8月9日(水)・7日目

 旭川駅から網走行き一番の急行に乗った。目的地に早く着けば着くほど昼間の時間を有効に活用できる。

 網走までは約5時間の旅だ。連日、長時間にわたる列車の旅を続けていると、感性が麻痺して来る。車窓の景色に感動しなくなった。早く着いて欲しいと願うばかりだ。

  

 網走ではまず有名な網走刑務所跡に行った。ここ6、7年間、高倉健主演の網走番外地シリーズの映画が人気を博していた。そのせいか刑務所跡見学の観光客が多かったらしい。ただ、私はやくざ映画に全く興味が湧かなかった。

 続いて釧網線に乗って約20キロ離れた小清水原生花園を訪れることになった。列車の本数が少ないので、駅前の民芸店に立ち寄った。

(網走駅前の民芸店で。リュックに腰を下ろしている)

(民芸店で出会ったカニ族の女性と)

 小清水原生花園駅には約30分くらいで着いた。

 原生花園で京都から来たOLたちと写真を撮った。飛行機で来たという。さすが社会人は違うと思った。彼女たちは私たちと同じくらいの年か。話しやすかった。

            (京都弁ののんびりとした響きがなんともいえない)

 原生花園のそばにオホーツク海が広がっている。初めて見るオホーツク海に感動した。海の色が藍色に近い。なんか深そうだ。関東の海の色と違う。ちょっと不気味な感じがした。

(このうれしそうな顔。女の子と間違えられたことがある)

 今夜は網走駅に野宿。けっこう大きな駅だ。私たち以外にも野宿するカニ族が数名いた。

                    (当時の網走駅)

 

8月10日(木)・8日目

 今日は美幌峠から屈斜路湖を目指そうと考えた。それには美幌駅に行かなければならない。昨日利用した石北線を戻る形になる。

 

                    (当時の美幌駅)

 美幌峠方面には相生線という支線が美幌駅から出ていたが、途中の北見相生駅で終わりである。そこからはバスしかない。

 相生線は本数が少ないので待つことになり、駅前の民芸店に立ち寄った。

              (民芸店の店員さんと。貸衣装を着て)

 駅に戻ると、二人連れの女の子に出会った。彼女たちもリュックを背負っているのでカニ族である。

 どちらともなく挨拶をすると、仲間意識が働き、話し出した。どこから来たのとか、どこへ行くのとか、話し出すと止まらない。普段はこのような形にならないのに、旅先は違う。これが旅の醍醐味だろう。

 二人は東京から来た女子大生だった。歳も私たちより少し下のようだった。

 髪の長い方の子は落ち着いた話し方をする子だった。容姿にも引かれた。ここで住所を聞けばよかったのだが、出来なかった。これまでもそうである。直感で好きになった子にアッタク出来ない。そのため片思いばかりをして来た。

 二人が美幌峠を目指していたのなら、一緒に行こうと誘えたかもしれない。しかし彼女たちは美幌峠を見学し終わって網走に行こうとしていた。うまくいかないものである。

 近くを通りがかった人に頼み、一同の写真を撮ってもらった。

           (前列右側の女の子に惹かれた。今頃どうしているだろう) 

  続いて、一人での写真をN君にとってもらった。

             (私たちと女の子たちのリュックも映っている)

 

 相生線に乗り、終着駅の北見相生駅で降りてからバスに乗るのではなく、ヒッチハイクをすることにした。バスの本数が少ないためであった。国道を歩いていると、二人連れの女の子に出会った。話し掛けると、彼女たちもヒッチハイクをしているという。私たちと同じく美幌峠に行き、それから屈斜路湖まで下るという。彼女たちは東京の女子大生だが、出身は栃木県で、しかも隣の郡の烏山町で生まれ、育ったという。烏山町は私の母の出身地である。遠い親戚が商売をしている。店名を告げると、知っていると答えた。

