この年の私の立場はなんというのだろう。通信教育学部に属しているが、時々しか通学しないので、大学生という気がしなかった。寂しいような、わびしいような、不安定な、少々引け目を感じる心理状態だった。ただ、この年もアルバイトを続けざるを得なかったので、表題に「フリーター」という言葉を入れた。当時フリーターという言葉はなかったが、当時の立場を表すのには最適な言葉である。

 当時を呼び起こす手がかりになったのは手帳である。73年から書き出した手帳も今年度で最後である。青春の動向をメモした貴重な資料になった。

 

 さて、私は4月から玉川大学の通信教育部の正科生に編入した。この制度は、大学時代に小学校教員免許を取得していない者にとっては便利であった。

 一般の大学では、中高の免許は取れるが、小学校教員免許は取れない。ところが、この大学では最速1年で小学校教諭2級普通免許状(略して小2免)が取れる。当時、関東地方でこのような制度を設けているのは、私の知る限り、他に明星大学があった。

 大学を出ているので、基礎資格はすでに有している。だから小2免取得に必要な科目単位を取得した段階で、大学は辞め、後は、大学卒業証明書や単位取得証明書など必要な書類を地方教育委員会に提出すれば、免許状が交付されるという流れであった。

 

 

 学費を振り込むと、報告課題集や教材やレポート用紙が丸ごと送られてきた。一般大学を卒業し小2免取得を希望する者の履修科目は大体決まっている。大別すると、教科科目と教職科目があった。前者より後者の単位の方が多かった。前者では、国・社・算・理・図工・音楽・家庭・体育などから8単位以上になるように選び、後者では、教育の意義、教職の基礎理論、教育課程及び指導法、児童生徒指導・教育実習などがあり、計34単位だったと思う。中でも教育課程及び指導法の単位が一番大きかった。

(教材一例)

 課題はテキストをしっかり学ばなければ書けないように大体なっている。専用のレポート用紙(封筒一体型)に記して郵送すると、合否の判定が送られてくる。確か、AからCまでは合格で、Dが不合格だったと思う。合格すると、指定された期日に実施される試験を受けなければならない。そこで合格して初めてその科目の単位が認定されるという仕組みである。

 正直、これらの勉強は辛かった。なかなか好きになれないのである。関心が湧かないのだ。小2免を取得するという外的動機だけで内容を理解することはやはり大変なのである。しかしそう言ってはいられない。これで投げ出したら、就職活動をまたやり直さなければならない。したがって、むりやり覚えようとした。苦手な教科の教科書をいやいや開いた中高時代を思い出した。

 ただ、通信教育で書いたたくさんのレポートは現在手元に残ってない。半世紀の間に処分してしまった。

  次にスクーリングを必ず受けなければならなかった。これは一定期間、大学に行って実際に学ぶのである。夏休みにまとめて行う方法など幾つかあったが、確か私とKM君は毎週1回、約2か月間、夜に行われる方法(夜間スクーリング)を選択した。

 この夜間スクーリングには、オイルショックのあおりを受けたせいか、たくさんの学生がやって来た。現役の大学生より年上の若者が目立った。女性の姿も多かった。彼らと話すとすぐに分かった。これまた私と同じく思うように就職出来なかったので教員志望に変更したのである。当然教員の採用試験の倍率は昨年からアップした。今年はさらに厳しくなる可能性があるとスクーリングの講師たちも語っていた。そのこともあるのか、受講生は真面目にノートを取っていた。

 昼間の大学生活では見られない、通信生の真面目さを知り得たことは収穫だった。

(イメージ写真:スクーリング)

 最後は教育実習である。これは基礎単位を取得し事前指導を受講しないと出来なかった。また、実習先は自分で見つけなければならなかった。ほとんどの人が自分の出身校を選んだ。その学校にお世話になるので、礼儀正しい態度でお願いしなければいけなかった。

(イメージ写真)

 

 狭い三畳の部屋で長時間勉強していると鬱屈する。頭に入らない。それで気分転換を兼ねて公共の図書館で勉強する時もあった。高卒後、牛乳配達をしながら受験勉強をしていた時、よく大田区立洗足図書館で勉強したことを思い出した。

 特に夏を迎えると、地獄のような暑さになる三畳の部屋にはいられなかった。当時は今と異なりエアコンなどない時代である。能率向上のために冷房が完備している図書館を積極的に利用した。

 始めは近所の北区立中央図書館を利用したが、次第に遠方の図書館も使うようになった。寒い季節は暖房が効いているので、これまた勉強するのには好都合であった。

(今はない。別の場所に移転)

 この背景には定期券の存在がある。

 記憶に間違いがなければ、通信教育生に対しても定期券の学生割引が適用されたと思う。というのは、夜間のスクーリングのために(1学期の約2か月間)、また単位認定試験を受けるために(これは1年間)北区からかなり遠い町田市にある大学まで通学しなければならなかったからである。

