3月中旬に成績表が届いた。統計学の単位を落としていることが分かった。結果は進級ではなく、進級保留扱いである。またもや進級出来ない。

 これはこういうことである。

 大学で履修する科目は、専門教育科目と一般教育科目に大別された。一般教育科目にはいくつかの分野があり、その中に自然科学も含まれていた。その分野の科目は、数学・物理学・化学・生物学・心理学・人類学・統計学・天文学などである。2単位が多く、2年生までに8単位を取らなくてはいけなかった。取れないなら、2年生の段階で留年である。

 私は典型的な文系人間のため、数学・物理学・化学が全く出来ない。だから心理学、人類学、統計学を履修し、心理学と人類学で6単位を取っていた。残りが統計学の2単位だったのである。

 これが私の頭にさっぱり入らなかった。先生はMという女性の講師である。

 しかし、不合格(D判定)者には、再試験があった。これで合格すれば単位が取得出来、進級可能である。

 私は必死に勉強するしかなかった。もう留年すなわち落第は嫌だった。両親からも嫌味を言われた。父は特に、今回留年したら、生活費を出さないと宣言した。

 4月10日、1974年度の新学期が始まった。しかし、再試験時間割発表は5月7日、再試験実施日が17日、結果発表は31日である。ということは2か月間、進級保留、すなわち宙ぶらりんの状態である。

                      (1974年の手帳)

(統計学再試験予定日が記されている)

 S君から私が、彼が属するK教授のゼミへの加入を認めれらたと告げられた。ただ、入会の可否はひとえに再試験の結果次第である。

 そんな時、KM君にキャンパスで出会った。彼もM講師の統計学を専攻していた。そして不合格だという。

 彼とは、最初の1年生の時、A派の集会で一緒になった。彼は、A派に入ったKさんやY(私の中学時代の悪友)やYH(高3の時の同級生)と同じクラス(フランス語)だったことがあり、多少言葉を交わしたのだが、その後、全く会わなかった。彼は哲学科に進み、倫理学を専攻していた。三田の統計学を授業で再会し、彼も1年生の時に留年したことを知ったのである。ただ、その時点では交流しなかった。

 ところが、現在私とKM君は同じ立場である。私と彼との仲がここで一気に縮まった。

 二人で図書館や彼のアパート(彼は二子玉川に住んでいた)で勉強した。テキストや授業のノートから出そうな内容に山を張った。

(当時、二子玉川園という遊園地が駅近くにあった)

 

 その努力が見事に実を結び、二人共再試験に合格し、6月から晴れて3年生になれた。

 薄氷をふむ経験をした私たちの仲は深まった。一浪経験者、A派に関わったこと、A派からの執拗な電話に悩まされたこと、留年など、共通性がたくさん見られた。同じ歳で音楽好きだったこともあげられる。話していくうち、似た者同士であることを発見し、意気投合した。

 MK君とはこれ以来交遊するようになり、大学時代後半の重要な友人になった。彼は富山県黒部市の出身であった。

 その後、時々、二子玉川の彼のアパートを訪問するようになった。多摩川べりにある一軒家タイプである。風呂はないが、小さな台所付きの6畳である。

(二子玉川駅から見た多摩川)

 

(イメージ写真:KM君のアパート。実際はもっと小さく、古かった)

 彼は時々手作りの夕食をごちそうしてくれた。料理が上手で、セロリ入りのカレーは絶品だった。

(イメージ写真:セロリの入ったカレーを始めて食べた)

 また、彼は1年生の2回目の時にバンドを組んでていたので、部屋にLPレコードがたくさんあった。ステレオも持っていた。冷蔵庫もあり、私と違い、恵まれた環境で暮らしていた。

 彼は、荒井由実がブレイクする前のレコード(初期のアルバム)を持っており「彼女はこれから売れるよ」と言って私に聞かせてくれた。彼の予想は当たった。それから彼女は一躍ビッグになった。KM君は慧眼の士であった。

(聞いて、衝撃を受けた。メロディも詩もすばらしかった)

(すごい才能だと思った。『海を見ていた午後』の詩に感動した)

 確か、初夏だったと思う。二人で多摩川のボートに乗った。小田急線の架橋の所である。

 青い空に白い雲。太陽は輝いている。私は思わず、荒井由実の作品の中で最も好きな『紙ヒコーキ』を歌った。3年生になれたので心が弾んでいたのだろう。     

         (YouTubeをみたら、オリジナルは投稿されていなかった)

