ほぼ一か月ぶりにブログを書く。夏休みの2週間、孫を預かっていた。7歳(小2・男)と4歳(保育園年少・女)の兄妹である。そこに別の孫の兄弟も4日間ほど加わった。そちらは6歳(こども園年長・男)と2歳(こども園幼児・男)である。
この間、我が家は学童あるいは保育園と化した。都会っ子の彼らは田舎の我が家に来るのを楽しみにしている。家が広く、庭があり、大暴れできるからである。
私たち夫婦も彼らのために、子ども用プールや自転車・三輪車・ストライダー・キックスケーターなどの乗り物を以前から用意していた。
我が家は古いが、今は亡き母親を介護するためにリフォームし、段差がないようにした。したがって室内で三輪車・ストライダー・キックスケーターが乗り回せる。
彼らは毎日思う存分暴れ回り、ようやく帰京した。
おかげでやっとキーが打てるようになった。
さて、今回のブログは「青春の旅シリーズ」の完結編である。前に何度か述べたように、我が人生にアクセントをつけることが出来た旅が5つある。4つは青春時代の旅で、もう一つは老後(60代)の四国お遍路である。これらはただの物見遊山の観光旅行ではない。過去を振り返り、現在を見つめ、未来を考える旅になった。
今回の旅の場所は小笠原の父島。時は1975年(昭和50年)の夏。私は大学4年生。当時就職活動の渦中にいる私は悩んでいた。
私は小説家を目指し、文学部に入った。しかし作品をものに出来ず、自分の才能の無さに気づいた。それでも卒業後は文学に関わりたい職業、具体的に言えば、文学系の出版社に入りたかった。中でも岩波書店、講談社、新潮社、文芸春秋社、中央公論社など有名会社は給料が高く、福利厚生が整っているので、私は憧れた。当然文学部の学生全般に人気があったので倍率がとてつもなく高かった。
元来出版社の編集部門はわずかな人数しか採用しない。そこに73年の秋に発生したオイルショックが輪を掛けた。採用数を減らしたのである。出版社ばかりでなく、多くの大企業も採用を見送ったり、減らしたりした。その結果、給料が高い上記の出版社の倍率は天文学的な数字にまで跳ね上がった。
今回の旅に参加したS君は、落第せずに卒業したので、昨年中央公論社を受けたのだが、見事落とされた。他の知人も同様だった。
文学部の学生は、経済学部や法学部の学生と違い、文学愛好家が多いので、それに関する職種のマスコミ(新聞社、通信社、出版社、放送局、広告代理店など)を受ける者が多かった。数年前に卒業した先輩の中には有名マスコミ会社に合格する者がいたが、オイルショック以降の学生、すなわちS君のように今春卒業した者や、私のように来春卒業する者はほとんど受からなかった。
そのような現実を前にした私は、大手出版社を諦め、学校法人や社団法人の事務職に就こうと考えるようになった。公務員は倍率が高い上、その内容に関心が湧かないので初めから除外した。
それらの就職試験は秋であった。当時大企業や有名会社や公務員試験は1学期や夏休みに集中した。それに受からなかった者が目指すためなのか、中堅企業や法人の試験は秋に行われた。
私は秋に備え、夏休みに就職試験の勉強に専念する予定を立てていた。
そんな時、S君から小笠原へ旅の誘いを受けたのである。時期は7月中旬。これならば夏休みを勉強に充てられる。気分転換を果たし、就職試験への鋭気を養えるではないか。元々海が大好きだ。小笠原は南海の秘境。船でしか行けない。それも2泊3日かかる。入道雲、青い空、紺碧の海が脳裏に浮かぶ。サンゴ礁。透き通った水。色彩豊かな魚影の群れ・・・。
(父島の二見港)
学生最後の夏、おそらく学生時代の最後の旅行になるだろう。そう思って私は承諾した。
この旅行を企画したのはS君である。同行したのは、I君、MY君、KR君、AT君そして私である。彼らについては「青春グラフィティシリーズ」で紹介したが、おさらいすると、S君は文学部大学院修士(西洋史)の1年生。I君はS君の竹馬の友で二浪して早稲田の法学部に進んだが、留年したため3年生。MY君はS君の友達で塾高から医学部に進んだ秀才。来春卒業の6年生。KR君は今春卒業後、勤めずに司法試験の勉強に励んでいた。AT君は私が留年した時のクラスの同級生(彼も一浪)だが、3年生の2回目を行っていた。なお、彼だけが一歳下。