 北区から町田市までの交通費は馬鹿にならない。定期券の学生割引は貧乏生活をしている私にとってありがたかった。王子から新宿までは国鉄(今のJR)、新宿から町田までは小田急の定期券を利用する。途中下車も可能だ。

 その利便性を活用して、この1年間、実に多くの公立図書館で勉強した。

 特にスクーリングがある日に利用した町田市立図書館(現さるびあ図書館)は覚えている。世田谷区立梅が丘図書館、文京区立小石川図書館も記憶に残っている。

(町田市立図書館:今はさるびあ図書館という名に変わった)

(文京区立小石川図書館)

 

 アルバイトについて話そう。

 前回の記事で、恵比寿の学習塾のバイトについてふれたが、通信教育の勉強に集中したいことや、スクーリングの日程がバイトの期日と重なったことが出て来たので、3月いっぱいで辞めることにした。私の代わりに、S君の幼馴染でこの頃仲良くなったI君を紹介した。彼は早稲田の法学部の学生(3年生)であるから経営者のTさんの後輩にあたる。二人は意気投合したらしい。

 その結果、生活が苦しくなった。兄妹で部屋を借りているので部屋代は送ってくれたが、生活費は卒業した時点で打ち切られた。そんな私の様子に見かねて、母や祖母が父に内緒でわずかな金額を送ってくれた。ただ、それだけで生活することは出来ず、いつしかバイトをしなければならなくなった。

 4月か5月頃だったと思う。一緒に通信教育の勉強をしていたKM君に家庭教師のバイトをあっせんしてくれるよう頼んだ。ちょうど彼は以前から行っていた家庭教師を辞めることになった。そのお鉢を私に回してくれた。

 その場所は、田園都市線(今の大井町線)の上野毛駅に近い、世田谷区瀬田である。高級住宅がたくさん並んでいた。私が向かった家も邸宅ではないが、それなりの大きさの一軒家だった。

(イメージ写真)

 私が受け持った生徒は確か中3の男子だったと思う。ところが、本人が全くやる気がないのである。やる気がない子を教えるほどつらいことはない。結局、数回やっただけで終わりになった。お払い箱になったような感じである。

 生活費は、学習塾のバイトで得た収入も使って6月まではなんとか持ちこたえたが、7月からどこかを探さなければならなかった。実は夏休みに教員採用試験は行われる。合格するなら、バイトは避けた方がいい。だが、当時の実力から判断すると、全く受かる自信がなかった。そのため今年度の受験はあきらめた。

 そこで私が見つけたバイトは王子駅近くの『半平』という食堂兼居酒屋である。けっこう大きな店で現在もある。そう言えば、今年の5月にテレ東の『アド街』で王子の「飛鳥山」特集の時、『半平』が取り上げられ、懐かしさを感じた。

(半平:当時の画像ではない)

 勤務時間は11時30分から5時までで、終了後夕飯が出た。原則日曜日だけが休みだった。時々夜の勤務になることもあった。

 職種は接客(ウエイター)である。

(すし職人が着るような衣服で接客した)

 この店で働いた期間は9月いっぱいまでの3か月間だったと思う。この店で様々な人間模様を垣間見ることが出来た。ただ、肉体労働をしながら勉強するのは辛かった。午前中よく冷房の効いた中央図書館で勉強してからバイトに向かった。

 夜は部屋が暑いこともあり、捗らなかったが、休日にはどこかの図書館に朝から行って夜まで過ごし、この期間、レポートを書きまくった。

 

 ここで働いた時の思い出がある。

 近くの王寺駅の前にちょっとした広場があった。そこに花屋が店を出していた。建物を構えるのではなく青空市場のような店であった。そこに20歳前後の娘が働いていた。ジーンズがよく似合い、立ち居振る舞いがきびきびしていた。小麦色になった顔に淡いピンクの口紅が似合った。健康的な美しさを醸し出している娘であった。小説で言えば、三島由紀夫の『潮騒』の主人公初江を想起させた。

 勉強と仕事で疲れ気味の私を彼女の存在はいやしてくれた。灰色の生活に彩りを与えてくれた。花を買ったことがないので言葉を交わしたことは一度もない。お決まりの片思いであるが、王寺駅界隈から思い出すのはどうしても彼女の姿なので、ここに記しておく。

(イメージ写真)

 バイトはその後、10月か11月頃、恵比寿駅西口の商店街(恵比寿銀座か)にある家で小4の男の子の家庭教師を2、3週間行った。どうしてこのバイトを見つけたのかは忘れた。学生援護会の紹介かもしれない。

(現在の恵比寿銀座)

 その家は元医院で、現在母親と、中3の娘と小4の息子の三人家族であった。医者である旦那さんを昨年失ったと母親が話してくれた。彼女は宇都宮出身であった。郷里の話を語る時は楽しそうだった。

