6月に進級して以来、平穏無事なキャンパスライフが続いた。この状態を利用して、私は名作を読んだ。大学に入った最大の目的は小説を書くことである。そのためには名作を読んで、表現技術を学ぶ必要があると私は信じていた。それに時間を割きたかったので、西洋史の勉強は最低限しか行わなかった。単位を取れればいいとだけ考えていた。

 様々なバイトに挑戦したことも創作に関係している。社会の様々な分野を体験し、様々な職業の人と出会うことが、人間を描くのに役立つと思ったからである。

  私がどのような本を読んだかについては、別に記す「読書シリーズ」で話そう。

 映画もよく見た。展覧会にも行った。塾講師のバイトから入る定期収入と、夏休みの養鶏場のバイトからの収入でけっこう懐が温かった。

 これも「映画シリーズ」で述べよう。

 10月に入ると、ある出来事が起きた。

 17日に Kさんが泊まりに来たのである。その日は映画を見たり、帰宅すると、MK君(同じゼミの1年先輩)が遊びに来たりして忙しかった。彼が帰った後だから、Kさんが来たのは10時くらいかと思われる。

  Kさんは1人の若い男子学生を連れていた。

「一晩だけ、泊まらせてくれない」

 疲れたような表情をしている。B派との闘いで大変なんだろうととっさに思った。

 私は同意した。彼女はこれまで私の部屋に泊まったことがなかった。男の部屋に一人で泊まりに来ることはさすが気が引けたと思われる。今回、男と一緒だから、私の所へ来たのだろう。

 彼女に会うのは3月に旗の台で言葉を交わした以来である。私の部屋に訪れたのは1月以来である。

 連れの男子学生は知っていた。彼も日吉のスト闘争の時に実行委員になっていた。Kさんと行動を共にしていることは、A派に入ったのか、シンパの一人なんだろう。ただ、彼は姿かたちがヒッピー風なのである。髪は長髪。天然パーマである。着ているコートはロングでヒッピーがよく着ていそうなもの。はいているジーパンはパンタロンであった。話してみると、私とKさんより2歳年下で、現在2年生だという。やさしそうな語り口である。岐阜県出身であった。Kさんが姉で彼が弟という風に見られても不思議ではなかった。

 私は、彼女のために、押し入れの上の段を片付け、マットレスを敷き、ベッドのようにした。男の部屋なので、念のために。彼女が横たわった後、押し入れの引き戸を占めた。

 連れの学生には寝袋を与えた。布団が1組しかなかったからである。

Kさんの来訪に私は眠れなかった。心が激しく動いていた。

 心を落ち着かせるべく、私は日記をつけることにした。部屋の電気を消し、机の電気スタンドのスイッチを押した。

 彼女への慕情。容姿の美しさに対する驚き。打ち明けられない苦しさ。A派から脱会しない胸中の忖度。それらを綴った。

         (かなり克明に心情を綴っている) 

 もし彼女が1人で来ていたなら、私はどうしただろうか。手を出したか。自分の性的欲望を満たそうとしたか。それとも、今回と同じように、寝る場所を別々にし、一人思い悩んだのだろうか。様々な思いが脳裏を駆け巡った。

       (Kさんの容姿〔私が好きな箇所〕にふれている)

 翌朝(18日)、二人は出て行った。これでお別れかと思っていたが、夕方外出から戻って来ると、メモ用紙がドアの隙間から差し込まれていた。このメモを私は日記に張って置いた。好きな人の筆跡が見られるので大切にとって置きたかった。

(このメモを日記に張り付けておいた)

  ただ、私が喫茶店を訪れたこと、あるいは彼女が翌日取りに来たことの記憶が全くないのである。日記にもこの経緯を残してない。

 どちらかと言えば、翌朝、私が寝ている(私は普段から夜型なので昼頃起き出した)間に取りに来たのだろう。その際、私は、「ああ、分かった」と寝ぼけ眼で返事をしたのかもしれない。

 とすれば、彼女と最後に出会ったのは19日ということになる。これ以来、私が思いを寄せていたKさんと会うことはなかった。会わなければ、自然と忘れて来る。私の思いは、私の前に現れることになる女の子たちに移って行った。

