これまで中学時代から浪人時代までの文学・音楽・映画・旅行を通して過去を振り返った。今回から大学時代である。私の青春はここから始まると言えよう。ただ、私は人に較べ、社会に出るのが遅かった。大学を卒業してからフリーターをしながら教員の資格を取ろうとしていた。したがって私の場合、青春はその時期も含まれる。
その時期の出来事を「青春グラフィティ」名付けて紹介したい。文学・音楽・映画・旅行の思い出は別個に後で語ろう。
なお、これらは青春回顧シリーズとしてひとくくりする。題名の最後に「青春回顧」を入れることにした。
私は、1971年(昭46)の春、一浪して慶応大学文学部に入学した。ただ、私の心は晴れなかった。過度の受験勉強による疲れがとれなかったうえ、憧れていた早稲田大学文学部に落ちたことが心残りになっていた。
私は浪人時代に一度早稲田のキャンパスを訪れたことがある。当時は学帽をかぶっている者もいて校風がキャンパスに漂っていた。学生たちの熱気も感じられた。井伏鱒二、五木寛之、野坂昭如など早稲田出身の作家たちの作品をかじっていた私は、ここの空気は私に合っていると思った。成績が向上したなら、この学校に入りたいと思った。
しかし、その願いは夢のままで終わってしまった。
そのような気持ちを引きずっていた私の目に慶応の日吉キャンパスの景色はまぶしすぎた。慶応の雰囲気が都会的だったことも関係しているだろう。早稲田と異なり、出身者の大半は東京・神奈川など首都圏の学生で占められており、付属高校の出身者もけっこう見られた。
春爛漫の並木を、最近流行している長髪の大学生、日焼けした体育会風の学生、センスのよい服装を着こなした女子学生たちが闊歩していた。彼らのようなあか抜けた若者は私の田舎ではお目にかかれなかった。
(イメージ写真)
キャンパス内にある慶応高校の学生が大学生に混じって学生食堂を利用している現実にも驚いた。その一つの「梅寿司」で昼食に寿司を食べている姿を始めて見た時、私のような貧乏学生は信じられなか
った。それだけ経済的に豊かな学生が慶応には多かったのである。
「慶応ボーイ」という言葉があるが、この言葉に当てはまる学生がいた。
私は場違いの大学に入ってしまったかと少し後悔したが、そのうち慶応にも私のような学生、すなわち地方出身者で、経済的に豊かでない者もけっこういることを知った。
当時のキャンパスには終戦後米軍に占領された建物の一部が残っていた。カマボコの形をしたトタンの家で、生協の店になっていた。
この慶応大学文学部には、なんと私の中学時代からの悪友かつ親友のYも入学した。この事実は奇縁というのか悪縁と評されるのか、彼との交遊が大学でも続いたのである。
私は、自分で言うのも変だが、きっすいの文学少年、読書少年であったが、Yはちょっと違った。外交的で行動力に恵まれていたこともあり、一時政治家を志していたのだが、高1の時に病気で留年したり、文学青年の兄貴(当時小さな出版社に勤めていた)の影響をもろに受けたりした結果、文学部志望に変わったのである。
おまけに私と彼は受験した大学と学部(早慶、立教の文学部)が同じであり、当落した大学も同じであった。二人共、早稲田を落ちたので慶応に来たのである。
そればかりではない。Yの高校時代の同級生のMTも同じだった。三人共雁首そろえて日吉のキャンパスに立ったのである。彼は三島由紀夫に心酔していた文学少年だが、一度Yに紹介されただけで、付き合いはない。彼は卒業後、某出版社に入った。
さらに、高3の時の同級生のYHも一浪して慶応文学部に入った。彼と偶然会った時、互いに驚いた。ただ、彼との交遊もない。彼は卒業後、某テレビ局のディレクターになった。
こうしてその年、田舎の進学校である大田原高校から慶応文学部に4人(現役2、浪人2)が入った。珍しかったらしい。
私は第二外国語にドイツ語を選んだ。そのクラスには約30人くらいおり、女子学生が三分の一くらいいた。
彼女たちはほとんど現役組だったが、男子学生には私のような一浪が多かった。
もっと特長的なことは、留年した者が多かったことである。10名くらいいたと思う。二浪や三浪の者もおり、その上留年したのだからおじさんくさかった。女子も一人混じっていた。彼女は内部進学(慶応女子高出身)なので、一浪の私と年齢が同じだった。
どうして落第したのだろう。話を聞いてみたところ、大半が語学の単位を落としたかららしい。いい加減な勉強をしていると進級しないんだなあと思った。同時に、授業に出ようがさぼろうが責任は全て自分にある。すなわち自由なのが大学であることを教えられた。
このクラスのメンバーが慶応には珍しく、地方出身者が半数以上を占めていた。服装が地味で、言葉になまりがあり、言動や行動に首都圏出身者のスマートさが見られなかった。当時は今と違い、首都圏と地方との隔たりが大きかった。地方の公立進学校には男女別学が多かったことも関係してよう。
