では日本映画が上映された。娯楽作品より、キネマ旬報BEST10に入るような芸術作品を上映した。

 文芸座で何を見たのかほとんど忘れたが、ベイルマンの『野いちご』だけは覚えている。あまりにも退屈だった。若い私にはこの作品を鑑賞する力がなかったのである。

 地下劇場には強い思い出がある。

(外観の飾りが特長)

 ここで毎週土曜日にオールナイト特集を行われていた。これは、あるテーマに基づいた作品を、たとえば、「〇〇監督特集」だったら、その監督の代表作を夜の8時か9時くらいから明け方まで連続して上映した。作品の長さによりけりだが、5、6本くらいあったと思う。8時間以上鑑賞することになる。当然入場料は倍になった。400円前後くらいだった。

 大学1年生の時にここで初めてオールナイトを経験した。「大島渚特集」だったので、興味を抱いた私は勇んで見に行った。当時大手映画会社に属さない監督たちの作品は前衛的で、大島もその一人だった。『愛と希望の街』『日本の夜と霧』『日本春歌考』などが上映されたが、意識を集中して見られたのは最初の作品だけだった。眠くなり、2本目はうつらうつらして見ていたが、そのうち本当に眠ってしまった。ただ、音量がある場所なので睡眠は長く続かず、また見出したが、もう味わうことは出来なかった。

 私にはオールナイトは無理なことが分かった。

                    

 

 

5 自由が丘劇場

 私は東横線の学芸大学駅に住んでいた。日吉駅にある大学に通っていたこともあり、2つ先の自由が丘駅でよく降りた。上記の映画館ほどではないが、時々入った。ここは、全線座と似て、娯楽系の映画がかかっていた。面白かった作品で、また見たいと思った作品が上映された時、ここに入ったことを覚えている。確かマックウイーンの『ゲッタウェイ』を見た。

 自由が丘には、もう一つ武蔵野推理劇場があった。どちらかと言えば、こちらの方が名画座にふさわしいのだが、私は入ったことがなかった。

 

6 飯田橋佳作座

 同郷の友人が法政大学に通っていた。彼に会うため、時々法政大学へ行った。そのついでにこの映画館に入った。観客に若者が多かった。法政大学の学生は何割か占めていただろう。そのため入りやすく、居心地がいい感じがしたのを覚えている。

 アメリカのニュー・シネマ作品を度々上映した。『イージーライダー』『明日に向かって撃て』『真夜中のカウボーイ』をここでも見た。

 なぜか洋画ばかりでなく、邦画も時々上映されていた。人気のある『寅さんシリーズ』はその代表である。第1作に感動した私は、ここで2作目や3作目を見た。

 池袋文芸座と並んで、上質の名画を上映した。名画座の名にふさわしい名画座であった。

                     

 

 以上の名画座は、少なくとも10回は入ったことのある所である。その他、一度か二度行ったことのある名画座も記しておこう。

 

A 大塚名画座

 南口の商店街のビルの3階にあった。地下には邦画専門の鈴本キネマが入っていた。小さな名画座で、74年の11月14日に『ウィークエンドラブ』を見たことが日記に書かれてある。すごく笑い、感動したことを覚えている。人をハッピーにさせる映画だった。

 最近近調べたところ、大塚名画座であることが分かった。ここに何回か足を運んだことも思い出した。けっこう私好みの映画を上映していたように思う。

 

B 蒲田スカラ座

※画像なし

 74年の頃、同郷の友人が蒲田界隈に住んでいた。彼を訪ねて行った時に寄り、『ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実」を見たことを覚えている。映画は今ひとつだった。

 

 

C 五反田名画座

※画像なし

 上京した頃、同郷の友人が五反田の新聞店で働いていた。彼に会いに何度か行った時、立ち寄り、『シェーン』を見た。観客が少なかった。1年後彼が引っ越したので、もう行くことはなかった。

D 銀座並木座

 銀座にはほとんど行ったことがなかった。貧乏学生の私にとって、洗練され、大人の雰囲気を漂わせ、物価の高いこの地は縁遠かった。したがって当映画館には一度だけ行ったことを覚えている。何を見たのかは忘れた。

 

E 上野名画座

 上野駅不忍の池改札口を出ると、右手に上野通が走り、そこに面して松竹デパートという大きな看板が掲げられた横長のビルがあった。聚楽第という大衆レストランが2階にあり、1階に3軒小さな映画館が並んでいた。その1つが『上野名画座』であった。ここもどちらかといえば、娯楽系の作品が上映された。『ダーティ・ハリー』を見たことを覚えている。

 

F 新宿武蔵野館

 1975年3月26日の日記によれば、「新宿でパピヨンを見た。これで二度目」と書いてあった。館名は記されてないが、新宿武蔵野館だと思われる。新宿東口にはたくさんの名画座があったが、ほとんど行かなかった。西口のパレス座ばかり行っていた。

 この時入った名画座は駅東口に近かった。だから新宿武蔵野館という予想が立てられる。

 

G 渋谷文化劇場

 道玄坂を上って行くと、左に渋谷東宝会館という建物があり、映画館が4つ入っていた。

 その中の一つが地下にあった渋谷文化劇場である。ここで何を見たかは忘れてしまった。

  (渋谷東宝会館。一番左に渋谷文化劇場の入口があった)

 

H 東急名画座

 渋谷駅の東口の前にかつて東急文化会館があった。その中にこの

名画座があったのだが、名画座を名乗っている割には入場料が高めだったように思う。何回か足を運んだが、何を見たかは忘れてしまった。

 

(東急文化会館)

 I テアトル銀座

  銀座に封切映画館「テアトル東京」があった。その地下にあったのが「テアトル銀座」である。こちらは名画座なので、価格は当然安い。

 74年の2月12日の日記にこの映画館で『卒業』を見たと記されている。『卒業』はお気に入りの映画なので再見したということである。

(ビルの右側奥に「テアトル銀座」の看板が見える。その下にテアトル銀座の入口があり、地下に通じていた)

 

 私が大学時代に最も好きだった作品はアメリカのニュー・シネマ作品や、イタリア映画(フェリーニ、パゾリーニ、ネオリアリズムなど)及びフランス映画(ルネ・クレマンやルルーシュなど)だった。感動した作品は何度も見た。上記の映画館のいずれかで見たはずだ。人気のある名画はどこかで必ず上映された。72年に「ぴあ」が発行されてから、これで調べるのが楽しみだった。

 

 最後に、当時見た『ラスト・ショー』という映画を紹介する。これは1950年代のテキサスの田舎町を舞台にした青春映画である。ここには映画館が一つだけあったが、時代の波に押され、閉館することになった。『ニュー・シネマ・パラダイス』と同じ主題である。

 小説でも、浅田次郎が『オリヲン座からの招待状』という短編で、閉館する映画館を主軸にしたドラマを描いている。

 映画化されたらしいが、私は見ていない。

 

 かつての名画座も同じ運命をたどった。しかし、そこで見た映画と映画館にまつわる思い出は映画ファンの心にしっかりと刻まれている。小さな灯は永遠に消えることはない・・・・。

 諸行無常。万物流転。

 この言葉が私の胸をかすめていく。

 

                  ――― 終 り ―――