『青春の旅シリーズ』は4部作である。前の2つは高校時代ですでに紹介した。今回は『3』である。今回も最後の『4』も大学時代の旅である。

 これらはただの観光旅行ではなく、いわば自分探しの旅であった。おおげさに言えば、自分はいったい何者か、自分の悩みはどうすれば解決できるのか、それを旅に求めたのである。貧乏旅行だったが、心の糧になり、我が成長に大きな影響を与えたことは間違いない。

                 

  1972年(昭47)の夏、私は北海道へ旅立った。

    (赤線:鉄道  緑線:航路  青線:バス及びヒッチハイク)

 

  私は一浪して入った大学ですぐに留年したので、1年生のままだった。歳は20歳。

 前年度、私は、せっかく浪人して入った大学に嫌気がさした。その理由は新左翼のA派とのからみである。詳細は『青春グラフィティ1976』で述べているのでここで繰り返さない。

 私は通学しなくなり、結局落第した。落ち込んだ私は下宿先を変えることで心機一転を図ろうとした。この流れに北海道旅行がある。旅をすることで再出発を確固たるものにしようと考えた。

 実は高校時代に行き詰まった時も同じような旅行で打開を図った。その経緯は『1』『2』でふれている。

 

 5月から7月末まで自由が丘の料亭「大島屋」でバイトを行い、稼いだ金を旅費にした。

 綿密な計画は立てなかった。何が何でも訪れたい場所もなかった。強いて言えば、利尻、知床は寄ろうかと思った。知床は、加藤登紀子の『知床旅情』が好きだったためかもしれない。とにかく風の吹くまま、気が向くままに放浪してみたかった。

 ただし、今回の旅は前回同様、国鉄の周遊券(正式名はワイド周遊券と言ったか)を使う。時刻を調べずに行うと、時間のロスが生じるのであの分厚い時刻表を購入した。

(イメージ写真)

 旅の記録を手帳にメモしたかどうか、記憶が定かでない。普段つけていた日記に出発日は記してあったが、内容は書いてない。

 したがって記憶に頼るしかないのだが、半世紀前のことなので多くのことは忘れてしまった。

 旅先で出会った旅仲間からの写真や手紙があるので、それを参考にしながら再構成したい。記憶にない所は想像力で補った。

 出発日は8月3日(木)であるが、帰って来た日は記されてない。たぶん17日(金)だと思われる。そうすると14泊15日の旅である。

 

 国鉄の周遊券を利用したのだが、十分な予算がないので、駅に泊まったり(寝袋持参)、列車で夜を明かしたりした。俗に言うカニ族の一員であるが、このような仕方は2回(青春の旅1・2)経験しているから平気だった。

 

8月3日(木)・1日目  

 上野駅発奥羽本線経由青森行きの急行(最近調べたところ「津軽1号」ではないかと予想される)に乗った。出発が夜(19時台か)だったことを覚えている。奥羽本線は一部区間しか電化されていないので機関車はジーゼル車だった思う。

 あの当時寝台車などあったのだろうか。とにかく私が乗ったのは対座式の4人掛けのボックスシートが端から端まで連なっていた車両である。周遊券では自由席しか乗れない。そのため1時間くらい前から並んだ。そのかいがあって窓際に座ることが出来た。出発する頃には通路は人があふれ立錐の余地もないほどで、ずいぶん混むなあと思った。後から知ったことだが、東北四大祭りを観光する客がたくさん乗っていたのである。

 そのためトイレに行きたくても行けない者が現れ、中には駅に止まると、窓からホームに出て線路へ放尿し、また窓から入ろうとする男性もいた。座席の乗客はその度に手助けした。私も手伝った。

 背もたれが垂直の席ではそうは眠れない。うとうとするようになったのは日付が変わってからだろう。

 (イメージ写真:実際はもっと混んでいた)

 

8月4日(金)・2日目 

  確か夜が明けた頃だったと思う。山形県か秋田県の南部の駅である。大きな駅ではない。停車した時、朝もやが立ち籠めるホームに親子らしい二人の女性が立っていた。二人は降りた男性客を見つけると近寄って行った。彼の足元には唐草模様の大風呂敷に包まれた大きな荷物が5、6個置かれていた。あれだけの荷物をよく載せることが出来たなあと私は感心してしまった。3人は荷物を背負ったり、抱えたりしながら改札口の方に歩いて行った。