S君とKR君と私は一浪して入学したが、私だけ1年生の時に留年した。3人共K教授のゼミ所属。
まあ、こんな風に説明するとややこしくなるが、要するにMY君以外はみんなどこかでつまずき、モラトリアム人間だった。このように自由気ままに生きられたのは、やはり恵まれていたのである。その点で親に感謝しなければいけない。
当時、若者は大人に反抗するのが当然という時代的思潮があった。要するに若者に元気があった時代だった。だから私たちのようなはみ出し若者もけっこうなんとかやれたのだろう。
そんな毛色の違った者同士の中心にいたのがS君だった。S君がいたからこそこの旅が実施できた。
当時の日記を見ると、旅行の内容についての感想が少し記されてある。期日も書かれてある。7月15日から21日までの一週間である。6泊7日の旅である。往復に4泊かかったので、島での宿泊数は2泊である。
S君がカメラを持参し、15枚の写真を撮ってくれた。資料はこれしかない。これを元にして思い出を再現してみる。
7月15日(火)・1日目
夕方、私たち6名を乗せた父島丸(小笠原海運)は竹芝桟橋を出航した。
(1980年代の竹芝桟橋:大きくない桟橋である)
私とMY君KR君は6泊7日の行程だが、S君とI君とAT君はその倍の12泊13日の行程である。S君から12泊の方を強く勧められたが、就職試験の勉強のことが頭から離れない私は断った。12泊も滞在したら、心が弛緩し、試験勉強に集中できなくなるような気がしたからである。私の場合、気分転換のために行くのである。これはMY君とKR君にも当てはまった。
それに比しまだ学生のS君、I君、AT君の3人は今年就職のことを考えなくてよい。お気楽な身分だから12泊出来るのだ。
東京から父島までは996km。約1000キロ。緯度は奄美諸島とほぼ同じ。船で2泊3日かかる。気が遠くなるような旅だ。もちろんこんな長い船旅は生まれて始めてである。青函連絡船の4時間半がこれまでの最高である。
父島丸は2616トン。乗客ばかりでなく貨物もたくさん積んでいる。定期船はこれ1本しかない。さらに小笠原には飛行場がない。まさに父島丸は小笠原の人々にとって正真正銘のライフラインだった。
(父島丸:けっこう老朽化している)
この船は38時間かけて父島に行く。そのため乗客は船で2泊せざるを得ない。船は島で2泊滞在し、その間に貨物を降ろしたり、乗せたりし、最終日に乗客を拾って、2泊3日かけて東京へ戻る。
だから観光客は、往復を含め1週間単位で旅行することになる。都塵を忌避し、俗界から遮断されたいなら最高のリゾート地である。
西空が朱色に染まり、湾岸地区のビルの群れが影絵になろうとしていた。
私たちを含め大勢の人がデッキの手すりに寄りかかっている。羽田空港近くに差し掛かると、大きなジャンボジェットのシルエットが夕暮れの空をかすめ、斜めに傾いた翼が金色の光を弾いた。その美しさに人々は歓声を上げた。
(イメージ写真:夕日に染まる羽田空港を飛び立つ飛行機)
東京湾から太平洋に出ると、天空は闇に包まれ、風が強く吹き出し、揺れが激しくなった。私たちは三等客室(一番低価格)に戻った。カーペット敷きの広い船室には老若男女が寝転がっているが、若者の姿が目立つ。
早速買って来たビールや日本酒で酒盛りであるが、私は船酔いのために早々と席は外し、薬を飲んだ。酒盛りになると俄然I君が活躍する。彼の講談のような話に耳を傾けながらうつらうつらになった。薬のおかげで嘔吐をせずに済んだ。
7月16日(水)・2日目
目覚めると、丸窓から見える海がきらめいている。ガラスの破片のように砕けた太陽の光が踊っている。
私たちは甲板に出た。昨夜と打って変わり、波の起伏がない水面である。私たちはここで日光浴をし、おしゃべりに興じ、飲食して一日を過ごした。