 とにかく彼女たちはおしゃべりだった。こちらが一つ話そうとすると、五つ六つ話す。4人を乗せてくれる車をつかまえることは困難なので、そこで別れた時はほっとした。しかし、屈斜路湖の景勝地和琴半島で再会し、写真を撮った。

                (元気がある同郷人だった)

 しかしいくら同郷とはいえ、彼女たちには関心が湧かなかった。

 この後、私たちは根室半島の納沙布岬を目指した。まず、バスで弟子屈駅に行き、そこから釧網本線に乗り、標茶(しべちゃ)駅で標津線に乗り換えた。中標津駅で再び支線に乗り換え、終着駅の厚床駅でさらに根室本線に乗り換えた。目的地の根室駅に降り立った時はすでに夜だった。

 今夜はこの駅で野宿し、明朝納沙布半島を訪れることにした。

(当時の根室駅)

 

8月11日(金)・9日目

 根室駅から納沙布岬までヒッチハイクで行った。軽自動車タイプの車に乗せてもらったことも記憶している。

 天候が悪く、靄がかかっていたので、歯舞色丹諸島が見えなかった。肌寒いため雨具を羽織った。 

(納沙布岬灯台を背景に)

 

 納沙布岬から根室駅まではバスに乗った。

 N君との旅にそろそろ終止符が打たれようとしていた。彼と函館駅で会ってから8日間旅をしている。赤の他人である私たちが長い期間行動を共にしえたのは二人の相性がよかったのだろう。

 旅は道連れ、世は情け。

 この言葉が示すように、二人で楽しみを共有し、時に助け合った。

 だが、二人共、二人連れに飽きて来たのだ。一人なら行きたい所に行けるが、二人連れではどちらかに合わせなければならない。すなわち我慢しなければいけない。これが嫌になって来た。

 そこで私の方から、コンビ解消を提案した。N君は了解してくれた。

 この先、私は知床半島を訪れる予定であるのに対し、N君は釧路に行きたかった。その後、旭川のペンフレンドともう一度会うという。

 根室本線で厚床駅まで行き、そこで私は降りることになった。列車はそのまま釧路へ行く。車中で私はたくさん撮ってもらった写真を送ってくれるよう、1000円札を渡した。

 厚床駅のホームに降りた私は、車窓のN君に手を振った。彼も振った。N君、ありがとう。おかげで思い出深い経験が出来た。友よ、さらば。

 

            (当時の厚床駅:汽車がまだ走っていた)

 私は前日乗った路線を反対にたどった。すなわち標津線の支線で中標津に行き、そこで本線に乗り換え標茶に赴き、再び釧網本線に乗り換えた。知床を訪れる前、摩周湖に立ち寄ろうと考え、弟子屈駅で降りた。

 摩周湖まではバスで行った。ただ、今日は朝から曇り空である。それも次第に霧が出て来た。予想通り、摩周湖は霧に包まれ、絶景を見渡すことが出来なかった。

         (イメージ写真:実際はもっと霧が深く、ほとんど見えなかった)

 元々摩周湖が晴れる日の方が少なかった。その日に訪れられるのは運がいいのである。

 私が中3の時、布施明の『霧の摩周湖』が流行った。霧の展望台の手すりにもたれた私はその曲をくちずさんだ。

 弟子屈駅にバスで戻り、釧網本線に乗って斜里駅で降りた。小さな駅で降りる人がほとんどいなかった。すでに真っ暗だった。駅前は灯りが少なく、寂寥感が漂っていた。食堂がぽつんと一軒あった。空腹だった私はそこに入った。古い店内はあまり明るくなかった。店の主人と常連客らしい人が話していた。私は中華そばを頼んだ。

 わびしい風景であった。

(JRになった頃の斜里駅:当時はもっとひなびた感じがした)

 後年、高倉健主演の『駅STATION』という映画を見た。北海道の小さな駅(名は忘れた)を舞台にした映画だが、その時、この斜里駅のことを思い出した。

(高倉健は北海道が似合う)

