前に記したように、この『青春グラフィティシリーズ』は当時の日記を元にして綴っている。私は、出来事を記録するというより、悩みや苦しみなどの心情の揺れを吐露するために日記をつけていた。毎日つけていたわけではない。

 最近、当時の手帳を見つけた。銀行が毎年発行していたもので、73年から76年までの4冊である。ここに予定や出来事をメモしていた。会った人物にもふれている。

(73年の日記)

(その内容。主に授業の予定が書かれてある)

 

 さらに、ハガキや手紙も出て来た。電話がなかったので、連絡のためにハガキをよく用いた。手紙では心情を告白した。特に75年からその量が増え出した。

 私は、家財道具や書籍や趣味の所持品を捨てたり、売ったりしたが、なぜか大学時代の日記、手帳、書簡は処分しなかった。

 だからこそ、青春時代の過去を正確に把握出来、こうだったのではないかという想像や推測を排除出来た。

 おかげで私にとってより厚みのある青春追想の記録になった。

 

 前回の続きをしよう。

 三田キャンパスは日吉と違っていた。

 男子は長髪やジーパン姿が少なくなった。アイビー系、七三の髪型、ブレザー姿の学生がけっこう目立った。世間が抱いている「慶応ボーイ」のイメージの学生である。

 文学部は2年生から三田に通うが、経済や法学のような文系学部は3年生からである。4年生になると就職活動が待ち構えている。おのずと社会を意識せざる得ないのだろう。

 私の場合、この年まで耳が隠れる長髪だったが、翌年3年生になると、ばっさり切った。

 女子も同様である。ジーパンやパンタロンの姿が減り、スカート姿が増えた。化粧をしている子も多かった。「女性」の雰囲気を漂わす子が多くなった。

 立看板が少ないこともあげられる。学費値上げのストは2月で終わった。

 歴史を感じさせる重厚な造りの建物があることも関係していえよう。その代表は図書館や演説館である。

(図書館:三田に行く度に図書館に立ち寄った。思い出が深い)

 私はこの図書館をよく利用した。通学した時は必ず閲覧室に寄り、本を読んだり、地下室の新聞コーナーで暇をつぶしたりした。 とにかく三田は学問が感じられる場所だった。日吉時代は授業をさぼったが、三田では真面目に顔を出した。

 

(演説館:平素は中に入れなかった)

 西洋史を専攻した結果、最初の年の級友で、順調に進級して西洋史を学んでいたS君と必然的に顔を合わすことが多くなった。形では先輩である。

 彼は夏休みに学芸大学駅近くの下宿を引き払い、川越の自宅に戻っていた。そこから通学するのでけっこう時間が掛かる。夜遅くまで遊び、帰宅するのが面倒になると、私の部屋に泊まるようになった。

 彼とは仲良くなったり喧嘩したりする仲だったが、さらに密度が濃くなった。新宿や渋谷で酒を飲んだり、展覧会や映画に行ったりした。

 ここ1年半ご無沙汰していた彼の家にも行くようになった。10月の中旬に開かれた川越まつりの見物に招かれたことがある。

(川越まつり:我が故郷にこういう山車の祭がなかったので面白かった)

 

 山車は蔵造りの家が立ち並ぶ通りを行き交った。まつりなので人波が生じたが、普段の蔵の街はさびれた印象が免れなかった。現在の盛況から想像できないくらいである。

(蔵造りの家が並ぶ通り:当時、昼間でも閑散としていた。街起こしに最も成功した市である)

 

 この頃に親しくなった友にMT君がいる。彼もストライキ実行委員会のメンバーだったので、顔は知っていたが話したことはなかった。何かの機会で話すようになると、一気に親しくなった。二浪して入ったので年齢が同じなこと、高野悦子の『二十歳の原点』から感銘を受けたこと、私の友のAT君と一時下宿が同じだったことが背景にある。