(S君がカメラを持ってきていた。誰かに撮ってもらった)
にぎやかな私たちの集団は目立ったらしい。子どもが近づいてきたり、乗客から話しかけられたりした。
時おり、イルカが並走し、トビウオが滑空した。紺碧の海。水平線では入道雲の群れが彫刻のように並んでいる。青い空。白い雲。輝く太陽。
(イメージ写真)
無限の大洋を父島丸は進む。エンジンの音。船尾から伸びる引き波。煙突から吐き出される黒煙。父島丸だけが生きているようだ。
乗客の顔は皆ほころび、空と海の美しさを堪能していた。
夜の光景も忘れられない。
夜空に満月が懸かっている。月光の道が水平線からこちらにやって来る。月の明るさが銀河を消してしまったが、それでも都会で味わえないほどの星が天空で点滅している。
(イメージ写真:海の上の満月)
海上ではなく、湖上にいる感じがする。聞こえる音はエンジンの音だけ。
青い闇を醸し出している月を見ていると、アンディ・ウイリアムズの『ムーン・リバー』が脳裏をよぎる。
私たちは一時誰もしゃべらなかった。ただ月を見ていた。
7月17日(木)・3日目
朝方、父島の二見港(北部にある)に着いた。
二見港は大村地区にある。この地区に役場・警察署・郵便局・スーパーなどが集まっている。小笠原村の中心地である。
(現在の大村地区の地図)
(現在の大村地区:当時は3階建ての建物はなかった)
私たちはこの地区あるコテージに泊まることになっていた。それも自炊である。驚いたことに小笠原には本土によく見られる民宿やホテルがない。したがって観光客は我々のようにコテージに泊まり、自炊をしたり、食堂(これも数が少なかった)で食べたりするしか方法がなかった。
建物と言えば、民家はほとんどが平屋で、公共的な建物だけが二階建てだった。
コテージは、小さな一軒家のアパートのような建物だった。それが八棟ほど並んでいた。
(コテージの前で:AT君撮影)
中は八畳くらいの広さの部屋と小さな台所、トイレと風呂が付いていた。台所には、炊飯器や鍋や皿など簡単な調理器具が整えられてあった。
食材は村唯一の商店である生協スーパーで調達する以外に方法がない。なにしろ物資の運送は父島丸だけである。本土で享受できる利便性をこの地に求める考えは捨てなければいけなかった。
私たちを担当してくれた宿泊施設の従業員は30代くらいの女性で、見るからに白人の血を引いた顔立ちをしていた。髪も金髪に近い。江戸時代の終わり頃小笠原はアメリカの捕鯨船の停泊地であり、アメリカ人が住んでいた。彼らの子孫が今でも暮らしている。この女性もその一人なのだろうかと勝手に想像した。彼らは欧米系島民と呼ばれていた。
コテージに荷物を置くと、早速泳ぎに行った。幹事のS君が仕入れた情報に基づき、境浦海岸という海水浴場に行くことになった。なにしろみんなものぐさな連中ばかりである。S君以外、誰も事前学習して来なかった。すべてS君に任せている。
境浦には村営バスで行った。唯一の公共交通である。
着いた時にまず目に入ったのが、波打ち際から数十メートルに横たわっている沈没船である。濱江丸という輸送船で太平洋戦争中に米軍による空襲に遭い、この地に漂流し、座礁したらしい。
赤くさび付き、破損が激しいが、形はそのまま残り、戦争の恐ろしさを語っている。
(当時の濱江丸の写真。形がほぼ残っている)
(現在の境浦海岸:濱江丸はほぼ沈んでしまった)
この浜辺は月形に広がり、白砂である。水が透き通っており、波が全く立っていないプールのようだ。防波堤の役割を果たすサンゴ礁が沖に見られないということは、水面下にあるのだろう。
こんなきれいな海水浴場に来たのは初めてなので私は興奮してしまった。
(濱江丸をバックに。立っているのが私。KR君と:S君撮影)
(AT君と:S君撮影)
他の連中は泳ぎに自信がないのだろう。私一人でこの座礁船まで泳いで行き、船体にしがみついた。
振り返ると、みな呆れたような顔で私を眺めていた。