 そんな小さな駅にも私以外のカニ族が2名ほど野宿していた。これまで札幌、旭川、網走、根室の駅に泊まった。どこにでもカニ族はいた。札幌や旭川に較べると、網走や根室は小さな駅である。斜里にいたってはさらに小さな駅である。そんな末端のような駅にもカニ族がいるということは、それだけカニ族が多いことの証明である。、全国から渡って来たカニたちはこの広い大地を彷徨っているのだ。

(イメージ写真:駅で寝る)

 

8月12日(土)・10日目

  知床半島では宇登呂へ行くことにした。ヒッチハイクで行こうと思い、沿岸の道(国道334号)を歩いた。オホーツク海の上に朝日が昇っているが、光に強烈さがないように思われる。北緯が高いせいか。なんとなく夕日に近い。

(現在の334号線:当時はこんなに舗装されていなかった)

 一人で歩いていると、放浪しているような気がする。この感覚は東北や九州で味わっている。N君と別れた時は一抹の寂しさを感じたが、今は平気だ。かえって一人旅の気楽な気分を味わっている。

 車がつかまらないと、目的地が遠いように思われる。観光地とはいえ、元々人口がほとんどいない地域である。車の往来が本当に少ない。それでも3台ほど乗り継いで宇登呂に着いた。斜里から宇登呂まで約40キロしかないのに2時間以上かかった。最初からバスに乗って行けばよかったと後悔した。舗装されてない部分がけっこうあったのには驚いた。

 汗をかき、また利尻以来風呂に入ってないので民宿に泊まることにした。真夏に5日間風呂に入らないと、さすがに臭くなって来る。長髪なので頭がかゆい。

 宇登呂港近くの民宿に当たると、部屋が空いていた。そこへ荷物を置き、船に乗ることにした。とは言っても、観光船ではなく小型の漁船である。それは釣りをさせてくれた。雑誌で知り、海釣りの経験がない私は試してみようと思ったのだ。遊漁船というらしい。

(当時の宇登呂港。今と違ってひなびていた)

 出航すると、崖の地形が続いた。ウミネコがやたら多い。崖に巣があるのだろう、おびただしい数のウミネコが止まっている。船の上もたくさん飛来している。

 漁師さんが『知床旅情』を歌い出す。親切なおじさんである。

 崖の前の海で糸をたらすことになった。面白いように釣れる。5分に一匹は釣れたのではないだろうか。ただ、魚の種類は分からない。みんな大騒ぎである。その魚を目がけてウミネコやカモメがやって来る。魚を空中に投げると、彼らはすぐつかまえる。

(当時の遊漁船)

 私は魚を釣った姿を船上で知り合った大学生に撮っていただいた。

彼はカメラを持っていたのである。図々しいようだが、カメラを持ってない私のようなカニ族は、持っているカニ族に頼む者がけっこういた。その時、送ってくれるようお願いするのだ。もちろん断られる場合もあるが、うまく行く場合もある。男性の方が成功しやすかった。この方は岐阜県大垣市から来た大学4年生で、Yさんという。利尻で出会った埼玉大の学生と同じく、すでに就職が内定したという。早めに決まったせいか、余裕があるように見受けられた。だから撮影の依頼を承諾してくれたのかもしれない。

 終わると、民宿に戻り、すぐ風呂に入った。5日ぶりの風呂は最高だった。

 

8月13日(日)・11日目

 今日は知床五湖巡りツアーのバスに乗った。Yさんとは宿は別だったが、ここで一緒になった。

                   (現在の知床五湖)

 坂道が続き、みるみる間に標高が高くなっていく。時々顔を出す山々はかなり高そうだ。知床半島全体が高地であることが分かる。

 五湖巡りはけっこう時間が掛かった。そのうちの一つでYさんが写真を撮ってくれた。

(高価なカメラのせいか、半世紀後でも色が落ちない)