 高野悦子と同郷であることを私が語ると、目を丸くして聞いていた。吉本隆明に心酔しており、会話の中にたびたびその名が出て来た。

 彼は岡山県の笠岡の出身であるため、岡山弁が出ることがあった。私と親しくなった頃は目黒区本町の下宿の三畳に住んでおり、私のアパートから歩いて15分くらいで行けた。親しくなって以来、彼は私の部屋に来てよくしゃべって行った。

 

(岡山弁の響きがなつかしい)

 

 アルバイトの話をしよう。 夏休みのバイトで稼いだお金が底をついて来たので、10月中旬からバイトをすることにした。

 お金と言えば、話が横にそれるが、お金が無くなると、時々友人たちとお金の貸し借りをした。その記録が手帳に残っている。S君、同郷のK君や悪友のY、中核シンパのYY君、慶応を退学になったKA君、哲研で一緒になった経済学部のO君などの名前が載っている。前の部屋のSOさんの名まであった。

 場所は飯田橋にある東京出版販売(現在のトーハン)で、内容は仕分けや梱包の作業だった。手帳を見ると、10月11日から十日間働いている。時間は17:30から20:30までの3時間。賃金として10500円もらった。悪くないバイトだった。

(トーハンの現在の写真。あの当時とあんまり変わらないような気がする)

(イメージ写真:書籍類が多かったので、重かった)

 

 11月の中旬にはビルサービス会社で短期のバイトをした。場所はなんと慶応大学の三田校舎で、教室の黒板の清掃、黒板拭きのチョーク落とし、チョークの補充行う内容である。時刻は夕方4時から6時まで。正確な日数が手帳に記されていないので不明だが、1週間くらいである。時給は安かったと思う。自分が利用している教室の清掃をするので不思議な感じがしたが、小中高の掃除の延長と思えば楽である。ただ、人気がなく、外は暗いため、ちょっと不気味な感じがした。

               (南校舎や西校舎の教室が多かった)

 このバイトで明治大学農学部の学生と知り合った。彼は盛岡の出身で、歳は一つ下。私より長く行っていた。一度彼の下宿(高島平にあった)に遊びに行き、彼の作ったカクテルをごちそうになった。

 

 肉体労働のバイトばかりをしていた私をみかねたのか、S君が学習塾の講師のバイトを紹介してくれた。実はS君がそこでバイトをしていたのである。諸事情により辞めることになったので、室長に私を推薦したのである。そこは中堅の学習塾チェーンの久が原教室で、池上線の久が原駅から歩いて5分の所にあった。

(久が原駅の現在の写真。形は当時と変わらない。踏切を渡って通勤したことを覚えている)

 週1回の土曜日だけで、時間は4時半から8時まで。小5と中1に国語を教えることになった。小5の子は11人。中1の子は5人。賃金は忘れた。手帳を見ると、17日(土)から始めている。

 今までのバイトと違って肉体が疲れなかった。S君には感謝している。

 

(イメージ写真:こんな感じであった。マンションの一室を借りていたので室内は狭い)

 

  その頃の思い出として挙げておかなければいけないことは、第一次オイルショックである。

 日本中がパニックになり、流言飛語が飛び交い、近所のスーパーからトイレット・ペーパーや洗剤などがあっという間になくなった。

 私のアパートはポットン便所である。

(イメージ写真:「トイレ」ではなく「便所」なのだ)

 使用するのはちり紙である。それさえ品切れ。なお便所には置いてなく、持参しなければいけない。仕方がないので実家に電話して、仕入れで上京する際、持って来てほしいと連絡した。衣類販売業を行っているので父か母が2週に一度の割合で上京していたのである。

(イメージ写真:束の高さが1mくらいある)

 

 下旬に妹が私の部屋に泊まりに来た。彼女は高3で、臨床検査技師になりたかった。そのコースがある麻布公衆衛生短期大学(3年間)を受験する予定なので下見に来たのである。その短大は相模原市淵野辺にあり、最寄りの駅は横浜線の矢部だった。学芸大学から東横線に乗り、菊名で横浜線に乗り代えれば、直通である。当時学芸大学から1時間くらい掛かっただろうか。