コテージに帰ると、夕食の段どりをすることになった。炊事経験があるのは私だけなので、食事は自然と私が作ることになった。何しろものぐさな連中である。手伝う気がさらさらない。
米だけ研ぐことにし、おかずは刺身やインスタント食品で済ませることにした。
それらの食材を買いにみんなで生協ストアーに出掛けた。午後4時頃なのだが、街には人が歩いてない。
(現在の生協:当時はこんなに色鮮やかな外観ではなかった)
後で先程の従業員から聞いたのだが、午後になると住民は外出しないという。強烈な紫外線を避けるためだそうである。日が陰る夕方(5時以降か)に買い物をしたり用を足すという。
したがって午後歩いているのは観光客だけなのだ。
I君、S君、AT君は大酒飲みなので、持参したウイスキーだけでは足りず、冷えたビールを買った。当然夕食は酒盛りになり、酔った勢いで食事後、夜の浜辺に繰り出した。
そこに行くにはメインストリートを横断しなければならないが、外灯が少ないうえ、人影もまばらである。ただ、月と星の光が闇夜を明るくしている。
私たちは海に向かって叫んだり、夜空を見上げたりした。
7月18日(金)・4日目
午前中、私たちは旭平展望台から初寝浦展望台まで歩くことにした。初寝浦展望台近くには旧日本軍の軍用施設の残骸がある。これも見学しようということになった。
今日も快晴である。朝から青い空が広がり、強烈な日差しが街に注いでいた。
旭平展望台までは村営バスで行った。15分くらい乗っただろうか。バス停で降りると、坂を登らなけばならない。
(現在の旭平展望台から見た絶景)
展望台から眺める景色は絶景だった。みんなの顔が自然とほころぶ。半島の遠景をバックに写真を撮った。
(旭平展望台:I君撮影)
(同じく旭平。当時流行っていたチューリップ帽をかぶっている:S君撮影)
ここから都道を通って初寝浦展望台のバス停まで歩く。下り坂なので楽である。20分くらいでバス停に着き、そこから密林を抜ける道を5分ほど歩いて展望台へ。途中軍用施設のコンクリートビルの残骸が幾つかあった。その一つに立ち寄る。終戦からちょうど30年。廃墟である建物はその歳月を語っている。中は戦争の虚しさが漂っている雰囲気だ。
(軍用施設の廃墟ビルの前で:I君撮影)
(現在の写真)
初寝展望台は柵付の台でなかった。道を四方に拡大したような小さな広場だった。ここから
眼下に初寝浦海岸を見下ろせる。ここの眺望も絶景である。
(初寝浦海岸の砂浜は美しい:S君撮影)
(I君の後姿の一部が写っている)
(現在の写真)
みんなで芝生のような地面に腰を下ろし、風光を堪能した。
(立っているのはI君。振り返っているのはS君。右端はMY君:AT君撮影)
旭平でもそうであるが、このような明媚な海を見ていると、悩ましい就職活動の現実をいっとき忘れる。不思議なことに未来が輝いているように思えて来る。希望を抱けるのだ。
思えば、小さい時から海が好きだった。海なしの栃木県に生まれたことも関係していると思う。
小・中時代、隣県の茨城に海水浴に行くのには泊まりでないと行けなかった。当時はそれだけ不便だった。
中学生の時に加山雄三の『海の若大将』を見て海への憧れに火が付いた。
大学生になってから海を満喫しようと新島や伊豆へ海水浴に行った。茨城の海に較べそこの水はきれいだった。その延長に今回の小笠原旅行があるのだが、昨日訪れた境浦は段違いにきれいだった。
海を眺めていると幸福感に包まれる。たぶん他の連中も同じだと思う。オイルショックのせいで、MY君以外、みんなの将来が不透明になった。もしかするとエリートのMY君だって悩みを抱えているかもしれない。そうでなければ、我々と一緒に来るはずがない。
肌をさする風。陰らない太陽。快いリズムの潮騒。紺碧の海。半球の蒼天。水平線に浮かぶ入道雲・・・。
みんなしばし黙したままだった。
いったんコテージに帰り、昼飯を食べてから海水浴に行った。行き先は小港海岸。
(上から見た小港海岸)