 

 終了後、Yさんと別れ、私は路線バスで斜里に戻った。斜里駅から再び釧網に乗り、釧路に向かった。釧路まで急行で約3時間くらいかかったと思う。釧路湿原に入った時、白樺の林を過ぎ、湖畔を走った。湖が林を逆さまに映し、その美しさに思わず見とれた。

                 (現在の釧網線の観光列車)

 

 今夜は釧路駅に泊まった。

               (当時の釧路駅。大きな駅舎だった)

 駅近くの食堂で夕食をとった後、野宿するのに適当な場所を探していた所、駅舎から少し離れた所に倉庫のような建物があり、開いた入口からカニ族が出入りしていた。

   (イメージ写真:倉庫)

 覗いてみると、木床に大勢のカニ族が寝袋を広げている。女の子もけっこういた。近くにいた人に聞くと、ここに泊まれるらしい。私もここで眠ることにした。倉庫の中なら安心して夜露をしのげる。さっそく空いた所に陣取った。近くにいた者と雑談しているうち、宵闇が忍び寄り、電灯がないのでたちまち真っ暗になった。ただ、眠りにつく者は少なく、おしゃべりに興じる者が多かった。車座になる集団がいたり、持参の懐中電灯を使って探し物をしたりする者もいた。

          (イメージ写真:実際はもっと人が多く、室内は暗かった)

 その時、突然、男が闖入して来た。

「なんだ、お前ら、ここを占領しやがって。俺の眠る場所がねえじゃねえか」

 怒鳴り声を上げた。声から中年の酔っ払いらしい。浮浪者かもしれない。瞬間、おしゃべりが止んだ。

「うふふ」

 誰かが笑った時、男が叫んだ。

「誰だ、笑ったのは。殺してやる!」

 懐中電灯が消えた。真っ暗である。みんなは驚いたのだろう、押し黙った。ただ、男は何かを握っているようには見えない。もし暴力を振るうようなことがあったら、若者は立ち上がっただろう。こちらの方が多勢である。男はしばらく寝袋と寝袋の間をまたぐようにして彷徨ったが、何かぶつぶつ言いながら出て行った。

 懐中電灯がつき、いたる所から、声が聞こえ始めた。

「ただの酔っ払いだよ」「脅かしだけだ」「何かあったら警察を呼べばいい」

 ただ、闖入者のせいで、その後、おしゃべりをする者はいなくなった。みんな早めに眠りについた。

 カニ族だから味わえた貴重な経験だった。          

 

8月14日(月)・12日目

 この日、私は釧路市内を観光せず、帯広に向かった。時間を気にせず気の向くままに列車に乗った。

 帯広でどのように過ごしたかは忘れてしまった。覚えていることは、駅が大きい割には市街が小さかったことと、銭湯に入ったことである。たぶん知床で浸かったお風呂のよさが忘れられなかったのだろうか。真夏のこの時期、このビートルズ風の長髪は厄介な存在になっていた。

(当時の帯広市)

 私は東京では銭湯に通っていた。当時、アパートの多くには風呂がなかった。その頃、東京の銭湯代は40円か50円くらいだったと思う。

 帯広の銭湯がそれほどきれいでなかったことだけ覚えている。それでも汗を流すことができ、さっぱりした気分を味わった。

(イメージ写真:当時の銭湯)

 その後の記憶も定かでない。ただ、その夜、札幌駅に泊まったことは覚えている。したがって、帯広から列車で札幌に行ったことは間違いない。毎日長時間乗っている(ほとんど急行)と、感性が鈍って来る。車内のことや景色も全く覚えてない。

 帯広からは富良野経由で滝川に出、函館本線に乗り換えて札幌に出たと思われる。

 旅行中、どんな食事をしたか忘れてしまったが、菓子パンとジュースが多かったと思う。たまに中華そばやかつ丼など。焼魚定食のような物は食べなかった。

 札幌には夜着いた。駅の中で寝袋を広げた記憶がある。寝袋と言えば、夏用ではないので、けっこう暑かった。ただ、大きな駅には蚊がほとんどいない。それはよかった。

(イメージ写真:カニ族たちの野宿)

