夏休みが終わり、9月に新学期が始まった。悪友のYが私の部屋に泊りに来た。彼はA派に入ると宣言し、一緒に入らないかと誘われたが、断った。彼と論争になり、気まずい雰囲気のまま翌朝別れた。

 

 ここでYについて語ろう。Yとの交遊は7年目を迎えていた。中学時代はYの後についていく関係だったが、高校に入ると対等になった。私の体格がYを勝り、知力でも追いついたからだろう。

 Yには直情径行的なところが多分にあった。いい方向に働くときもあれば、悪い方向に働く場合もあった。その意味で毀誉褒貶は免れない。彼にまつわる武勇伝はたくさんあるが、いい方に働いた例を紹介しよう。

 Yと私が級友であった中3の時である。理科の教師は授業中ある特定の子(5名。そのうち男子は1人だけ)しか指さなかった。一種のひいきである。Yや私も勉強が出来る集団に属していたが、素行が悪かったので、無視され組に入っていた。積極的なYは人一倍不満を持った。

 そのため生徒たちは挙手しなくなり、クラスの大半がその教師を嫌いになった。 

 ある日の授業の時、いきなりYが立ち上がった。近くの席の私はびっくりした。

「N(教師の名前)!」

 Yは先生を呼び捨てにした。

「お前は先生失格だ。特定の者しか指さないじゃないか! これはひいきだ! そんなことでいいのか!」

 Yは片方の手で教師を指差し、もう片方の手を腰に当てて叫んだ。

 先生は呆気にとられた表情をした。Yは教壇に進み、なおも繰り返した。あわてた教師は怒りに燃えたが、Yを殴ることとはしなかった。その代わりにこう言った。

「職員室へ来い! ここじゃ話が出来ない!」

「ああ、どこにでも行くぞ!」

 二人はこうして出て行った。私を含め級友たちは目を丸くした。大騒ぎになった。ただ、正当性がYにあることは自明だったので快哉を叫び、Yの勇気を讃えた。ひいきされている生徒たちだけが罰の悪そうな顔をした。

 あの時代の田舎で先生は絶対的な権威である。先生に逆らった話を家でしたら、父親から大目玉をくらう時代だった。そういう状況の中でYは正義のために立ち上がったのである。

  (1966年の西那須野中学校。大半が木造校舎で、体育館もなかった。代わりに講堂があった)

 

 この頃からである、Sからの電話攻勢が再び始まったのは。夏休み前は1週間に1、2回程度だったが、ほぼ毎日かけて来るようになった。

 「Yは我々の仲間になった」とSはYの名を出して来た。「彼は今アジトで一緒に暮らしている。君も俺たちと戦おう」

 しかし私は断った。第一に彼らの理想、すなわち共産主義が果たして人類を救う思想であるかははなはだ疑問だった。次に、暴力革命という手段にもついていけなかった。暴力で政権を転覆させるやり方は民主主義に反し、なんとも非現実的である。こんなことは高校生だって分かるではないか。それをまともに信じている彼らのカルト性が異常に思えた。また、彼らはやたらに「せん滅」「鉄槌をくだせ」「粉砕」という人間性に反する言葉を用いる。これも私は嫌いだった。

 彼らがしつこくかけてくれば来るほど、彼らの欠点が鼻についた。

「電話をしないでくれ」と私が何度お願いしても、彼は無視し、翌日かけて来る。大家のおばさんは露骨に嫌な顔をし出した。

「じろやんさん、あなた、学生運動をやっているんじゃないの」

 彼女がもう私を好いてなかったのは明らかだった。他の学生に対しては親切にふるまったが、私に対しては冷たい態度を示した。

               (当時の家庭電話。ダイヤル式で、黒色をしていた)

 

 私は引っ越したくなった。が、お金がなかった。夏休みに貯めたお金は旅行代、本代、映画代、交際費などにほぼ消えていた。

 私は家から月2万5千円を仕送りしてもらっていた。部屋代として8千円を払い、残りは食事代などの生活費に充てていたが、この金額では飲み代などの交際費を捻出出来なかった。3万円くらいないと生み出せなかった。「遊ぶ金は自分でまかなえ」というのが父の方針なのでこの費用はアルバイトで稼ぐ以外になかった。

 そのため引っ越し費用も出してくれるはずがなかった。父に訳を話して要求したら、彼は激怒すること間違いなく、仕送りさえ停止されるかもしれなかった。ゆえに自分で作る以外になかった。その費用は4、5万くらいかかり、私にとっては大金だった。したがって今すぐの引っ越しは無理なので、長期的なバイトを行って貯め、年度末にでも移る以外に選択肢はなかった。 