 

 妹が4月に上京した。彼女は臨床検査技師になるために文京女学院医学技術専門学校(3年間)に通うことになったのである。推薦で決まったので、下見に行った麻布公衆衛生短期大学は受験しなかった。彼女は文京区の寮に入った。

 23日、彼女が突然私の部屋に現れるや、泣き出した。慣れない寮生活にホームシックが重なったのだろう。郷里を離れることにうれしさを感じた私と異なり、末っ子の彼女は両親から可愛がられてそだったために実家に愛着があった。

 仕方がないので、適当なことを言ってなぐさめると、元来行動的な彼女は元気を取り戻した。

 

 バイトのことを話そう。

 週3回の塾のバイトはその後も続いた。教えることが苦ではなかった。収入もいい。自分で言うのも変だが、生徒からの評判がよかった。

(週3回、3コマ教えていた。1コマの時間は80分である。かなりハードだった)

 室長の方は東京水産大学出身で、20代の後半。家族がいた。お父さんが小学校の校長を務めているとも言った。温和で優しい感じで、先生に向いた性格の人だった。

 そういえば、秋になって入って来た人に、早稲田の文学部を出て、推理小説作家志望の方がいた。塾のバイトだけで生計を立て、暇な時間を執筆に当てているらしかった。なんか私の未来図を見ているような気がしたが、私も小説家志望なんですと告白出来なかった。

 

 友人についてふれよう。

 前回の記事でふれるのを忘れた北海道出身のKA君のことである。彼は慶応を退学した後、バイトをして暮らしていたが、昨年の73年に行われた大手の共同通信社の中途採用に合格した。校正係としての採用で、高卒以上の資格が条件だった。倍率は数十倍だったらしい。オイルショック前に合格したことは幸運だった。その後だったら、優に100倍は越えただろう。

 

(共同通信会館。当時このビルに本社はあった。今の本社は汐留の高層ビル)

 やはり、KA君はただ者ではなかった。力があるからこそ難関を突破した。その後、彼とは会わなくなった。でも、彼から学んだことはたくさんあった。人生の先輩のような人だった。

 彼との縁も話しておこう。別れてから40年後、あることから彼の携帯電話の番号が分かった。退職していた私はさっそく連絡し、40年振りに彼と埼玉で会った。彼は子会社の役員を務めていた。すでに孫もいた。昔話に花を咲かすことが出来たその夜は幸せだった。

 

 この頃から私の交遊は、郷里の友人からS君を中心とした大学での友人に移った。

 S君はゼミでは1年先輩であるが、以前からの友人でもあるので、親密度が増した。彼とは毎日のように会っていた。場所は図書館である。空き時間があったり、暇が出来たりすると、閲覧室で本を読んだ。したがって図書館は随一の思い出の場所である。

 慶応出身の詩人の西脇順三郎に『自伝』という詩がある。詩集『第三の神話』に収められている。

 その中に図書館に触れた一節がある。

   

        (略)

  赤煉瓦の建物のバルコニーで  夕暮れの空をながめて アイルランドの百姓の幽霊 ばかりを思いつづけた

    (略)

 

 私たちも読書に疲れると、バルコニーに出た。

(バルコニーは玄関入口の上にある。二階の窓ガラスが見える部屋が閲覧室)

(閲覧室の様子。それほど混んでいなく、いつもここで本を読んだ)

 赤煉瓦の図書館の内部はシックで重厚な造りである。赤いじゅうたんで廊下や床がおおわれていた。ペンと剣を象徴したステンドグラスも忘れられない。

(1階。当時、左の部屋が書庫だった)

(ステンドグラスは1階と2階の踊り場にある)

 

 S君は川越から通っていたので、飲み会で遅くなると、私の部屋に泊まりに来た。

 K教授のゼミで1年先輩のMK君とKR君とも親しくなった。二人はS君と親しかったからである。

 MK君は福岡県の大宰府の出身で、家が裕福でないため、生活費は自分で賄っていた。二浪して入っているので一つ年上である。喜怒哀楽が激しく、怒り出すと手が付けられないが、普段は愛想がよかった。酒が強かった。

(MK君は高校に通うのにこの駅を利用したと言っていた)