 

8月15日(火)・13日目

 この日のこともよく覚えてない。覚えていることは、私が千歳の街を歩いたことである。札幌から千歳線に乗って行ったのだろう。

 当時の千歳も田舎だった。旧盆だったからだろう、どこかの公園に盆踊りのやぐらが立ち、赤白の提灯が四方に張られたロープに吊られていた。その光景を覚えている。

 ぶらぶら歩いている時に決めたのか、突然今から襟裳岬に行ってみようと思った。帯広にいた時にそのことを思いついたなら、もっと簡単に行けただろう。広尾線で下るだけだからである。が、その時はそういう考えはなかった。こういうのが気ままな一人旅なのである。

  千歳線で苫小牧に行き、そこで日高本線に乗り換えて終着駅の様似で降りた。その後、バスで襟裳岬に向かった。5、6時間くらい掛かったと思われる。岬に着いたのは午後も遅かった。

                   (80年代の襟裳岬)

 ただ、晴天だったので、景色は雄大だった。点々と沖に伸びる岩礁が旅情を誘った。

 その後、バスで様似駅に戻り、この駅で夜を明かした。斜里駅と同じく小さな駅だが、カニ族が数名野宿していた。

(当時の様似駅)

 

8月16日(水)・14日目

 早朝、苫小牧行急行に乗った。今日は白老のアイヌコタン(村)、登別の熊牧場、洞爺湖付近の昭和新山を訪れる。全て室蘭本線沿いにある。その後、函館に行き、駅に泊まり、明日帰郷予定である

 浦河から私よりちょっと年上の女性が乗って来て私の前に座った。退屈なので話し掛けると、札幌に行くと答えた。道産子の社会人の方で、今日は休暇を取り、札幌に行くのだという。非常に楽しみだとも言った。北海道の田舎の人にとって札幌は憧れの都会らしかった。

 まもなく、緑草が生い茂る牧場が見え、競走馬のサラブレッドが放牧されていた。青い空に白い雲。緑の草に黒い馬。絵画的な風景は私に強い印象を残した。

(90年代の放牧)

 苫小牧で室蘭本線に乗り換え、白老で降り、アイヌ人集落のポロトコタンを訪れた。

(当時の白老ポロトコタン)

 ここにはアイヌの方が実際に住んでおられる。ゆっくり見学したかったのだが、通り一辺倒に観光しただけだった。でもアイヌの方々とお会いできたのは勉強になった。

 次に登別駅に向かった。列車で30分くらいで着いた。ここからバスで登別温泉に行き、そこでロープウエイに乗り代え、「のぼりべつクマ牧場」を訪れた。

(当時のクマ牧場)

 ここもあわただしく立ち寄ったので、ヒグマを見た記憶しかない。

 私が小学生の時、この地を訪れた祖母が私のおみやげにヒグマの木彫を買って来た。私はうれしくそれを大事にした。その思い出があったので、おばあちゃん子であった私はここを訪れたのだろう。

(イメージ写真:実物もこれに似ていた)

 登別駅に戻り、今度は長和駅へ。1時間半くらい乗っただろうか。この駅からバスで昭和新山へ。思いの他近かった。15分くらいで着いたと思う。

 昭和新山は小学生の時に社会科で学んだ。私は地理が得意だった。火山で出来た山の写真は当時の私に強烈な印象を残した。それで、北海道に渡ったならここへ立ち寄ろうと思ったのである。

(現代の昭和新山:当時はもっと近寄れたと思う)