 なぜ、私がこの光景が忘れられないのか。

 それは似たような事を私がしたからである。

 私の実家は衣類販売業(〇〇呉服店という店名だが、実際は和洋の衣類全般を扱っていた)だった。両親は年中東京へ仕入れに行っていた。私が小学生の頃、「お父ちゃんは今日たくさん仕入れて来るから駅まで迎えにいこう」という母に連れられ、姉と行ったことがある。

 昔、地方の小売商はそうして品物を仕入れていた。まだモータリーゼーションになる前の時代の話で、物流輸送の中心は鉄道であった。

 おそらく駅で見かけた3人も商店一家だったのだろう。男性客は東京へ仕入れに行った帰りと思われる。当時山形県から上京するには急行を使っても6時間以上かかったはずだ。男性客は旅館に泊まるお金を節約するために、夜行列車で往復したのに違いない。

 大切な商品をたくさん持って帰郷する一家の大黒柱を温かく迎えようと、妻と娘は夜明けのホームで待っていた。

 朝もやが立ち籠めるホームで、その一角だけがほのぼのとしていた。

(イメージ写真:朝もやのホーム)

 秋田県を走っている時、櫛の歯が抜けるように乗客は減って行った。隣の乗客が降りた時、私は手や背をようやく伸ばすことが出来た。

 列車は山と山とに挟まれた平地をゆっくり走って行く。秋田県は広い。もう乗っていることに飽きてしまっていた。風景を味わう気持ちは吹き飛んでいた。早く青森について欲しい。そればかり考えた。

 青森に着いたのは9時台頃だったと思う。座ることから解放された私はとにかくうれしかった。

 すぐに青函連絡船に乗った。これだけ大きな船に乗ったのは初めてである。昨年新島から東京に戻る際に利用した東海汽船のフェリーより何倍も大きい。私は興奮した。

(イメージ写真:青函連絡船)

 晴天なので一番高い所にある甲板に出てみた。高いビルの屋上のような感じがする。屋根の上のような寝転べる場所があった。けっこう人が出ていた。私も腰を下ろした。青い海。水色の空。白い雲。心地よい風。みんなの顔が明るかった。飛び交うカモメが北海道へ誘ってくれる。

 そこにスピーカーから尾崎紀世彦の『また逢う日まで』が流れた。音量がちょうどいい。近くの人がハミングした。声量のある歌は北海道を目指す者の高揚感をしっかりと高めた。

 青函連絡船を思い出すと、今でもこの曲が浮かんでくる。

 函館港にくと、港に直結している函館駅で私は年が同じくらいの青年に出会った。互いに寝袋が入った大きなリュックを背負っている。カニ族同士である。

(当時の函館駅)

(北海道にはカニ族がたくさんいた)

 話をすると、これから札幌に行き、その後、ペンフレンドがいる旭川に向かうという。私も札幌に行くので、一緒に行くことになった。彼はN君という北九州市から来た大学生(私立のY大学であることが後で分かった)で、私と同じ周遊券で旅しているという。同じ年齢であることも分かった。

 函館から札幌に行く場合、普通函館本線を利用する。それなら直通で行ける。ところが私の記憶にあるのはバスで中山峠を越え、長い乗車時間に飽きたことである。

 中山峠は絶景で有名である。どちらが言い出したのかは覚えていないが、それでここを通って札幌に出たのだろう。

 最近ネットで調べたところ、倶知安駅で胆振線に乗り換え、喜茂別駅で下車し、そこから国鉄バスで中山峠経由の札幌駅行きに乗ったらしい。

 私の場合予算が限られている。出来る限り、周遊券の対象である国鉄と国鉄バスを使うようにしており、宿泊も野宿。よほどのことがない限り旅館には泊まらない。この原則に当てはめるなら、このルートしか考えられない。

 羊蹄山や洞爺湖を遠望したと思われるが、その記憶がない。天気が悪かったのかもしれない。バスの乗車時間が長かったことだけを覚えている。

  (中山峠ドライブイン:晴れていればこのように見えるのだろう)

 札幌に着いたのは夕方か夜だったと思う。北の夏は暗くなるのは遅かった。

 大きな喫茶店に入った時、顔だ立ちの整ったウエイトレスの女の子の肌が白いのに目を見張った。

 その夜は札幌駅の軒下で寝袋を広げた。

 

8月5日(土)・3日目

            (札幌駅:長髪が流行っていた)

 観光に行く前、N君が自分のカメラで撮ってくれた。ちなみに私はカメラを持っていなかった。カメラが安いのか、フィルムが安いのか、彼が撮った全ての写真は半世紀後、このように色があせた。

