2月に引っ越してから、私は時間に恵まれた。バイトをしなかったせいもある。小遣いは、塾の講師時代に稼いだ賃金やお年玉などでまかなえていた。大きな遊びをしなかったので大金を使うこともなかった。

 そんなこともあり、読書にふけったが、それだけでは物足りず、創作に取り掛かった。しかし、これがうまくいかなかった。想像力は働くのだが、その世界を文字で築こうとすると、行き詰まった。

(創作を通じて自分の才能の無さに気づいた)

 春休みで帰省した時もそのような生活を続けていた。両親は不快になったのだろう。二人の頭には、私の就職のことがこびりついていたらしい。何しろ第一次オイルショックの影響で、不景気が突然やって来て、これまでの高度経済成長が嘘のように腰折れてしまった。当然、企業は学生の採用を大幅に絞る未曽有の就職難である。新聞やテレビは連日報道する。4年生になろうとしている学生はもう動き出しているらしい。

 ところが、我がぐうたら息子は・・・。

 父が文句を言うのは毎度のことだが、これまで見守ってくれていた母までもが業を煮やした。「根性なしの怠惰な人間」とののしり、「お前みたいな者は公務員になるしかないよ」と断定し、近所の書店から、「公務員試験問題集」を買って来た。私は衣食住をやっかいになっている手前、開いてみたが、法律の問題に関心がわかない。

        (民間の人から見ると当時の公務員は怠惰な人間に映ったらしい)

 私は実家にいずらくなり、帰京した。帰省している間、ハガキや電話をくれたS君とよく会った。彼は修士課程の2年目を迎えようとしていたが、やはり進路のことで悩んでいた。博士課程に進むことは経済的に大変である。進んだからと言って、大学に残れる保証はない。だからといってこのご時世、自分が進みたいマスコミの競争率は天文学的な倍率である。実力とコネがないととても合格しない。次男坊の彼は元々、私が持ち合わせてない、押しの強い行動力と突破力は備えていた。利益追求の企業でも通用するタイプであるが、文学部に来るくらいだから、営業型サラリーマンになる気が起きなかった。

 彼は感情を外に表すことで、心を落ち着かせるタイプなので、その辺の苦しみを私に打ち明けていた。だから彼からはたくさんの私信をもらった。私は必ず返信するので、彼にも同量の私信を送ったということになる。二人とも書くのが好きだったのである。

(’75年の1年間にこれだけもらった。年賀状の余りを使う所に当時の質素な生活ぶりが読み取れる)

(彼の筆跡は太字である。一字一字をしっかり書くタイプだ)

 ただし、私と意見が一致する時もあれば、反対の時もある。彼は、私と異なり、自分の考えを押しつけようとする嫌いがあるので、これまでもよく喧嘩をした。絶交を宣言したことさえある。それでもその溝は双方で埋めて来た。 

 今回も癪に障ったことがあったので、私は2度目の絶交をした。しかし、二人の名誉のために言っておこう。今回もその亀裂は修復できた。

(「絶交」を言い渡すのに書簡は有効だった。理由もきちんと書いた)

 

 新学期が始まった。久しぶりに登校すると、偶然笠岡出身のMT君に会った。教務課に就職カードを提出して来たと言った。その表情から彼も就職で悩んでいることが分かった。彼は二浪なので私と同年齢であるが、その点が就職難のご時世ではやや不利らしかった。

 彼も早稲田の法学部を蹴って慶応の文学部に来たくらいだから、本の虫であった。ただ、私と違い、文学書より社会科学の分野が好きであった。日吉時代、ストライキ実行委員をやったので、政治的には中道左派である。私と同じである。したがって企業に関心がわかない。彼の希望職種は編集者であるが、出版社(たとえ有名な出版社でも)は少数精鋭から成り立つ零細企業である。そのうえこの不況だから採用数は数名だろう。そのため、市役所の公務員試験も受けると言った(先の話になるが、夏休み前に行われた横浜市役所の試験を受けたが、落ちてしまった)。

 彼の実家も裕福ではない。いつまでもモラトリアム人間であることは許されない。来春、社会人になって金を稼がなければいけないのだ。

 

 .当時の就職活動の時期は今と違い、4年生から始まったために今の学生よりキャンパスライフを味わえたが、オイルショックのために今年は出だしが早かった。三田のキャンパスでは、日を追うごとに背広姿の学生が目立って来た。

(イメージ写真:なぜか集団で活動する者が多かった)

 元来就職に強い経済・法・商学部の学生でも第一志望の職に就けない噂が流れていた。オイルショックのため求人募集を行わない企業がけっこうあった。しかし、私は彼らとは違う。企業のサラリーマンになりたくないのである。そんな私を企業が採用するはずがない。

 私は焦って来た。就職課の求人募集を眺めながら悩んだ。

(上記の写真は採用見合わせ企業である)

(当時の慶応の就職一覧表である。募集票を壁一面に張り付けたのである)