 ただ、この子も全くやる気がなかった。瀬田の子とこの子には共通性があった。母親に命じられてしぶしぶやらざるを得ないということである。二人共、勉強ではなく無駄話やボードゲームを、母親の目を盗んでやろうとしたことである。

 私は意欲を高めるために冒頭の時間少し付き合ったが、そのうち疲れてしまった。その結果、ここもお払い箱になった。

 両家とも裕福なので、バイト代が高かった。家計の足しになったことはよかった。

 これ以降、本年度(1976年)はバイトをしなかった。

 

 友人について触れよう。

 今年度も一番交流したのはS君である。ただ、私が慶応に行かなくなったので三田で会うことは少なくなった。それでも彼が王子に遊びに来たり、渋谷や新宿で会ったりした。渋谷で会う場合は、山手線そばにあった喫茶店「らんぶる」である。ただし、今はない。

 大学時代から渋谷で彼と待ち合わせる場合は必ずこの店だった。したがって「らんぶる」は青春のシンボルと言える場所である。ここはクラシックの名曲喫茶であるが、うるさくない限り会話が許されていた。3階まであるので座席にゆとりがある。音楽に集中したい人は3階、会話したい人は2階か1階を利用する人が多かった。1階と2階は吹き抜けの構造で、螺旋階段で結ばれている。壁の大半、天井、座席、階段は木製だったと思う。クラシックを聴かせる雰囲気を十分醸し出していた。コーヒーも他より数十円安かった。常連客が多かった。

(イメージ写真:らんぶるの内装もこれに近い)

 うまいコーヒーを味わいたい場合は、駅前の大井ビル(道玄坂の入口)の地下にあった「トップ」に行った。この店は私一人でもよく行った。

 S君は修士課程の2年生だが、やはり将来のことで悩んでいた。このまま博士課程を受験するか、それとも就職するか。彼は自分の悩みを友人に打ち明けるタイプなので、その胸中を吐露した私信を昨年同様頂いた。

 行動力にも恵まれているので、海が好きな彼はこの夏も南方に行った。船で鹿児島から与論島に行き、当地で数泊した後戻って来るツアーである。同行者は昨年の小笠原旅行も一緒だった幼馴染のI君と一つ年下のAT君である。このシリーズに何度も登場するおなじみのメンバーである。25歳のI君と24歳のAT君はいまだに学生(I君は3年生、AT君は4年生)で、私同様、留年を経験している。彼らもモラトリアム人間なのだ。小笠原の時と同様、トリオを組み、船上で無礼講を働いたらしい。3人共大酒のみであった。

 S君はその様子をハガキに記し(「与論島だより」と名付けた)、毎日送って来た。

 私はその頃、汗だくになって勉強やバイトに精励していた。それを読みながら彼らとは、もう立っている次元が違うことを実感した。

 ただ、この3人に私が加わって、10月のある日、丹沢にハイキングに行った。S君が計画し、他にS君の知り合いの女の子と彼女の従妹が加わり6人で行ったのだが、私には息抜きになった。   

                (一列目の右が私)

 二人の女の子は私たちより若く、大学生であった。従妹の方はまだ十代だった。私たちが25歳や24歳にもかかわらず社会に出てないことを知って目を丸くした。あきれたような顔さえした。従妹からみたら、おじさんたちだったかもしれない。

 

 次に交流したのはKM君である。彼は玉川の通信教育を一緒にやっている仲なので、いわば戦友ともいうべき存在である。大学時代同様彼のアパートを訪れたり、レポートの情報交換をしたり、一緒にテストを受けたりした。

 彼は夏に行われる横浜市の教員採用試験の一次試験(筆記)を受験するために一生懸命勉強していた。この時点では小2免許を取得してないが、年度内には取得可能という見込みで受験出来たのである。当然私より成績がよかった。

 教員採用試験に受かるためにはそのための勉強もしなければいけない。2つをこなし、見事合格したのだから立派である。その後の面接試験にも合格し、秋には採用が決まった。後は小2免取得に必要な単位を取るだけである。教育実習も年内に終らせ、翌春までには全単位を取得し、無事免許が交付された。

 一方、私は、レポートが不合格になったり単位認定試験に落ちたりした。夏までの進捗状況からみて、今年度の受験は無理と考えた。採用試験(筆記試験)は大体どの都道府県でも夏休みに行われるので、その前に判断しなければいけなかった。正直つらかった。

 その他にも理由があった。どの都道府県の試験を受けたらよいか迷っていた。私は孤島の先生に憧れ、東京都を受験しようかと考えたのだが、その内容や合格率を調べると、とても受かりそうにない。不況で倍率が高くなったこともある。他の都道府県も調べたが、今の力量ではとても受かる自信がなかった。