 後日談を書いておこう。

 これから6年後のことである。私は働いていた。栃木県南部の小山市で一人暮らしをしていた。20代の終わりの頃である。

                        (現在の小山駅東口)

 ある日、KM君から一本の電話をもらった。

「Kさんと偶然会ったよ。びっくりしたよ」

 KM君はその頃横浜市で小学校教員をしていた。研修先で、なんとKさんに邂逅したという。互いに目を丸くし、しばらく話をした。彼女は現在、隣の小学校に臨時教員として勤めていると話した。元気がある所は大学時代と少しも変わってない。ただ、

「慶応時代に私がA派に入っていたことは誰にも言わないで」

と、耳打ちした。A派は過激派であり、公安調査庁から監視されている暴力団体である。入っていることが分かれば採用されないし、過去に入っていたのがばれても採用されない可能性がある。

 現在も入っているのかどうかについてはKM君に打ち明けなかった。話題を変え、こうも言った。

「K君、私、結婚したいの。30歳が近いし。だれかいい人を紹介してくれない」

 その時KM君の頭にひらめいたのが、独身の私だったのである。彼は、私がKさんを好きだったことを知っている。 

 「彼女の電話番号を聞いたから、連絡してみたら」

 KM君は私にそう言った。が、私は迷った。当時私には好きな女の子がいた。 しかし、かつて思いをはせた人の声を聞きたい気持ちが勝った。私は電話をすることにした。

 電話口に出た彼女は、やはり昔と変わっていなかった。相変わらず元気であった。

「あら、久し振り。〇〇君(私の名)、田舎にいないで東京に出てきたら」

 そう言われたが、話は発展しなかった。私は、彼女が現在もA派に属しているのか聞けなかった。彼女も自ら口にしなかった。彼女が現在もA派に属しているなら、彼女との交際は無理である。

 結局、昔と同じように告白できぬまま、電話を切った。

 心底から好きになった人に自分の心情を打ち明けられないのが、私の青春時代の特長である。今回も同じということは、Kさんは、私にとって青春時代の人だったのだろう。もう過去の人なのだ。

 この6年の間に私は成長した。大人になろうとしていた。それはKさんも同じはずである。

 後日、KM君が話したてくれたのだが、Kさんは勤務先の学校でバイタリティーにあふれていたらしい。水泳指導の後、水着姿で職員室に戻って来たので同僚は驚いたそうだ。

 次年度、東京都の採用試験を受けるらしい。

 それを聞き、私はうれしかった。彼女が合格し、彼女の長所である快活さで子どもたちに接して欲しいと願った。

 彼女の声は今でも耳に残っている。

 

 11月14日に初めて柴又に行った。寅さんファンの私は彼の故郷である柴又を見たかった。

 学芸大学駅から柴又までは遠かった。どうやって行ったのか忘れたが、何度も乗り代えたことを覚えている。

 柴又駅、参道、車屋のモデルになった店、帝釈天、江戸川の土手、矢切の渡しなどおなじみの場所を一通り巡った。ふと渥美清や倍賞千恵子が現れるのではないかという錯覚に襲われた。

 その後、45年の間に何度訪れただろう。10回は行っている。いつ行っても自分の故郷に戻ったような気がするから不思議である。

    (この頃、寅さんやさくらの銅像は立っていなかった)

 

 11月15日は「革命記念日」である。そう日記に書いてある。

 革命記念日とは何か。それは、私が大人になった日のことである。場所は某市の某地区。

                                                  (昭和時代、ある国の名をつけた風俗産業が栄えていた)

 私の高校時代からの親友のG君が、私が未経験であることを知り、連れて行ってくれたのである。

「俺がおごる。金は心配するな」

 ずいぶん太っ腹であった。彼は当時新聞店で正社員として働いていた。確かに私より裕福だが、その場所で使う金は安くない。親分肌を見せた彼が私には大きく見えた。彼は彼なりに成長していると思った。

 彼のおごりで他に覚えていることは、焼き肉(韓国風)である。私は生まれて始めて食べ、その美味しさに驚いた。カルビやロースに舌鼓を打った。この時も、「腹いっぱい食べろ」と大盤振る舞いをした。