 私は何の仕事につけるのか。一応、私も出版社に入って文芸の編集者になりたいが、現実は厳しい。他のマスコミも受けなくてはいけないのか。それともその他の職種で何か自分に向いている仕事はないか。できれば、利潤追求の職ではない方がいい。それなら、暇を創作に使えるだろう。これらの組織の採用試験は大企業の試験が終わった2学期に集中している。その頃、がんばろうか。今思えば、地に足がついてない、なんとも悠長な姿勢だった。

 私はマスコミ試験対策問題集を買ってみた。文芸や政治分野の問題は出来たが、経済や法律は解けず、図書館の閲覧室でむなしさを味わった。

(イメージ写真:昔の問題集はカラフルではなかった)

 こんな状態なので、とてもバイトをする気が起きなかった。両親はバイトをさせると就職活動に響くと考え、生活費をアップしてくれた。おかげでバイトをやらなくても済んだ。入学して初めてのことである。

 ゼミの授業や西洋史の勉強は面白くなかったが、落第はしたくなので、出席し、まじめにノートを取った。暇になると図書館で過ごした。S君やAT君やKM君と待ち合わせをする時は必ず図書館にした。

 大学の図書館以外の公立図書館にもよく行った。狭い三畳の部屋に一日中いると頭がおかしくなって来るので、必ず外に出るようにしていたのである。ただ、余分な金がないので遊ぶことはしなかった。

 私がよく行った図書館は、港区立三田図書館である。

(当時の頃の港区立三田図書館)

 慶応の図書館にない雑誌類がここにはたくさんあった。面白いことにけっこう自習室を慶応の先生や学生が利用しているのである。ここの食堂でよくコーヒーを飲みながら一服した。この近くの慶応仲通りではよく夕食を食べた。学生やサラリーマン相手の安い食堂が当時あった。

            

(昭和時代の仲通り:道路幅が狭かった)

 金がない私はいつも頭で計算しながら、メニューを選んでいた。田町駅には降りたが、大学に行かず、ここで時間を過ごしたことは何度もある。

 図書館で時間をつぶすという行動パターンは結局卒業するまで続いた。

 

 他の友達の動向を伝えよう。ただし、交流があった者だけである。

  昨年から急に親しくなったKM君。彼の就職に対するスタンスも私と似ていた。やはりマスコミ志望を第一としていた。それが駄目なら、外郭団体のような組織。一般企業のサラリーマンにはなりたくないらしかった。ただ、なにせこのご時世である。そのような組織の競争率も高い。だからといって学校の先生になることはためらっていた。文学部の学生の中には先生に向いているような学生もいたが、どちらかと言えば少数派で、多数は、私たちと同じように権威に反抗的なタイプな学生の方が多かった。

 KM君とは気心が合い、共通の話題(音楽や文学)が多かったので、二子玉川にある彼のアパートによく泊まりに行った。彼の方も北区の下宿に来てくれたが、私の方から行く場合が多かった。

 自炊をしていた彼からよく饗応を受けた。ある日、「今度こんな食べ物が売り出されたから食べてみろよ」と冷蔵庫から取り出したのが、「明治ブルガリアヨーグルト」である。今ではこのプレーンヨーグルトはどこででもいつでも食べられるが、当時この種のヨーグルトは市場に出回っていなかった。付属の顆粒状の砂糖を混ぜて食べた時、世の中にこんなおいしい物があるのかと私は思った。その味は本当に衝撃的だった。

(当時のブルガリアヨーグルトの容器は紙パックであった。なぜか顆粒状の砂糖が付録として付いていた)

 

 続いてS君の知り合いたちである。

 まず、MK君。彼は小さな劇団で頑張っていた。彼の初公演を招待されて見に行ったことがある。出番の少ない役だったが、演技に迫力があった。

 彼も一度私の北区の下宿に来たことがあった。学芸大学駅に住んでいた時は、地の利のよさがあり、実に多くの友人が遊びに来たが、北区の方は東京の端ということもあり、あまり訪ねて来なかった。

 彼は貧乏な一人暮らしをしていたので、妹が作った手料理を「おいしい、おいしい」と言ってたいらげた。

 妹の手料理にあずかった者といえば、冒頭に登場したMT君も挙げられる。彼も自炊ではない一人暮らしだったので、「うまい、うまい」と言ってお代わりをした。

(イメージ写真:実際は手料理といっても総菜中心の一品料理だった。漬物もなかった)

 次にKR君。彼も昨年から開始した司法試験の勉強を続けていた。ただ、S君や私との交遊は勉強の邪魔になるらしかったので、交流の度合いは減って来た。

 MK君と同じく夢に向かって踏み出したが、なかなか大変なように見えた。 

 私より1歳下のKH君との交流はしぼみつつあった。一度だけ私の北区の下宿に来たことがあった。彼は就職する気がなかった。早々と4年生をもう一度やろうとしていた。最近、慶応の女子学生で、彼と似た志向の年上の女の子と付き合っており、宗教や神秘主義へのこだわりは相変わらずだった。彼は私や彼の親友のAT君から完全に離れて行った。