 S君とは親しい反面、喧嘩もよくした。二人共次男坊なので小さい頃は喧嘩が強かったらしい。卒業後、役者になるかマスコミに進むかで迷っていた。

 彼も私の部屋に時々遊びに来て泊まっていった。彼は小説家では三島由紀夫に心酔していた。また、映画俳優では、ポール・ニューマンを敬愛していた。彼とよく文学論や映画論を交わした。

 いつの日か私と彼で浅草に遊びに行ったことがあった。仲見世通りにあるおもちゃ屋の娘(Sさん)がK教授のゼミにいた。私より1学年上、すなわちMK君と同級である。彼はSさんが好きだったのだろう、浅草駅に着くや、公衆電話で彼女を呼び出した。在宅していた彼女からOKの返事をもらった。私たちはSさんに浅草寺界隈を案内してもらった。MK君の慕情は片思いだった。Sさんは卒業後、浅草寺のお坊さんと結婚されたという。

(当時の頃の仲見世通り)

  KR君は佐賀県出身で、一浪して入ったので、私と歳は同じであった。もの静かな人で、卒業後司法試験の勉強をして、裁判官になりたいと語った。 

 彼の下宿は池上線の池上駅にある。私のバイト先の久が原の2つ隣の駅である。

 そこは、我が愛読書の『アカシヤの大連』の作者、清岡卓行が住んでいた場所でもある(KR君と知り合った頃には別の街へ引っ越していた)。彼は私小説の『鯨もいる秋の空』で池上界隈を綴った。

 私は時々池上を訪れ、彼の下宿に寄ったり、清岡の足跡を求めて文学散歩を行ったりした。

 

 3人共、昨年のオイルショックの影響をまともに受けていた。あの頃は今と違い、就職活動は4年生になってからであった。夏から秋に試験が集中していた。

 S君は卒業後、大学院の修士に進むか、マスコミに進むかで迷っていた。俗にいう企業のサラリーマンにはなりたくなかったらしい。ただ、彼は押しが強く、行動力に富んでいるので、企業に入っても十分やっていけると私は思っていた。

 確か4月の下旬頃だろうか、S君からMK君と時事通信社へ企業訪問するから一緒に来ないかと誘われた。慶応出身のOBに会うという。その方が言うには、今年はオイルショックなので、採用数が限られる上、希望者が殺到していると答えた。また、この仕事はハードなため、3年以内で辞める若者がけっこういるとも語った。 

(当時の時事通信社)

 次に私たち3人は、今年朝日新聞に入社したゼミの先輩に会った。彼はマスコミの長短を語ってくれた。給与が高く、福利厚生が整っているマスコミが少ないこと。すなわち新聞社や出版社や通信社やテレビ局では大手しか該当しないこと。元来マスコミの採用人数が少ないこと。そこへオイルショックが重なったために天文学的な競争率になること。

 なんとも先行き不安なアドバイスである。二人と、一応来年マスコミを受けるつもりの私は出鼻をくじかれた感じだった。

 S君はコネをつけるために時事通信社で短期のバイトをしたり、大手の出版社や新聞社を受けたりしたが、最終的にどこも受からなかった。

 

 次にゼミの同級生についてふれよう。

 気軽に言葉を交わせた者が3人いたが、親しく行き来できる仲にはなれなかった。

 HR君は兵庫県の高砂の出で、卒業後は帰り、神戸の会社に就職したいと語った。彼の兄は慶応の体育会相撲部キャプテンを務め、三越に就職していた。

 OR君は二浪して入ったので私と歳が同じだった。広島県の呉出身で、卒業後に大学院に進み、学問的業績が認められ、慶応に残れた。やがて西洋史の教授になった。

 OT君は一浪して入ったので、私より一つ年下だった。実家が広島県の福山近くの田舎町にあるお寺で、卒業後、住職をしながら県立高校の社会科の先生になりたいと語っていた。確かお父さんもそうだったと思う。彼は後に校長を務めた。

 

 これまでの友達についてもふれよう。

 留年した時のクラスで一緒になったAT君との親交が深まった。彼は哲学科で美学美術史を専攻していた。彼も私のアパートによく表れた。泊まっていったこともある。いつの日か、朝起きたら、彼が隣で寝ていたことがあった。誰かと渋谷辺りで酒を飲み、保谷市にある自分のアパートに帰るのが面倒くさくなったのかもしれない。

 私とS君はAT君も仲間に入れ、図書館でよく待ち合わせをした。酒場へ繰り出したり、展覧会に足を運んだりした。

 そのうちAT君を、S君の小学校時代からの親友のI君に紹介した。I君は、私が今のアパートに引っ越しする時に手伝ってくれた人である。二浪して早稲田の法学部に入ったのだが、留年したので、2年生だった。