 その結果、今年は受験せず、来年受けようと決めたのである。

 ここで言えることは、教育の勉強に向かない私がなんとか単位を取ったのはひとえにKM君のお陰である。彼がいたので、私は意欲を失わずに済んだ。彼から刺激を受けたので発奮出来た。彼との情報交換がなければ、レポートの多くは不合格だっただろう。

 KM君には感謝あるのみである。KM君、ありがとう。

 

 他の友人たちとの付き合いはかなり減少した。ただ、S君を中心とした忘年会は今年も12月末に開かれた。場所は池袋であった。今回私が留年した時のクラスで一緒になったKS君が参加した。ただ、彼には酒乱傾向があった。泥酔すると、寝転んだまま動こうとしない。介抱しようとすると、力で拒否する。もちろん言動は支離滅裂である。路上に置いてく訳に行かないので、深夜喫茶になんとか連れ込んだ。参加者は次々と帰り、結局彼を最後まで見たのは私だけだった。

 

 通信教育の話に戻そう。

 1学期から夏にかけては、単位取得に不安を抱いていたが、秋になると予想外に順調に進んだ。その結果、来年の1月17日から2月14日までの間、母校で教育実習が出来るようになった。

 年末に帰省し、実家で正月(1977年〔昭52〕)を迎えた。

 実家に私の部屋がなかった。2階の狭い2つの部屋(障子で仕切られていた)は、祖母と姉がそれぞれ使っていた。帰省すると私は祖母の部屋で寝起きした。

 私は勉強に集中したかったので、一人きりになれる部屋が欲しかった。どこか安いアパートを見つけたかった。

 その他にも理由が生じた。3月に妹が卒業するので仕送りが打ち切られることになった。妹は栃木県南部にある自治医科大学付属病院に臨床検査技師として就職することに決まり、3月中に引っ越すことになった。

(現在の自治医科大学付属病院)

 ということは、私が4月以降も東京にいる場合は、生活費や住居費を自分で工面しなければならない。それには長時間働かざるを得ない。これでは採用試験の勉強など出来ない。夏に行われる試験に合格する自信はない。それならば東京を引き払っていったん帰郷した方が賢明だ。今のうちに部屋を見つければ、帰郷した際にも利用出来、なにかと便利だ。田舎に住むことは嫌なのだが、ここで受験勉強した方がよい。こう考えたのである。

 そこで私は部屋を探すことにした。金がないので、古いアパートしか借りられない。その費用は祖母から借りた。私が見つけたのは、母校に近い所にあったモルタル造りの平屋のアパートだった。一戸建てではなく長屋を区切ったような一室で、畳が古く、かび臭かった。

(イメージ写真;実際は一戸建てではない。古さだけ似ている)

 教育実習にはそこから通った。

 約1月間にわたる教育実習は実りが多かった。子どもたちからは慕われた。私は小学校教員でやっていける自信がついた。迷惑をかけることになった母校の先生方には感謝しかない。この時知り合った私と同年齢のM先生にはその後もお付き合いさせていただいた。M先生、ありがとう。

(教育実習をした母校)

 実習後に帰京した。教育実習の単位が認定された時はうれしかった。

 残りの試験もなんとかパスし、その結果当初の予想より早く3月中に小2免を栃木県教育委員会に申請出来た。申請が認められ、免許状が郵送されて来た時、私は飛び上がって喜んだ。この紙1枚のために1年間頑張ったのだ! これでもう玉川大の勉強から解放される!

 

 

 3月中旬頃、私たち兄妹は引っ越すことになった。妹の部屋には父の知人の息子が入居することに決まった。彼は大学受験に落ち、東京で予備校に通うことになったのである。

 父が知り合いに働きかけて、知り合いが所有するトラックで迎えに来た。家財道具を乗せて、東北自動車道を北上した。運転席には知り合い、その横に父と私が座った。妹は電車で帰った。

(イメージ写真)

 大家さんのWさんご夫妻は実にいい人だった。頭にふと井上順の『お世話になりました』が浮かぶ。

 ♪~明日の朝この街を僕は出てゆくのです

     下宿のおばさんよお世話になりました~♪

    

 Wさんご夫妻、2年間ありがとうございました。

 車が出ようとした時、うぐいすの鳴き声が聞こえて来た。その時、次の拙句が突然ひらめいた。

            うぐいすや 王子の部屋に 別れけり

 

 

(お世話になったWさん宅。2009年、42年ぶりにこの地を訪れたら、Wさん宅が現存しており、感動した)

 この1年間は通信教育に追われ、年が明けると忙しかった。引っ越しもあわただしく済ませたという感じだった。

 だが、こうして私の7年間に及んだ東京生活が終わりを告げたことは事実である。ただ、それでも、私の青春はまだ翌年に持ち越されたのだ。

 

                  ――― 終 り ―――