 鼻かぜを引いたので、薬屋で風邪薬(ルル)を買った。歩いて時計台に行った。

(時計台:当時はやせていた)

 続いて地下鉄を使って羊ヶ丘展望台に向かった。

(羊ヶ丘:若い頃、このような顔かたちだったことが信じられない)

 (草履サンダルが夏を表している)

  札幌市ではカニ族が多く見られた。彼らと会うと、仲間意識が芽生えた。

             (イメージ写真:カニ族)

 繁華街で2月に行われた札幌オリンピックのテーマソングである『虹と雪のバラード』(トワ・エ・モア)がかかっていた。私の好きな曲である。

 N君はペンフレンドのいる旭川に行こうと私を誘った。

「俺が言えば、君のことを泊めてくれるよ。実はペンフレンドは女の人なんだ」

 私は驚いた。女の人の家である。赤の他人の私まで泊めてくれるのだろうか。

「二人いるんだ。二人は友達同士なんだ。それも年上さ」

 二人を相手に文通しているN君のエネルギーに感心させられた。

 彼は、大丈夫だから、一緒に行こうと重ねて私を誘った。見知らぬ北海道の女性の家に泊まるのも面白いではないか。もともと行き当たりばったりの計画だ。彼と知り合ったのも旅の縁。好奇心に駆られてた私は承諾した。

 彼は文通相手の一人に電話した。OKだという。断られるのではないかと一抹の不安を抱いていた私は安心した。

 私たちは他の名所を訪れずに旭川に向かうことになった。

 旭川行きのホームに立った時に驚いた。線路の上に電線が走ってないのだ。事実入って来た列車はジーゼル機関車だった。時刻表で調べると、北海道で電化されているのは函館・札幌間(函館本線)だけであることが分かった。

 九州と同じく、ほんの一部しか電化されてないのだ。当時栃木の国鉄はほとんど電化されていた。首都圏は尚更である。

 電車は確かに速い。旭川行きは急行だが、その速さは東北線の普通電車より遅い。しかし、気ままな旅である。このスローさを味わおう。

 美唄駅が近づいた時、私は窓外の景色に目を凝らした。ここは3月までクラスが一緒だったKA君の故郷である。留年していた彼は2月の期末試験で、独語の単位を落とし、慶応を辞めさせられた。慶応文学部は語学に厳しく、2年連続単位を落とすと、辞めさせられた(中退扱いにもならない)のである。

 彼は二浪していたので私より2歳年上だった。姉と同じ歳である。兄事するような態度で付き合わせてもらっていた。

 彼はこの街で育ったのだ。彼の実家はこの街にある。私の故郷と同じく、寂しげな小さな街。なんの変哲もない。だから東京に憧れたのだろうか。

(当時の美唄駅)

 往復の手段は列車と青函連絡船である。飛行機は彼のような貧乏学生には高嶺の花だった。いや、彼ばかりでなく私が知り合った九州や北海道出身の学生のほとんども飛行機には乗れなかった。

  私は感慨に襲われた。この遠い地から東京までは一昼夜掛かる。運賃も掛かるだろう。1年に一度帰れればよいほうだとKA君は語った。帰省する時は、東京のお土産をたくさん持って帰るとも言っていた。

 だからなのか、東京での気構えが私と違った。しっかりしているのである。困難があれば、果敢に乗り越えようとした。

 我が故郷栃木県は東京に近い。すぐ帰れる。ある人が言うには、栃木県から大物が現れないのは、東京で壁にぶつかるとすぐ帰るからだそうだ。これには一理あるように思った。

(当時の旭川駅)

 旭川駅にはペンフレンドとの待ち合わせ時刻より早く着いた。私たちは駅近くを散歩することにした。印象的なことは、駅からまっすぐに伸びた通りの真ん中に細長い公園があったことだ。車優先の道路が多いので、その構造が新鮮に思えた。当時にしては珍しかった。そう言えば、当時の旭川市長は革新系だった。

 最近ネットで調べたら、平和通買物公園という名であった。

(当時の平和通買物公園)

 N君のペンフレンドはSさんとKさんといい、北海道電力(以下、北電)に勤めているOLだった。二人は私たちより二歳年上だった。私の姉と同じである。

  N君がどうしてこの二人と知り合ったのか忘れたが、ネットや携帯がない時代、文通が主流だった。多くの雑誌にペンフレンドコーナーがあった。

 彼女たちは市内の有名な箇所を案内してくれた。私が覚えているのはたった一か所である。それは三浦綾子の『氷点』のラストで、主人公の少女陽子が自殺未遂を図ったとされる場所である。私が文学青年だから記憶に残っているのだろう。その地名は忘れたが、鬱蒼とした林の中だったような気がする。