 そのため10月に入ると私はすぐにバイトを始めた。場所は渋谷センター街の「三平食堂」。本店は新宿にあり、安くて有名な店だった。内容は皿洗い。毎夜5時から10時までの5時間、夕飯付き。時給は200円だったと思われる。

 (現在の渋谷センター街。三平食堂は「三平酒寮」と名を変え、今もある。当時の渋谷は今ほど混みあっていなかった。当時の若者文化の中心地は新宿だった)

 

 だが、電話攻勢とおばさんとの関係は私の心をむしばんだ。精神状態が不安定になり、電話に対して恐怖心を抱くようになった。おばさんの顔は見るのも嫌になった。

 学校に行ったら、A派に見つかるのではないかという心配も不安定に拍車をかけた。

 私は授業に出なくなり、部屋で本を読んだり、ラジオに耳を傾ける日が多くなった。

 中旬頃、なぜかSからの電話がパタリと止んだ。おばさんがSからの電話を拒否することにしたことも関係したのかもしれない。

 私は一安心出来たが、今度はドイツ語の授業に対する不安が持ち上がって来た。村田先生のドイツ語の授業は厳しく、予習復習をさぼったために夏休みの間にすっかり分からなくなっていた。そこへA派の電話攻勢で心が不安定になっていた私は、9月末に実施されたドイツ語の前期試験を放棄した。それが尾を引き、後期に入ってもドイツ語の授業を休み出した。

 このことが強迫観念になり、私を苦しめた。普通の精神状態だったら私はここで踏ん張ることが出来たと思う。ところが、そうは行かなかった。私は逃げた。

 先生の授業の単位を落とすという事は、即刻留年である。文学部は語学に厳しく、英語とドイツ語(それぞれ2つあった)の単位を1つでも落としたら、なんと留年なのである。級友の年上のK君やSS君もこれで失敗した。

 それだけ当時の慶応大学文学部は外国語を重視していた。だから、普通入試の評点が100点だった時代に外国語の評点を2教科分の200点にして質量豊かな試験を受験生に課していた。まじめに外国語を勉強し続ければ、卒業時にはかなり習得するはずだった。

 このままいったらたぶん留年だろう。その考えが私をさらに悲観的にし、他の授業も受けなくなり、11月になってから全く学校に行かなくなった。暗闇を彷徨っているような気持ちになり、10月と11月の2か月間、私の精神状態は最悪と化した。

       (日吉キャンパスのイチョウ並木。この素晴らしい景観を味わう余裕がなかった)

 

 その苦しみから逃れるように私はバイトに励んだ。バイトは皿洗いの肉体労働だったが、体を動かすという単純作業が私の精神の平衡を取り戻してくれた。そのお金で本を買い、映画を見、展覧会に足を運べた。授業からの糧は取れなかったが、良書や芸術作品から栄養を摂取出来た。ドストエフスキーに救われ、バッハに癒された。芸術の力は実に偉大である。

 

(読むのは大変だったが、主人公の言葉に共感した)

(管弦楽組曲第2番。始めて聞いた時、電流が走るような感動を味わった)

 

 また、ご無沙汰していた友人と交遊した。私は苦しくなると友の元に行き、酒を飲んだり、おしゃべりをしたりした。ただ、自分の内面の辛さを彼らに打ち明けられなかった。結局最後までかかえこんだ。

 郷里の友人では、以前のブログで話したG君、K君、それとKH君に時々会った。3人共高校時代の友人である。

 G君は当時京成線のお花茶屋に移っていた。そこで新聞配達を行っていた。私より経済的に余裕があったのでよく夕食をおごってくれた。

(当時のお花茶屋駅。公害がひどい時代だったので、界隈の路地が汚かった)

 

 K君は当時高円寺にお兄さんと住み、バイトをしながら法政大学に通っていた。家庭環境により彼はある宗教団体に入っていたが、私に勧めることはなかった。私とウマが合ったので付き合いが続いていた。

 KH君は大手中華料理店でバイトをしながら、芸大を目指していた。画家になることを夢見ていた。彼も家が裕福ではないので自活しながら絵の勉強をせざるを得なかった。以前のバイト先で知り合った年上の友人と共同生活をしていた。