(この頃のコンロはこのような四角い形をしていた)

 この時に受けた恩をいつか返そうと思ったが、果たせず、今日まで来てしまった。

 

 当時、私の交遊の中心にいたのはS君だった。彼が忘年会を開こうと提案した。誘った友は、K先生のゼミ仲間のMK君とKR君。二人共S君同様、4年生である。大学最後の年だということもあって二人は乗って来た。

 他にS君の小さい頃からの友であるI君、S君の友であるOH君とMY君(2人共、哲研)、1年生の時(最初)の同級生のSS君、それと歳が一番若い、私が留年した時の同級生であるAT君の9名である。

 MK君とKR君以外のメンバーは互いに知り合いである。それぞれ交遊していたが、その関係の中心にいたのはS君であった。

 場所は渋谷の大衆的な小料理屋。大いに盛り上がった。

  (この中には亡くなられた方や音信が途絶えた方もいる)

 この後、この忘年会はなんと45年間続く。人の出入りはもちろんあった。去って行った人もいれば、亡くなった人もいる。反対に途中から入って来た人もいる。皆勤の人もいれば、時々顔を出す人もいた。

 和気あいあいになったり、喧嘩したりした。腕力沙汰になったこともある。一時途絶えそうになったが、それでもなんとか続いた。だが、老いには勝てない。そろそろ終わりが近づいて来たのかもしれない。

 

 アルバイトの話をしよう。

 たぶん74年の秋だったと思う。KM君から単発のアルバイトを紹介された。東京12チャンネル(現テレビ東京)で『奥さん!2時です』という番組があった。そこで視聴者参加型の独身男性の意識調査という企画を行うことになり、スタジオに100名の独身男性を招き、質問に答えてもらうという。参加すれば、2000円もらえる。質問にボタンを押すだけでよいという。これはお得なバイトだと思い、すぐさまOKした。

 当時、12チャンネルにKM君の友人(歳は上)がアシスタント・ディレクターとして勤めていた。彼がKM君にこの話を持って来たのである。

 私はテレビ局のスタジオに入るのは初めてだった。司会は川口浩と早瀬久美。スタジオは華やかな印象だった。

                            (川口浩が若い。早瀬久美が可愛かった)

 歌のゲストとして、ダ・カーポが呼ばれ、『結婚するって本当ですか』を歌った。私が覚えていることは、ダ・カーポの久保田浩子さんが本番前の時間に腕を振り回したり、背筋を伸ばしたりするなど簡単な体操を行ったことである。彼女は細身なので、ジーパンが似合っていた。すごくさわやかな印象を抱いた。

  (久保田さんの声がよかった。透き通っているような声質だ)

 次のアルバイトも単発である。サンドイッチマンの仕事である。

 学芸大学の東口商店街を抜けると、目黒本町という地区に入る。そこに弁当の仕出し屋があった。そこが安くておいしい朝食を提供していたのである。10時くらいまで開いていたと思う。

 私は徹夜した時などにそこへ行った。たまたま二日連続して行ったところ、その店の常連客(なぜかベレー帽をかぶっていた)から、「あんた、学生さん。それなら、日銭のバイトをやってみないかい」と声をかけられた。12月の頃からもしれない。

 それがサンドイッチマンのバイト仕事であった。場所は渋谷のハチ公界隈。夕方の5時から10時くらいだったと思う。賃金は忘れたが、悪くはない価格だったから1500円くらいになったのかもしれない。ただ、ぶらついているだけでそれだけもらえるので引き受けた。

 約束の場所に行くと、私にバイトを紹介してくれた人や関係者がおり、キャバレーの宣伝のプラカードを持たされた。これをかかげてハチ公前やセンター街や道元坂あたりを歩くのである。ちょっと恥ずかしかったが、夜の5時間くらいは平気である。私にこの仕事を紹介してくれた方はこれで生計を立てているらしかった。彼はここでもベレー帽をかぶっていた。この姿が彼のトレードマークかと思われた。

  (イメージ写真:私の場合、変わった服装はしなかった)