 最近調べたら、神楽外国樹種見本林という所のようだ。

(氷点の舞台)

 確か前年から今年にかけてテレビで「氷点」の続きドラマ「続・氷点」が放映された。陽子の役を新人女優の島田陽子が演じた。彼女の芸名の「陽子」は氷点の「陽子」から来ている。この作品で彼女を売り出そうとしたプロダクションの意図が露わだった。実際、このドラマで島田の人気に火が付いた。

 (「続・氷点」の島田陽子)

 夜、彼女たちは私たちを市内の居酒屋に連れて行ってくれた。生ビールを飲みながら、生まれて初めて北海道の名物料理、石狩鍋を食べた。

 会計の時、私は自分の分を支払おうとしたが、断られた。彼女たちは、「わざわざ遠い所から来てくれてありがとう」と言って年下の学生たちの分を支払った。

 私は恐縮した。関係がない私にまでごちそうしてくれるとは。

 その夜はKさんの家に泊まることになった。私は悪い気がしたが、「家族一同、歓迎しているんだから気にしないで」とKさんは鷹揚に構えた。私は甘えることにした。

 彼女の家は郊外にある農家で、部屋が幾つもあった。両親は純朴そうな感じがした。彼女は夜景がきれいに見える場所があると言って、家の裏山に私たちを案内した。

 彼女の言う通り、遠くに旭川市の夜景が星雲のようにきらめいてた。

もっと感動したことは、丘の麓から市内まで線路が伸び、模型のような夜行列車が蛇行していたことである。列車の窓から漏れる灯は数珠のように点々と続いている。宮沢賢治の『銀河鉄道』のイメージを連想させる。

 辺り一帯が漆黒の闇に包まれているので、市の夜景と銀河鉄道の灯はいっそう浮かび上がる。視界の全てがイルミネーションに覆われる東京の夜景とは全く違っていた。星が瞬く夜空はどこまでも高く、実に広かった。

 私は息を呑んだ。みんなも沈黙したままだった。

     

       (イメージ写真:実際はもっときれいだった)

 

8月6日(日)・4日目

 この日はSさんのお父さんが車で層雲峡や大雪山に連れて行ってくれることになっていた。お父さんは40代後半か。Sさんたちと同じく、北電に勤めている。Sさんの話によれば、北電、北海道銀行、北海道庁に入るのは難しいらしい。北海道の勤め先としては優良なのだそうだ。

 最初に層雲峡や石北峠に案内された。素晴らしい眺めに感動した。

(層雲峡)

             (石北峠:N君と。彼の髪も長い)

 次に、大雪山の旭岳に向かった。ロープウエーで行くのだが、この料金をお父さんが払ってくれた。なんて北海道の人は親切なんだろうと思った。この御恩はどこかで返さなければいけないとも思った。那須岳のロープウエーイしか乗ったことがない私は、このロープウエーの長さに驚いた。さすが北海道。規模が違うと思った。

※大雪山ロープウエー

 終点駅に下りた時、姿見池に雪渓があるのにはもっと驚いた。真夏でも雪が溶けない。さすが北海道だと思った。下界と違い寒い。震え出した私にN君が長袖を貸してくれた。

(大雪山旭岳:雪渓の右に映っているのが姿見池)

 観光し終わった後、Sさんの家に少し立ち寄った。市内にある民家だが、関東の家と違い、外観が大きく、中の造りが頑丈そうに見えた。居間にソファーがあり、真ん中に学校で使うような大きな石油ストーブがあった。Sさんのお父さんの話によれば、普通サイズの家だという。実家を含め関東の家々がみすぼらしく思え、うらやましくなった。

  また、多くの家の外に、円柱を横にした形の石油タンクがあるのに気づいた。

 私はこの後、利尻島に行く予定を立てた。それを話すとN君が同行すると答えた。

 私たちはSさんやKさんに別れを告げ、旭川駅に向かった。今夜は旭川駅で野宿し、明朝稚内行きの一番電車に乗ることにした。

 