 彼女は東京や横浜に不案内なので同行することになった。

 矢部駅から大学まで人家が少なく、キャンパスには樹林が多かった。ちょうど紅葉の季節である。黄色に染まった林の風景を今でも覚えている。ふと、シューベルツの『風』の一節が頭を駆け巡った。

   ♪~人は誰もただ一人旅に出て 人は誰もふるさとを振りかえる~♪

 (このシングル盤を高校時代に買った)

 妹は私が東京で横揺れの激しい生活を送っている間にいつのまにか大きくなっていた。

 妹上京の記事をもって、NO.2の日記が終わりになる。NO.2さん、ありがとう。

 

 次の記事からNO.3である。

    (この日記は昭和50年〔1975〕の8月12日まで続いた。当時4年生である)

 私は、それ以降46年間つけてない。したがって日記は我が青春の貴重な記録である。

 

 記事は12月11日から始まる。9日から11日までの3日間、A派のTDと名乗る男が仲間一人を連れて私の部屋を訪れたと書いてある。「休ませてくれ」と書いてある。そしてなんと9日の夜にはKさんが1人で我が家に現れたと書いてある。

 

 それで思い出したのだが、こういうことだと思う。73年頃から新左翼のA派とB派との内ゲバが激しくなった。互いに襲撃し合い、殺人にまで発展した。それがエスカレートしたので、マスコミは新左翼を過激派と呼ぶようになった。

 当然、下っ端の連中もそのあおりを受け、身を隠すようになったのだと思う。

     (イメージ写真:70年代に入ってセクト間の内ゲバは殺し合いになった)

 TDとは初対面である。疲れた顔して懇願するので、私は部屋に入れた。彼は愛想はよかったが、不必要なことは話さなかった。オルグしようともしなかった。私の部屋をなぜ知ったのかについても語らなかった。

 私が推測する限り、スト騒ぎの実行委員の名簿を入手したのだろう。

 彼らは数時間滞在して帰って行った。私のアパートが駅から近く、大家はいない、訪問しやすい所だと気づいたのだろう。翌日も翌々日も現れ、やはり数時間滞在して帰って行った。確か夕方に現れ、夜の間に去って行った。

 それよりも驚いたことは、9日の夜にKさんが1人で現れたことである。私の部屋を訪れる女子はいなかったので本当にびっくりした。彼女からすれば、私は大勢いるオルグ対象者の一人にしか過ぎないだろうが、こちらにすれば「好きな人」である。それも一人で来た。私に好意を持っているのかと考えたくなる。

 ただ、彼女はA派の正当性を熱く語った。洗脳されているせいか、自分たちだけが正しいと思っている。私は黙って聞いていたが、A派の思想を認めなかった。水と油が交わらないように、落としどころは見つからない。彼女が男だったなら、言い合いになっただろう。

 新左翼のセクトは排他的な宗教集団と同じ、一種のカルトである。

 彼女は、これ以上話しても無駄だと悟ったらしく、まもなく帰って行った。勧誘業者のようであった。彼女に対する思いは急速に冷めて行った。

 

 その年の大みそかに私は帰らなかった。同郷の友、K君のアパートでG君も交えて宴会を開いた。3人そろうのは約1年ぶりだった。G君はその頃、大井町で新聞配達を行っていた。

(イメージ写真:K君の部屋も狭かった。もっと散らかっていた)

 K君の就職が決まったのでそのお祝いも兼ねた。会社は東京駅近くにある水道設備や空調設備を手掛ける会社である。就職活動は厳しかったらしい。マスコミに行きたく、集英社や郷里の新聞社も受けたが、駄目だったという。それでもオイル・ショック前に決まったことは幸運だったらしい。その後であれば、募集人数が減っただろう。

 来春からいよいよ社会人である。彼の自分探しの旅は終わりを迎えようとしていた。その点で私やG君と違っていた。

 

 1974年(昭49年)が始まった。

 正月の2日に帰省すると、母が、大晦日にKさんから電話がかかって来たと告げた。電話をくれたこと自体は悪い気持ちはしないという一方、内ゲバという暴力にまい進するA派から抜け出せない彼女はもう遠い存在なのだとも思った。