 終わった時に約束のお金をもらった。渋谷で夕飯を食べ、喫茶店でコーヒーを飲んで帰ろうとした時、ハチ公近くの路上で私にバイトを紹介してくれた人が飲んだくれ、路上を行き交う人にくだをまいていた。ベレー帽をかぶっていたのですぐ分かった。彼は毎晩飲んだくれ、朝になるとあの定食屋に行って飯を食べるのだろうか。酒が彼の憂さを晴らす唯一の手段なのだろうか。都会の底辺で生きる人の姿をここでも見た。

 

 最後に、塾の講師のバイトについて。

 記録に残ってないので、正確なことは忘れたが、約1年続いた久が原でのバイトは、74年の12月末か、遅くとも75年の1月で終わりにした。

(イメージ写真:実際はもっと狭い部屋だったが、授業スタイルはこんな感じだった)

 理由は、2月に行われる後期試験に身を入れるためである。今年こそはスムーズに進級したかった。

 その他の理由として、引っ越ししなければならなくなったことも挙げられよう。それも久が原から遠い所にである。

 75年の春から妹と同居することになったのである。

 彼女は寮生活を送っていたが、その不便さに不満を抱いていた。一人暮らしをしたいと両親に訴えていたが、父が女性の一人暮らしは危険だ、金もかかると猛反対していた。母と姉は妹の一人暮らしを指示した。

 以前東京のある短大に行っていた姉も寮に入っていたが、1年過ぎた時に一人暮らしをしたい希望を伝えると、父に猛反対され、泣く泣く断念した。だから今回妹の希望をかなえてあげたかったのだろう。

我が家は狭いため、姉妹は自分専用の部屋を持ったことがなかった。それが嫌で上京したのだが、そこでも一人になれなかった。一人暮らしを希望する背景にはこうした理由があった。

 父は妹を可愛がっていたので、最終的には折れた。ただし、条件があった。それは2部屋ある下宿もしくはアパートならよいということであった。家賃の上限(いくらだか忘れた)も言って来た。我が家の女性たちはその案で妥協した。

 私は、私一人だけが、気ままな生活を味わったので、妹との同居を認めた。

 そういう訳で引っ越しをしなければいけなくなった。彼女の通学を優先するためには、学校のある文京区に近い所がよかった。

 こられの理由から塾の講師を辞めた。

 

 1975年(昭和50年)になった。

 正月に私は、高校時代の友で上京しているKT君の家に遊びに行った。彼は元々大田原の出であったが、その頃、一家で福島県白河市に移って行った。

(妹さんが撮ってくれた)

 上京した頃は彼とよく会ったが、次第に疎遠になった。画家志望だった彼は働きながら芸大を目指していたが、あまりにもその道が険しいので次第に変更しつつあった。金を稼がなければ生きていけないので、仕事を主にし、絵画は趣味になりつつあった。私はそれでいいと思った。

 私だって小説家志望であったが、一遍の作品さえ残してない。大江健三郎や石原慎太郎や三島由紀夫を見れば分かるように、世に出る人は若いうちに才能を発揮しているのである。したがって小説家になることは断念し、趣味として書こうと変更した

 白河は寒かった。景勝地の南湖を訪れたが、凍っていた。温暖化の今では想像できない。

 これ以降、KT君とはほとんど会わなくなった。互いに別な道を進もうとしていた。友人との交遊も枝分かれしていくのだ。

 ただ、この日から10年後くらいだろうか。一度私の職場に彼が訪れて来たことがあった。彼は神田の青果市場で働いていた。

  

 後期試験が終わるとすぐに、私は引っ越し場所を探した。妹の学校に近い本郷近辺の不動産屋に行ったら、家賃が高い。山手線内は比較的高かった。次に私が目をつけたのが王子である。ここなら家賃は安い。妹は1時間以内で通える。私も三田へ京浜東北線一本で通える。

 そこで王子界隈を探したところ、駅から15分くらい離れた、北区豊島という所にいい物件があった。そこはWさんという大家さん一家が1階に住み、2階の5室を貸していたのである。各部屋とも半畳ほどのキッチンとガス台がついていた。そのうち4畳半の部屋と3畳の部屋が空いていた。家賃が想像以上に安い(いくらか忘れた)。大家さんは老夫婦で、とても感じいい。 