ここは両腕のような左右の岬に囲まれた入江である。白い砂浜が弓のように広がり、さざ波が静かに押し寄せる。境浦海岸より美しい感じがした。もちろん水は透明で、小魚が両足の間を縫っていた。
(小港海岸の透明な水)
私たちは声を上げ、少年のように飛沫を散らしてじゃれあった。
疲れては日光浴をし、体が火照ると海に入った。
大声で騒いでいる私たちは目立ったらしい。近くにいた4名の女性が私たちの方をよく振り向いた。
(肩車をしてくれているのはS君:I君撮影)
(I君が撮っている。2人の女の子が振り返っているのはそれだけ私たちがにぎやかだったことを表している)
(全員集合:撮影は知り合った女の子)
彼女たちの動作にいち早く反応したのがS君である。社交的で行動力のあるS君は早速声を掛けた。
私たちのグループで、女性に気軽に声を掛けられるのはS君しかいない。他は私を含め、みんな臆する方である。自分で言うのも変なのだが、異性との付き合いに関しては堅物なのだ。
それでも旅は人を開放的にさせる。それは女性たちにも当てはまるのだろう。4人の女性はS君の声掛けに応じた。
このような時、加わる者と加わらない者が出て来る。私とAT君は加わったが、I君とKR君とMY君は入って来なかった。
女性の方も一人は関心がない様子に見えた。
結果的に3対3になった。ちょうどバランスが取れたのが幸いし、一気に仲良くなった。彼女たちはOLで、同年齢くらいであった。美人というほどではないが、きさくで、明るかった。
彼女たちは浮き輪を持っていた。わたしたち野郎どもは押してあげたり、引いてあげたりしてじゃれあった。中の一人が海岸の右手に岩礁があり、水中眼鏡を使って泳ぐと、色鮮やかな熱帯魚が見られると言った。水泳が得意な私は彼女と意気投合し、二人で行くことになった。
彼女たちは浮き輪同様シュノーケルのついた眼鏡も大村地区の業者から借りて来ていたのだ。
私は生まれて初めてシュノーケルを使った。とはいっても、水中深く潜ったわけではない。吸水口に水が入らないよう海面を平泳ぎで進んだ。
(イメージ写真:シュノーケリング)
それでも南海の水の中は息を呑むような美しさであった。岩に光の縞がゆらめき、球状の無数の泡が躍り、彩色豊かな魚が群れをなして泳いでいる。その美しさに私は魅せられた。
(イメージ写真:海の中)
「すごくきれいでしょう」
休んだ時に彼女が言った。私はうなずいた。再度潜った時、どちらかが手を出したのか忘れたが、手をつないで泳いだ。
前述したが、人の心をもみほぐしてくれるのが海水浴なのだ。
ただ、彼女は私の好むタイプではなかったが。だからこれ以上に発展しなかった。
話して分かったのだが、彼女たちは明日の船で帰るという。ということは私たち3人(他にKR君、MY君)と同じであった。
先に出る彼女たちとは浜で別れた。私たちは夕暮れ近くまで泳いでから宿に帰った。
明日帰る私たち3人にとって父島で丸一日過ごせるのは今日だけである。私の場合、今日一日は充実していた。夢のような楽しい時間だった。
夕食後、私たちはまたコテージ近くの浜(大村海岸)に出た。けっこう人が出ていた。明日船が出るので帰ろうとする観光客は最後の夜を味わいたいのだろう。
空には無数の星が瞬いていた。どうしてこんなに星があるのだろう。そう思わせるくらいの星の数である。名残を惜しみながら、星を見つめ、快い波音に耳を傾けた。
(イメージ写真:星空)
7月19日(土)・5日目
この日は起きるのが遅かった。旅で疲れたのかもしれない。出航は午後4時頃である。現実は厳しい。着いたと思ったら、もう帰らなければいけない。
この日の午前は大村海岸で遊んだり、買い物をしたりして過ごした。
そうこうしているうちに出航が近づいた。
「おまえら、残念だよ。こんないい所に3日しかいないなんて」
もう一週間とどまることになるS君は言った。それは仕方がない。帰る連中には理由がある。過去の私ならS君たちと同じく長逗留しただろう。
(父島丸の前で記念写真)
港には実に大勢の人が集まった。何しろ週に一便の定期船である。村の必需品はこの船が運んでくる。だから村民に大切にされている。