 今度は4人で酒場へ繰り出すことが多くなった。4人組の仲に発展していった。場所は渋谷が多かった。

(イメージ写真)

 そのうちI君とAT君は、気心が合ったのだろう、たちまち友人になり、やがて心を許す親友の間柄に発展していった。I君もAT君同様酒が強い。強いばかりでなく、酒乱傾向もあった。それも関係しているのかどうかは不明だが、二人でコンビを組むことも多く見られた。I君が兄貴分というような関係だった。彼らは酒にまつわる武勇伝を数多く残した。

 郷里の友人では悪友のYにふれよう。彼は3月に父親になっていた。母子は郷里に残したままだった。この頃彼は目黒区五本木から武蔵野市に引っ越した。彼の次兄が近くに住んでいたこともある。子どもが成長したら、妻と子を東京へ呼ぶと言った。

 アルバイトをしながら通学していたが、帰るのが大変になると、私のアパートに泊まりに来た。彼の家はそれほど裕福ではない。子どもも出来た。彼の奥さんの家も裕福ではない。当然、バイトをしなければ学校生活を送れなかった。1年生を3回しているのだから、もう落第は出来ない。大変だが、妻子のために頑張るしかなかった。

 次にG君にふれよう。彼は大井町から西糀谷に引っ越した。新聞店に住み込んで元気に働いていた。彼の自分探しは続いている。働き、仲間としゃべり、酒を飲み、本を読んだりしていた。

 

 7月に入り、授業が終わると、私とS君は仲間を誘って海水浴に行くことにした。彼と海に行くのは3年前に新島へ行って以来である。場所は伊豆である。連れは、MK君、KR君、それと医学部学生で哲研で一緒のMY君である。私は哲研を辞めてしまったが、S君とMY君は入っていた。私はMY君と交遊していなかったが、S君とM君は親友になっていた。

 MY君は横浜生まれの慶応高校出身者で、内部進学で医学部に入ったというのだから秀才だった。話し方が論理的かつ明晰である。性格は温厚だった。そんな彼がS君と親しくなったのは、S君のぐんぐんと前に進む行動力に惹かれたのではなかろうか。

 私の部屋で待ち合わせ、東横線で横浜駅に向かった。そこでM君と合流し、東海道線で沼津に向かった。着いたのが夜なので、沼津港で夜を過ごした。野宿である。

 翌朝、定期船で西伊豆の松崎に行った。松崎の浜は入り江になっており、波が穏やかだった。その日は野外キャンプ場でテントを借り、飯盒炊飯で夕飯を作ることになったのだが、疲れていることもあったのだろうか、S君とMK君が喧嘩を始めた。MK君はどちらかといえば激情型である。殴り合いになりそうになったので、私やM君が間に入って収めた。

(現在の松崎海岸)

 翌日は下田の民宿に泊まることになっていた。自分たちで飯を心配する必要がない。また、下田の白浜海水浴場は水が透明で、砂浜もその名の遠り、白かった。波も荒くない。茨城の海水浴場と全く違うので感動してしまった。海の家で借りた大きな浮き輪で波乗りを楽しんだ。

 この民宿での思い出は、セミの鳴き声である。そばに林があったせいか、セミの鳴き声で目覚めてしまった。怖いくらいの大合唱である。郷里ではお目にかからなかった。朝から強い日差しだったので、その日も海水浴を満喫した。

        (現在の写真。正式名称は白浜大浜海水浴場)

 海水浴から帰ると、私は帰省した。この夏は、郷里の養鶏場でバイトをすることになっていた。そのため、学習塾の夏期講習の仕事は免除してもらった。

 期間は、手帳に載ってないので、忘れたが、たぶん7月下旬から8月下旬くらいまでの3週間くらいだったと思う。

 この仕事はこれまでのバイトとは違った。一番きつかった。しかし私はきついことを予想してあえて行ったのだ。自分を試してみたいという気持ちがあったからである。

 父の友人がこの養鶏場を開いていた。働き手が不足している話を聞いた私は、父に頼んで紹介してもらったのである。

「おまえみたいな怠け者には務まらないだろう」

 父は私を脅した。たぶん彼は私が3日で音を上げると思っていたらしい。

 夏の養鶏場の仕事は3Kである。まず、鶏糞がどうしようもなく臭い。この臭いを克服することが最初の関門だった。

(イメージ写真:暑さもあり、とにかく臭いがきつかった)