 私はここに決めた。

(近くに王子生協病院があった)

(Wさん宅:左側に3室あり、真ん中と奥の部屋を借りた。2009年、42ぶりに訪れたら現存されていた。とても感動した)

 日記をみると、2月22日に私は引っ越した。急な展開だったので友人に知らせなかった。引っ越しを知らずに翌日S君とkR君は私の部屋を訪れた。何もないがらんとした空間に呆然としたとS君は後日私に語った。

 思えば、ここでの3年間は正に青春時代であった。悲喜こもごもを味わったが、どちらかと言えば、楽しいことの方が多かった。充実した思い出がたくさん生まれた。

 ありがとう、学芸大学東口!さようなら、泉荘!

 (最近の東口商店街の写真。この通りのお店にはお世話になりました)

 

 私は引っ越すと、自由時間がたっぷりあったので、王子駅界隈を散策した。飛鳥山に行ったり、都電に乗ったり、王子図書館に行ったりした。

  (当時のJR王子駅)

(回転展望台がある所が飛鳥山。当時この塔は飛鳥山のシンボルだった。今はない)

 そのうち、S君が遊びに来た。

 彼はまもなく卒業である。彼も将来について悩んでいた。時事通信社や中央公論社など大手のマスコミを受けたが、すべて落ちた。この年度の卒業生はオイルショックをまともに受け、不運だった。何しろ企業が採用しないのだから、職に就けない。当然採用する会社には応募者が殺到する。彼とも語ったが、人生には運・不運があることを私たちは知った。

(オイルショックは73年の秋。74年度及び75年度卒業者の有効求人倍率は1.0倍を割った。それまで高度経済成長なので大学生は引く手あまただった。一気に就職難になった)

 それで彼は慶応の大学院で歴史哲学を学ぶことにした。

 MK君は役者になることを決めた。S座という弱小劇団に合格した。

 KR君は、これまでの勉強と全く異なる分野の司法試験を目指すことに決めた。家から最低限度の仕送りを続けてもらえることになった。

 この2人は夢に賭けた。

 私は 彼らの様子を見て、私も考え込まざるをえなかった。4年生になったら、いやおうなしに就職試験に取り組まなければならない。どういう道に進めばよいのか。ただ、どんな職業に就くにせよ、小説を書きたかった。虫がいい考えだが、小説が書けるような職場で働きたかった。

 しかし、そのことを考えると頭が痛くなるので、この厖大な時間を利用して徹底的に本を読むことにした。このあたりのことは日記に克明に記されている。日記をつけることが、文章作法になると信じた私はこの時期、毎日のように、読書の感想や揺れ動く心情を書き残した。

    (小林秀雄やシェークスピアの名が見られる)

 

 3月になり、学校から成績表が届いた。私は無事に4年に進級出来た。このようにスムーズに進級できたのは、慶応に入学して始めてだった。 

 半ばに妹が引っ越して来た。私が3畳の方に住み、妹は4畳半の方に住んだ。出来る限り互いの自由を尊重し、食事も別々にしたが、日曜日の夕飯だけ妹が作る自炊料理を食べることにした。そのために小さな冷蔵庫を買った。

      (イメージ写真:こんな感じ。ただし色は白)

 

 また、この時期、母方の従兄弟が上京した。彼は大学入試に落ちたので、東京の予備校に通うことになり、私を頼って来たのである。彼の両親(叔父叔母)から下宿探しを手伝って欲しいと頼まれたので、一緒に探すことにした。彼の家も裕福ではないので、広くて快適な部屋など借りられない。結局王子に近い、町屋で見つけることが出来た。古い木造モルタルアパートの4畳半の部屋だった。彼はそこから神田にある予備校に通った。

 彼は一浪した後(1976年の春)、中央大学文学部に合格した。そのため八王子の方に引っ越した。

          (都電町屋駅。王子から行けた)

 いよいよ、次回から4年生の思い出に移る。

 

                ――― 終り ―――