 郷里の友達にふれよう。

 まず、中学時代からの悪友のYである。昨年、彼は男の子父親になった。今春、妻子が上京し、武蔵野市の彼のアパートで同居した。奥さんは私の中学校時代の同級生である。彼に誘われて、一度アパートに遊びに行った。驚いたことに、彼は一戸建てに住んでいた。ただ、KM君の一戸建てと同じように、古びた小さい家屋である。

 彼の家や奥さんの家の経済状態は中の下くらいである。それほど仕送りがある訳ではない。当然、彼はバイトをしながら学生を続けていた。その様子にはやや疲れが見えた。でも、自分で蒔いた種である。妻子のために頑張らなくてはいけない。

 国史専攻の3年生になっていたが、この就職難のご時世なので教職課程を取り、先生になるかもしれないと語った。彼のアパートの近くに玉川上水が流れていた。太宰治が心中して有名になった川である。二人で川べりを散歩した。

(玉川上水。両岸に樹木が多く、わびしい感じがしたのを覚えている)

 高校時代からの親友G君のことである。

 彼は糀谷の新聞店を辞め、再度北海道へ旅立った。小樽で就職しようと思ったのだが、この地の生活は無理だと思ったらしく、帰京していた。品川にアパートを借り、東洋梱包で日銭のアルバイトをしていた。この頃の心境を綴った長い手紙を私はもらった。彼は彼で悩んでいた。彼が望む革命が日本で起きる可能性がないことを彼は知っていた。だが、彼は、最下層で生きる自分に誇りを持っていた。放浪いまだ止まず、新たな道を進みたいと記されていた。

 

 夏休みが近づいて来た。

  S君の提案で小笠原に海水浴に行くことにした。期間は7月14日から21日まで8日間。メンバーは5人。S君と私以外では、哲研で一緒だった医学部生のMY君。彼は来春卒業である。次は司法試験を目指しているKR君。そしてS君の幼馴染のI君。彼は二浪して入った早稲田の法学部に入ったのだが、一年留年したために現在3年生。最後に、私が留年した時の同級生のAT君。彼だけ一歳下である。美学専攻の4年生だが、来春卒業しないという。

 全員、24歳または23歳になろうとしているが、職に就いていなかった。みんな、この旅をきっかけに今後の人生への飛躍につなげようとしていた。少なくとも私はそうだった。

 詳細については、後で、「青春の旅シリーズ」で語る予定である。竹芝桟橋から父島丸という東海汽船の船で出航した。船旅は父島まで2泊3日かかる。ここに3泊停泊してからリターンするので、島には3泊滞在することになる。

 

                   (忘れられない船旅だった)

 帰京後、私はただちに帰省した。この夏休みに車の免許を所得するため、地元の自動車教習所に通うことになっていた。両親からも強く勧められた。費用は出すともいってくれた。私自身社会人になる前に取って置くことは有益だと考えた。

(イメージ写真:昔は自動車教習所という名称だった)

 長い夏休みの間に私の就職に対する考えが変わって来た。友人知人の話を聞くうち、マスコミはあきらめ、大学の事務員や公団の事務員に絞ったほうがよいのではないかと思うようになったのである。両親は私の顔を見る度に就職の話を持ち出すので、彼らとは出来る限り顔を合わせないようにした。

 

  教習所に通う以外退屈なので、もっぱら読書に費やした。郷里には友人がいなかった。このシリーズで何度もふれたように、中・高時代の友人たち(YやG君やK君やKT君)は全員上京した。

 日記もつけなかった。7月、8月の2か月間はそれぞれ1回だけである。

 そして8月12日の記事を最後に終わりになった。なぜか。おそらく夏休み明けから実際に始まった就職活動の問題が大きかったためだろう。就職活動に飲まれ、自分を見失ったのだが、その苦しみを綴れなかった。それが、恋愛や文学や友情に対する悩みと全く違う、現実的な問題だったからだろうか。私は、日記に対して、奇妙な純粋さを求めていたのかもしれない。

(この頃、ゲーテを読んでいたことが分かる。これに関しては別の「読書シリーズ」で語ろう)

 これ以降、50年間つけなかった。半世紀である。それゆえこの3冊の日記帳は貴重であり、私の青春の記録かつその目撃者になった。

(これらの日記は墓場に持って行きたくない。遺品として子どもに残そうと思っている)

 手帳も貴重である。当時大切だと思われる予定をメモしていたからである。日記は75年の夏で終わったが、手帳は76年もつけていた。したがって75年後半と76年の出来事を振り返るのに役立った。これまた、処分しなくてよかったと思っている。

(これらの手帳のおかげで記憶の間違いを訂正出来た)

 

※続く。