 A派の件はまだ続く。

 12日、TDが深夜一人で現れた。「泊めてくれ。寝る場所がない。翌朝出て行く。迷惑はかけない」という。私は仕方がないと思い、泊めてやった。言葉通り、次の朝、寝ている私をまたいで静かに去って行った。

 23日、私が昼間部屋に戻ると、中から話し声が聞こえた。私は親しい友人には鍵の開け方を教えている。私の部屋はダイヤル式の簡単な鍵が付いているだけであった。掛金の部分もちゃちだった。壊す気ならすぐ壊せた。当時はこのような造りのアパートが多かった。

(イメージ写真)

(イメージ写真:当時もこの緑色の掛金。引っこ抜くことが出来た)

 友人が来ていると思った私はドアを開けた瞬間、驚いてしまった。TDが仲間二人といたのである。どうして鍵の番号を知ったのか。私は、友人のために部屋の壁に鍵の開け方の番号を記した紙を張り付けていた。目ざとい彼は以前来た時に気づいたのだろう。

 TDたちはあわてた。密談していたらしい。資料らしい紙をあわてて破った。

 私はTDに対し怒りを覚え、激しく抗議した。彼は、「行くところがなかったんだ」と謝ったが、心から反省している様子が見られない。

 彼らが去った後、脳裏に内ゲバの写真が浮かんだ。対立するセクトが私の部屋を嗅ぎつけたらどうなるか。私も巻き添えをくらい、殺されるかもしれない。実際にそういう事件もあった。

私の心は真っ暗になった。

(イメージ写真:内ゲバは10年くらい続いたか)

 2年前、A派の電話攻勢に悩んだのでここへ引っ越して来た。それなのにまたA派に悩まされるなんて。彼らとの悪縁にぞっとすると同時に、ふがいない自分にも嫌気が差した。

 25日の夜、Kさんがまた来た。定期購読の話である。「留守の場合はドアの隙間から入れようと思っていたのよ」と言って彼女はメモ用紙を渡した。

(普通ならこのようなメモは捨ててしまうのだが、好きなKさんからのものなので取って置いた)

 大晦日に実家にかけて来た電話の内容もこのことだったのか。上層部からノルマをかけられていたのかもしれない。同情したが、私は断った。23日の件でA派に対する憎しみが湧いていた。

 Kさんはがっかりして去っていた。残念だけど仕方がないと私は自分に言い聞かせた。

 

 28日、深夜眠っている私は起こされた。TDが外に立っていた。「行く場所がない。今晩だけ泊めてくれ」と言って手を合わせた。「かくまってくれ」というような言い方で、おびえているようにも見えた。私は追い返すことが出来なかった。「今夜が最後だよ」と言って寝かせてあげた。襲撃に参加しているんだろうか。もしそうなら、私の所よりももっと見つからないような所へ身を隠すはずだ。彼はどうみても下っ端だ。彼なりに大変なんだろう。いろいろな思いが頭に去来した。

 彼は翌朝、眠っている私をまたいで出て行った。彼は、私と約束した通り、その後姿を見せなかった。

 それから約二か月後の3月12日の夜のことだった。塾のバイトからの帰りである。池上線の久が原駅から東横線の学芸大学駅に帰るためには旗の台駅で大井町線(あの頃は田園都市線と言った)で乗り換えなければいけない。そこでばったりKさんに会った。彼女は明るく、私の名を読んだ。元気でいたので私はうれしかった。元来楽天的な性格なのだろう。もし暗い表情をしていたら、私は知らぬ振りをしていたかもしれない。お互い、さわやかに手を振って別れた。二度と会うことはないだろうという気がした。

(当時の旗の台駅:池上線のホーム)

 

 この頃の友人のことを語ろう。

 最初は中学時代からの悪友のYである。

 1月14日、体育の授業を受けに日吉のキャンパスに行った時、彼に会った。彼は元気だったが、驚くべきことを話した。子どもが出来たというのだ。そのため、急遽両家だけで結婚式を挙げたそうだ。彼の妻は私の中学時代の同級生である。高校生になってから付き合いだし、その関係は続いていた。