(船上の私たち3人を岸壁からS君が撮ってくれた)
出航の際はドラが鳴り、汽笛が響き、音楽が流れた。なんと父島丸を見送るために幾艘もの漁船や小型船が付いて来るのだ。
(現在の見送り。1975年の時もこんな感じである)
太陽が傾き、次第に海が黄金色になって来る。思わず感傷的になる。さらば小笠原。
7月20日(日)・6日目
少し困ったことが起きた。それはKR君とMY君との会話が続かないのだ。共通の話題が見つからないといえようか。
元々、S君を通じて二人とは知り合いになった。S君がいれば話が自然と盛り上がるのだが、彼はいない。
KR君は普段から寡黙である。MY君は会話は好きだが、話題による。哲学や思想の話にはのって来るが、映画・音楽・文芸など柔らかい話題はあまり興味がない。反対に私やKR君は医学に興味がない。あれば医者の卵である彼はいろいろ語ったのかもしれない。
親友同士なら立ち入った話も出来たのだろうが、そこまでの関係ではない。
次第に私は気疲れしてしまった。彼らも同じで、互いに気を使い、別々に過ごすことが多くなった。
そんな時、昨日会ったOLたちと船で再会した。私はKR君やMY君を彼女たちとの会話に誘ったが、二人は全く興味を示さなかった。
だから私一人で彼女たちと話した。一緒に水中散歩した女の子ではなく、別な子が私に関心を示しているように見えた。私の出身大学や将来の職業や家族のことを根掘り葉掘り聞くのである。帰京後付き合いたいような雰囲気を示した。
私もこの子の顔だちや性格に好感を抱いた。しかし彼女はOLであり、私はこれから就職試験に励まなければならない。現実的な考えが私を押しとどめた。これ以上話が深まらないように言葉を選んだ。
数年前に会っていたなら、住所を交換したかもしれないが、もう遅すぎた。
7月21日(月)・7日目
朝、竹芝桟橋に着いた。OLたちと別れ、新橋の駅でMY君やKR君と別れた。
一週間の旅のうち船で過ごしたのが4泊5日であるのに対し、父島に滞在したのは2泊3日、丸一日滞在したのはたった1日。
にもかかわらず父島に一週間滞在したような感覚だった。それだけ印象が強烈であり、充実していたのだろう。
将来、私はこのような島で暮らしたくなった。海への憧れがまた強まった。
さあ、これから秋の就職活動に向かって勉強である。暑い都会の雑踏はいやおうなしに私を現実に引き戻した。
今、振り返る。一体この旅は何だったのだろう? 私はこの旅でいろいろあった大学生活へ終止符を打ったと思う。楽しくかつにがかった青春時代への挽歌になったといえよう。
当時は好きでなかったが、老人になってから聞くようになった曲に小椋佳の『さらば青春』がある。なぜか小笠原のことを思い出すと、この曲を口ずさんでしまう。
♪ 僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去るものに
僕は呼びかけはしない かたわらを行くものさえ ♪
この旅行には後日談がある。AT君はフルートを持参していた。彼は趣味としてクラッシク・フルートを習っていた。だが、私の滞在中には吹かなかった。
S君やI君と残った彼は、星が降るある晩、浜辺でバッハの『無伴奏パルティータ』を吹いたのだそうだ。その流麗な響きに二人は感動したという。さざ波の音しか聞こえない浜に笛の音が流れる。それは宙に舞い、無数の星がきらめく天上へ上って行ったのかもしれない。
「あんなロマンチックな体験をしたことがなかったよ。お前は聞き損ねた。だから残ればよかったのに」
後日S君は感動した面持ちで私に語った。
その通り、私は残ればよかった・・・。
AT君はあれから22年後、直腸がんのために46歳の若さで亡くなってしまった。結局私は彼のフルート演奏を聞かないまま、彼と永遠に別れてしまったのだ。
この拙文を、青春をシェアしたAT君に捧げたい。AT君、付き合ってくれてありがとう。
(笑顔のAT君)
――― 終り ―――