 赤い岩肌から幾条もの湯気が立ち昇っている。溶岩が隆起してできた山なので奇岩怪石の形をしている。私の故郷にある那須岳より活発に「生きている」感じがした。

 長和駅から函館駅に向かった。着いたのは夜だった。お祭り姿の若い女性がいた。何かのお祭りがあったのだろうか。駅で野宿をした。

(当時の函館駅)

8月17日(木)・15日目

 早暁の連絡船に乗った。午前9時くらいまでに青森駅に着いた。ほとんど船内でごろごろしていたので、景色を覚えてない。往きの時は胸がわくわくしたが、帰りは早く着いてほしいという思いばかりだった。

(当時の青函連絡船)

 青森駅から故郷の西那須野駅までは東北本線を利用した。こちらの方も景色をまったく覚えてない。毎日列車ばかり乗っているからだろう。ただひたすら目をつむってぼうっと過ごした。乗車疲れが顕著になって来た。早く西那須野に着いてくれ。風呂に入りたい。布団の上で眠りたい。旅情はどこかに吹っ飛んでしまった。

                  (当時の長距離急行電車)
 西那須野駅に着いたのは夜の10時頃だったのではないだろうか。我が家は駅から歩いて数分の所にある。

 着いたとたん、風呂場に駆け込み、頭から湯をかぶった。

 

 こうして我が旅行は終わった。

 我が家には数日滞在しただけで、東京に戻った。  

 旅が終わってしばらく経ってから、N君から写真が入った手紙が送られてきた。1000円払ったせいか、25枚入っていた。その後も3通ハガキをもらった。テニス部で活躍している様子が綴られていた。

                   (彼の実家は鹿児島県にある)

 写真には様々な人が映っている。現在、すべての方がおじいさん、おばあさんである。中には亡くなられた人もいるかもしれない。何しろ半世紀前のことである。

 まさに光陰矢の如しである。

 今これらの写真を見ていると、なつかしくなる。旅行がついこの間の出来事のように思われる。約3分の2くらいの日数をN君と過ごしたが、確実に言えることは彼と一緒の時の方が断然面白かったことである。

  N君、ありがとう。君に会えたおかげで素晴らしい旅になった。

 

 Jさんとは文通した。彼女は一期一会を大切にしているように見受けられた。

 彼女は、私の名をさん付けや君付けにせず、呼び捨てで表記した。下の名前を英語で表記して来たこともあった。欧米に憧れていたからかもしれない。

 ただ、私はJさんに恋愛感情を抱かなかったので、その後、文通は途絶えた。

 でも、Jさん、あなたの優しさは忘れていません。ありがとうございます。

 その他、Oさんや岐阜県のYさんからも写真が、旭川のSさんからは年賀状が送られてきた。ありがとうございます。

 

 この旅は何だったのだろう。毎日電車を乗り回し、ほとんど風呂に入らず、寝袋に包まれる生活を送った。食べ物に関しても、普通の食事を三食とることはなかった。腹が減ったら、パンを食べたり、食堂で一品を頼んだりした。

 でもこのような貧乏旅行だから、カニ族仲間と出会ったり、多くの人と交流したりすることが出来た。

 当時は今と違い、列車の中や野宿先(主に駅)やユースホステルや民宿で気軽に話せる時代だった。

 だからこそ、自分を見直し、自分に刺激を与えられたことは間違いない。高校時代にも味わっているが、今回は今回で新たな発見をもたらしてくれた。

 積極性が身に付き、前向きに生きようという気持ちになれた。具体的に言えば、新左翼のA派とのくびきから解放され、学校生活に取り組めるようになった。

 これから半世紀後、私は60歳を過ぎてから妻と一緒に歩いて四国お遍路を行った。5年かかって一周し、結願した。この四国お遍路は青春の旅と似ていた。旅先で多くの人とふれあえたからだ。ただの観光旅行ではそうはいかない。

 自分を見つめたい。生活を再起動したい。そのような時、時間を掛け、あまりお金を使わない、ゆっくりとした旅は最良の手段だろう。

 

                  ――― 終り ―――