 大学の級友では、KA君とS君との交流が続いていた。2人共文学が好きだった。このことが私を彼らと結びつけていた。

 KA君は私より2歳年上である。生活費を稼いで通学している彼に私は兄事するような気持ちで接した。当時横浜の白楽に住んで、横浜駅にある弁当販売店でバイトをしていた。彼は自分が都会で経験したことを私に語ってくれた。また、酒もおごってくれた。彼の話はためになることが大きかった。彼は椎名麟三など戦後文学派をひいきにしていた。

 S君ともウマが合った。彼は芸術や哲学全般に造詣が深く、話していて学ぶことが多かった。親分肌の所があり、川越にある彼の家によく招待された。手料理でもてなしてくれたお母さんにはずいぶんお世話になった。彼の部屋には各分野の蔵書が並び、クラッシクのレコードもけっこうあった。好きなバッハをよく聞かせてくれた。

(川越駅西口の駅舎。80年代頃の写真だろうか。71年当時、背景に写っているビルはなかった。ただし、今この駅舎はない)

 

 集会で知り合ったYYとは1学期は付き合ったが、2学期になって疎遠になった。彼がA派の考えにまだ惹かれていたからである。ただ、彼からKさんがA派に入ったことを聞かされ、彼女への片思いを諦められなかった私はやはりショックを受けた。

 哲学研究会からは足が遠のいたのでメンバーとの交遊は途絶えた。

 

 12月を迎えた時、もう留年は間違いないと思うようになった。そうすると少し気持ちが楽になって来た。

 皿洗いのバイトは11月末で辞め、12月中旬から時給が少し高い甘栗販売のバイトに移った。場所は井の頭線渋谷駅の1階にあり、ガード下の通りに面していた。私はこれでバイトは3つ続けて渋谷駅付近で行った。とにかく金を貯めたかった。このアパートを出、今度は電話の取次ぎのないアパートに移ろう。そして心機一転してがんばろうと思った。

 

(80年代の頃の写真か。当時の甘栗店はもうなかった)

 

 この店舗の広さは六畳ほどで、店の中で実際に甘栗を機械で作っていた。販売の仕事だけでなく出来上がった栗を新宿駅構内の販売店に運ぶ仕事も命じられた。栗を入れる器は、小学校の運動会の玉入れで使われる大きさほどの籠である。栗から湯気が立ち、甘い香りを放ったので乗客(山手線)の視線を浴びた。

(かくはん機に入っている小石に栗と蜜を混ぜて作った。店内には甘い香りが始終漂っていた)

 

 大晦日まで働き、年が明けた元日(1972年〔昭47〕)に帰省した。実家には三が日だけ滞在した。

(烏ヶ森という高台で姉が撮った写真。顔つきがその頃の心理状態を如実に表している)

 

 1月の中旬から下旬にかけて後期試験が行われた。私は受けなかった。留年は間違いないのだから気が晴れてもよさそうなのだが、気が小さい私の場合そうは行かなかった。日中悶々とし、それを紛らわすために読書したりラジオを聴いたりしたが、心は晴れなかった。それゆえ夕方からのバイトが待ち遠しかった。働いている時だけ試験のことを考えないで済んだからである。

 しかし人間の心は不思議なもので試験期間が終わると、すっきりした。また金がたまったのでバイトを辞めた。時間的にも経済的にも出来た余裕を読書や映画鑑賞に充てた。

 2月に入ると、A派のTから電話が掛かって来た。A派からの電話は久しぶりだった。Sの声はおばさんに知られ、彼がかけると切られるので、Tがかけて来たのだと私は想像した。 Tとは1学期に2度ほど話したことがあった。A派の慶応支部の幹部らしかった。Sと同じ年齢で、慶応高校の出身者だった。父親は大企業の役員らしい。小さい頃母親に無理やりバイオリンを習わせられ、それが嫌だったと語っていた。

「今、Kと渋谷の○○にいる。来ないか」

 〇〇とは喫茶店の名前である。KとはKさんのことである。Kさんの名前は私の胸にこたえた。彼女とは6月にキャンパスで言葉を交わして以来会ってない。私は行くことにした。

 Tは背広姿だった。元々痩身で髪を七三に分けた彼は「慶応ボーイ」の形容が当てはまりそうな容姿をしている。

 なんと4か月間鑑別所に入っていたと語ったので私は驚いた。

「一緒に運動をやろうじゃないか」

 彼は私にA派に入るよう説得して来た。いつも元気なKさんは、上司のTの前では大人しかった。うなずいてばかりいた。Yもアジトにいるという。元気で活動しているとも話した。