 次の関門はハードな仕事に慣れることである。内容は、エサやり、卵取り、鶏糞の除去、ニワトリをつかまえて檻に入れることなどである。この中で最も大変なのが鶏糞の除去である。ニワトリは一羽ずつ小さな仕切りの中に入れられており、その仕切りは30mくらい続いている。その列が計4列あった。

 ニワトリの前には雨どいのような細長い(30mある)エサ台が走っており、その中に巻かれたエサをニワトリは一日中食べているのである。当然、彼らは糞をする。地面には、糞を除去しやすいように砂がまかれている。毎日除去しなければ糞だらけになってしまうので、一日に2回は箒で糞を掃き出した。

(イメージ写真:この写真と同じようにエサやりは手作業だった)

 3番目の関門は暑さである。気温が高いうえに、鶏舎の屋根がトタンなので、炎天下の舎内はすごい暑さである。手ぬぐいタオルを腰にぶらさげ、絶えず水を飲まなければならない。

 これらをこなせばなんとか勤まる。面白いというか、奇妙な体験は、放し飼いにした若いニワトリを高さが低い直方体の檻にしまうことである。手で体をつかまえようとすると逃げられるので、細い鉄棒の先端(「つ」の字の形に曲がっていた)で足をひっかけ、棒を引いて引きずり寄せ、空いた方の手で素早く両脚をつかむのである。つかみ終わったらすぐ逆さにする。そのまま、檻の上部にある入り口を開け、そこから放つのである。

 最初は難しかったが、慣れて来るとなんなくつかまえることが出来た。

 三日坊主で終わらず、3週間続けたことは私の精神形成の上で役立った。実に貴重な体験だった。

 

 8月下旬に、バイトで得た大金を持って帰郷した。27日から30日までゼミの夏合宿が蓼科高原で開かれた。場所は樽が沢山荘という旅館である。

 合宿は希望者で行われた。1年上の4年生では私の友であるS君、MK君、KT君の男子ばかり3人が参加した。3年生は私を含め6人。大学院の博士課程の方が1人。そしてK教授。

 本来なら上記のゼミ関係者だけで行われるのだが、今回の幹事でゼミで最も発言力のあるS君が彼の友人(私の友人でもある)2人をオブザーバーとして誘ったのである。1人は早稲田の学生で小学校からの親友のI君、もう1人は、酒飲み4人組のAT君である。K先生には許可を取ってない。職権乱用、公私混同である。みんなはびっくりしたが、参加者が少なかったので歓迎された。

(私はカメラを持っていなかった。写真にあまり興味がなかった。だから大学時代の写真がほとんどない。今では貴重な写真)

 勉強会も普通に行われた。ところが、夕食で酒を飲み、そのまま二次会に発展すると、放談の場となり、I君とMKとの間で論争が起きた。歴史哲学の話題ではなく、政治に飛んだり、文学に行ったり、支離滅裂的な内容になった。どちらも自説を譲らないので、二人の独壇場である。こうなると元来激情型のMK君は興奮した。I君にも酒乱傾向がある。そこにやはり酒乱傾向のあるAT君が加わった。S君も酔い出した。下手すると一触即発の雰囲気になった。

 3年生はもう唖然とした。関係のないゲストが宴会の中心になり、関係のない話題で騒いでいるという印象を抱いたのだろう。白けた者も現れた。

 彼らを知っている私が間に入って、なんとか事なきを得たが、翌日になると、上記の4人は口をそろえて、「覚えてない」と言い放った。彼らが反省し、先生や下級生が酒のなせるわざと大目に見てくれたので、翌日から和やかな雰囲気になった。

 3日目と4日目は散策を通して友好を図った。蓼科山に登ったり、車山高原を散策したり、白樺湖を眺めたりして晩夏の高原を満喫した。

(車山高原)

 車山高原の散策では、「こんなに気持ちのいいハイキングは久しぶりだよ」と先生が相好を崩された。

(山荘のベランダにて)

 酒宴での争乱はあったが、結果的には楽しい合宿になった。

 

 9月から学校が始まった。6月以降、私の生活は平穏だった。入学後、3年目にして初めて、いわゆるキャンパスライフを味わった。

 しかし、10月に入ると、ちょっとした出来事が起きた。そして私にとっては忘れられない思い出になった。

 

※続く