 ただ、私は無責任だと思った。大学生である。それも1年生を3回行っている。彼及び妻の実家は私の家より裕福でない。彼は、今後、家族を養うためにバイトをしなければならないだろう。直情径行の性格が行き着いた先が子どもの誕生なのである。

 しかし、そのことを私が口にすれば、喧嘩になる。彼は彼で悩んでいるみたいだが、元来楽天的なので、つらい表情は見せなかった。

 健闘を祈るしかなかった。

 

 次に同郷の友人のK君のことである。

 2月初旬に行われた後期試験の後、大学は休みに入った。それを利用して中旬から月末までの10日間、私は荻窪の西友ストアー内にある山本山(お茶と海苔)の販売所で販売のバイトをすることになった。時間は夕方の3時間。

 実は、ここでK君がバイトをしていた。彼の口利きで一緒に行うことになったのだ。彼は4月から社会人である。会社員になったら、今のように自由に会えなくなる。二人共そう思ったのだ。

(当時の西友はこんな感じであった)

 彼は4年間、実に立派だった。お兄さんに学費を出してもらっていたが、生活費と住居費は自分で稼いでいた。4年間で卒業しなければいけなかった。

 彼から告白された。卒業するにあたり、彼の家族(母と兄)がすでに入っている宗教団体に自分も入ると決めた、と。入信である。最近はその宗派の人と交流が生活の中心をなしているとも話した。

 人の進む道はみな違う。最近、私と彼との間にはなんとなく微妙な風が吹いていた。別れの時が来たのだ。喧嘩して別れるのではない。人は互いの共通する部分で付き合えばいいのだ。

 

 大学での友では、昨年ど同じクラスだったKH君が鎌倉へ引っ越した。小林秀雄を尊敬していたのでその地に住みたかったらしい。ただ、彼は倫理学を専攻したのだが、超自然的なことを言い出すようになり、私や彼の友であるAT君から離れていった。AT君はさびしくなったらしい。私やS君とひんぱんに交流するようになった。なお、AT君は美学を専攻した。

 

 同じアパートのIHさんも去ることになった。恋人と結婚し、新丸子のアパートに移るという。成田の国際空港が開港したら異動願いを出すそうだ。その場合、離京し、土浦から通うという。将来の夢は、土浦でレストランを開きたいとも語った。

(完成した頃の成田国際空港)

 SOさんに引き続き、IHさんもいなくなる。さびしいが、仕方がない。IHさん、2年間お世話になりました。

 

 3月に入ると、塾でのバイトが週3回になった。教える面白さを見い出していたので快諾した。私は後期試験終了後、バイトの時間以外は、映画を見たり、本を読んだりして気ままにすごしていた。

 ある日、私は歩いて10分くらいの所にある碑文谷公園に行った。

 ここにはアパートが一緒だったSOさんやIHさん、大学の友のS君やKH君とよく来た。同郷のG君やK君を連れて来たこともある。ピンポンをやったり、花を眺めたり、池の周りを散歩したりした。

 

(桜が咲いた頃の碑文谷公園)

 私は桜を見上げながら考えた。

 SOさん、IHさん、S君はこの地を去った。K君は社会人になろうとしている。みんなそれぞれの道に旅立った。K君のように現役で入学し、順調に進級していたら今春卒業したはずだ。一体自分は何をしているんだろう。

 近々22歳の誕生日がやって来る。自分だけ取り残されたような気がした。

 そういえば、成績表が実家に届く頃である。正月に帰省した時、今年は落第しないでしょうねと念を押された。両親とも私の進級を心配していた。

 4年前は入試に落ち、3年前は受かったが、2年前の春は落第した。昨年は進級延期だ。誕生日の月だというのに、3月は浮沈が激しい。いつの間にかこの月が嫌いになっていた。

 私はある科目が気がかりだった。その単位を落としたら・・・。

 

                   ――― 終り ―――