 しかし私は断った。話は平行線のまま終わった。

 今回もいつものようにコーヒー代を払わせられた。そのうえカンパも要求された。「僕は金持ち学生じゃないんです。このカンパが最後です」と言って千円札を一枚渡した。手切れ金のつもりで渡したのだが、帰途の電車の中で、(俺はどうしてこんなに弱いんだろう)とカンパを断れなかった自分に嫌悪感を抱いた。それよりも、完全にA派に入ってしまったKさんとに距離を感じ、さびしさがこみ上げて来た。

 それからしばらくして大家のおばさんから契約期間が切れる3月いっぱいで出て行ってくださいと言われた。

 

 3月に入った。いつ頃だったか忘れたが、家から電話があった。受話器を受け取ると母の声がした。

「成績表が届いた。あんた、落第だよ。お父ちゃんがかんかんに怒っている。今後のことを話し合いたいとさ。至急帰って来な!」

 涙声である。

 私は次の日、帰省した。父は私の顔を見るなり、怒鳴り出した。

「大学に何しに行ってるんだ。遊ばせるために金を出してるんじゃねえぞ! もう仕送りしねえからな!」

 父は私が遊んでいたため留年したと思ったらしい。私に言わせれば、悩み苦しんだ結果留年した。だが、学生運動に起因するその苦悩を両親には話せなかった。

 それよりもすぐ瞬間湯沸かし器のように怒り出した父の態度に私も逆上した。売り言葉に買い言葉を投げつけた。

「かまわねえよ! 俺の人生は俺が決める!」

 そう言って家を飛び出した。上野行きの上り電車まで時間があったので西那須野駅の待合室に座っていたが、興奮は収まらず、父への憎悪が頭の中で逆流していた。

 (俺の人生、この先、どうなるんだろう。まず上京したら、引っ越しだ。仕送りをしてくれないならバイトをするだけだ)

 私は自分に言い聞かせた。思えば、2年前にも代々木駅で父と喧嘩した。そのことが脳裏をかすめた。

 その時、待合室にどたどたという音をたてて人が入って来た。父だった。彼も興奮していた。私の顔を見るなり、黙って私の手に1万円札を2枚渡すと、とんぼ返りで出て行った。感情がもつれたまま別れてしまったので父なりに心配したのかもしれない。

  

(当時の西那須野駅。今はない)

 

 アパートに戻ると、翌日から部屋探しを始めた。条件の第一は呼び出し電話がないアパートだった。次に日が当たること。日光が全く当たらない部屋に一日中いると落ち込みやすくなる。それは浪人時代から2軒連続して北向きの部屋に暮らしたことから学んだことだった。最後に部屋代は1万円以下。何しろ予算がないのでそれ以上の条件を探すことは出来なかった。

 私は日吉に通いやすいように東横線沿線に的を絞った。学芸大学駅界隈が暮らしやすそうだったので駅前(東口)にある不動産屋に駆け込み、条件を話した。すると親切な従業員は、家賃9千円、駅から5分(住所は目黒区鷹番)、4畳半、東向き、ガス台なし、共同便所、共同玄関、築数十年、2階、敷金2か月、礼金1か月の木造アパートを紹介してくれた。そのうえ大家さんは別な場所に住んでいるという。アパートの名前は泉荘と言った。

(学芸大学駅東口商店街:90年代の頃か。私が世話になった不動産屋が右に写っている)

 

 従業員とその部屋に行ってみると、部屋に午前の光が差し込んでいた。古いおんぼろアパートだが、私の条件を満たしている。ぜいたくは言えない。その場で契約した。

 3月下旬、私は近所の運送屋さんにトラックを頼んだ。引っ越しの手伝いを級友のS君がしてくれた。彼は幼馴染で、二浪して早稲田の法学部に合格したばかりのI君を連れて来た。荷物は勉強机、小さなタンス、布団や衣類を押し込めた布団袋、本が詰まった段ボール箱が数個だけだった。私たち3人はトラックの荷台に乗り込んだ。当時はそこに乗ってもつかまらなかった。その日は晴天で、暖かかった。さわやかな風に私たちの髪がなびいた。3人でおしゃべりに興じた。

 トラックは杉並から目黒に南下して行った。私の心は希望に満ち溢れた。新しい住まいでやり直しだ。4月から初心に帰ってがんばるぞ。そう心に誓った。

 

                              ――― 終 り ―――