8月7日(月)・5日目

 稚内行きの車線は宗谷本線である。札幌・旭川間も長かったが、旭川・稚内間はその倍の長さを感じた。ネットで調べたところ、当時、6時間半くらい掛かったようだ。

 覚えていることは、原野の風景である。どの辺りか忘れたが、名寄を過ぎてからだろう。平地なのだが、田や畑がなく、褐色系の低木に覆われた大地がどこまでも広がっていた。当然人家は全く現れない。長時間続いたのだろうから、まさに「広大」という言葉にふさわしい。「荒涼」という形容もぴったりだ。 

 途中で初老の男性二人が乗って来て、私たちの隣に座った。関西弁でよくしゃべり、私たちにも話し掛けて来た。私たちが大学生であることを知ると、「学生さんはいいなあ。こんな気ままな旅行が出来て」と言った。二人は大阪人で、これから稚内に魚を買い付けにいくと話した。卸業者なのかもしれない。気さくな方でもあった。次の停車駅でカップのアイスクリームをおごってくれた。関東のアイスクリームと違い、濃厚な味だった。さすが北海道だとまたもや感心した。

 稚内駅に着いた。天気が悪く、空は厚い暗雲におおわれていた。

(稚内駅)

 すぐに稚内港に行き、利尻島行きのフェリーに乗った。その時、天候が急変し、降り出していた雨がみぞれに変わったのである。雪に近いようなみぞれである。当然、寒くなった。あわてて甲板から船室に戻り、長袖と雨具の上をリュックから引っ張り出した。

 さすが北海道。真夏なのにみぞれが降る。大雪山で雪を見たが、今度は稚内ではみぞれに出会った。

 利尻島の鴛泊(おしどまり)港に着いた。雨なので利尻岳は見えない。すぐさま近くの民宿を探した。運よく「民宿利尻」という宿が空いていた。

 外へ出られなかったので部屋で過ごした。埼玉大の4年生になる男子学生と知り合った。西武鉄道に就職が決まったと語っていた。

 

8月8日(火)・6日目

 昨日と打って変わり、朝から晴れていた。

 私たちは島内巡りの観光バスに乗るので、別コースを行く埼玉大の学生と別れた。

  (民宿の前で埼玉大の学生と)

 姫沼でN君が写真を撮ってくれた。

                                       (姫沼にて)

 二人一緒の写真も撮ろうということになり、同じバスに乗っていた二人連れの女性にお願いした。

                  (姫沼:N君と)

 これがきっかけとなり彼女たちと親しくなった。旅行は人の気持ちを解放するのだろう、初対面なのに気楽に話し合えた。

 二人はOLで、背の高い方は旭川出身、細身の方はなんと栃木県の方だった。私は北部出身だが、彼女は南部の田沼町に在住していた。そんなこともあり話が盛り上がり、一緒に写真を撮った。

 (田沼町のOさんのカメラで撮った写真。カメラがいいのか、今でも色あせない)

 バスの中でも話続け、次の観光場所の仙法師御崎海岸でも写真を撮った。

                     (これもOさんのカメラ。仙法師御崎海岸での写真)

 利尻港に戻った時は一緒に昼食を食べた。

 二人はどうやら私より2歳くらい年上だった。すなわちSさんやKさんと同年齢であり、私の姉と同じということになる。

 旭川出身の方はJさんといい、栃木出身の方Oさんと言った。私が現在東京の大学生であることを話すと、Jさんは仕事か何かで青山に滞在したことがあると言った。とにかくJさんは、話に英語を混ぜたりするなど実に愉快な方だった。ロマンチストのような感じもした。

 私たちは互いに写真を撮り合ったので、現像したら送るということになり、住所を教え合った。

                    (これはJさんのカメラ。鴛泊港で)

 私とN君は午後の船で稚内に戻る。彼女たちはまだ島に滞在する。Jさんは私たちとの別れが名残惜しかったのか、出航を見送ってくれた。船上の私たちと岸壁の彼女たちとを結ぶのは紙テープである。たった数時間の出会いなのに、Jさんはテープが切れるまで手を振ってくれた。

 

      (Oさんのカメラ。紙テープでの別れを初めて体験した)

 稚内に着くと、次に網走を目指すことになった。

 稚内からオホーツク海沿いの鉄道は途中で切れているので旭川から石北本線で行くことにした。ということは旭川に戻ることになる。再び来た線路を長時間掛けて戻り、旭川駅に着いた。すっかり夜だった。今夜もこの駅で野宿をすることになった。

 私とN君はすっかり弥二さん喜多さんのようなコンビになった。この先どんな珍道中が待っているのだろう。


(続く)