私は、彼らと話がしやすかった。何人かの男子学生とは友達になり、その関係は、途中で途切れたこともあるが今でも続いている。
その一人が埼玉県の川越高校の出身S君で、文学部の学生にしては、押しが強く、行動力があった。そのせいかクラスでも目立った。
続いてSS君で、彼は三浪のうえ留年したから、私より3つ上だった。彼はSとも親友になった。
3人目は北海道美唄出身のKA君である。彼は二浪かつ留年組である。家が裕福でないために、アルバイトで生計を立てながら通学していた。
それは最初の授業の日のことであった。授業が始まる前だか、後だか忘れてしまったが、学生運動のA派のメンバーが数人入って来た。沖縄返還、安保条約、ベトナム戦争についてクラス討論会を開こうと演説した。彼らは当時の日吉の自治会を牛耳り、キャンパスで大手を振っていた。私のような新入生は呆気にとられたが、留年組は辟易した表情を示した。
現代の若者から見れば、当時の様子は信じられないだろうが、大学の多くでは学生運動(60年代の全共闘運動の名残)が盛んで、キャンパスには立看(たてかん:看板を意味するスラング)が乱立し、毎日幾つかのセクトがメガホンでアジ演説をしていた。
慶応の日吉キャンパスも、早稲田、法政、明治、東大ほどではないが、けっこう盛んに行われていた。
(イメージ写真)
当時は政治に対する学生の意識が高かった。クラス討論会が開かれたし、キャンパスのいたる所で討論の輪が出来た。左右両派の学生団体、新旧の団体、宗教系の団体もそれぞれの演説を行った。友達同士の間でも喫茶店や酒場で論じる姿が多く見られた。
私は入学したら、文学や哲学を学びたかったので、それに関する科目を履修した。
慶応の文学部は1年生の時だけ教養課程を学び、2年生からは専門課程に入る。すなわち文学コースや哲学コースや史学コースを選択する。人気のある英文科や仏文科は成績がよくないと進めないという話だった。
そのせいか、第一外国語の英語と第二外国語のドイツ語の授業はきびしかった。どちらの単位も落とすと進級出来なかった。留年者の大半もこれによる。中には2年連続落としたために放校になった者もいるという ドイツ語の村田碩男先生や高橋義人先生、英語の小田卓爾先生の姿が今ではなつかしい。、
教養課程なので一般教科も履修しなければならなかった。その中には理数系の教科や体育系の科目も含まれている。数学が全くできないので私は生物を履修した。
体育の授業は週1回くらい、日吉の運動場や体育館で行われた。夏には水泳の授業もあった。体を動かす機会がなかった私にとって体育の授業は面白かった。水泳の授業は日吉のプールで行われたが、これだけは男女に分かれて実施された。
ただ、いずれの教科も出欠はうるさかった。欠席は成績に反映された。これらを落として留年した者もいた。
それ以外の教養科目は自由に受講出来るので、私は文学や哲学系の講義を履修した。
倫理学の大谷愛人先生の授業は今でも覚えている。
サークルに関して言えば、私は哲学研究会に入った。高校時代、私は大学に入ったらヘルマン・ヘッセを研究しようと思ったが、その後様々な外国文学を読んでいくうちにヘッセへの熱が冷めてしまった。もっと深く人間を探求しようと思ってこの研究会を選んだ。
入る際に級友のSを誘った。
あれはゴールデン・ウイークの頃だろうか、合宿が三田にあるお寺で開かれた。そこで10名ほどの新入生と知り合った。その中で経済学部のOH君、医学部のMY君、法学部のTT君、文学部のNM君とはその後交遊することになった。
ただ、私は次第にこの団体から遠のいた。
同時に私は政治にも関心があった。高校時代に学校改革運動に携わり、高校時代の友達の影響を受けたりしたからである。自分なりにマルクス主義などの政治思想を学んでみようという気持ちも持っていた。
どちらかと言えば、共産党や社会党などの既成左翼より、学生が主体の新左翼に共感していた。
中学時代からの悪友で私と一緒に慶応の文学部に入ったYも同じである。私とYは誘い合ってキャンパスを支配しているA派の集会を覗いてみた。
そこには多くの新入生が参加しており、フランス語を取っているYのクラスからは数名が参加していた。横浜出身の女子学生のKさんもその一人だった。彼女も一浪して入ったので私と同年齢である。明るく、活発な彼女に私は好感を抱いた。
そこで新潟県出身のYYとも知り合った。YYは二浪していた。
新入生のほとんどは私のような一般学生で、A派の主張に賛同していたとは限らない。A派の連中とはよく討論した。
5月に入ってから、明治公園で全共闘主催の「沖縄ゼネスト支援集会」が開かれた。慶応大学からもA派が主体になって参加した。上記の新入生はほぼ加わった。
集会が終わり、デモ行進が始まる前にヘルメットが配られた。ヘルメットにはA派の文字は入ってなかった。嫌な気がしたが、一人だけかぶらない訳にはいかない。我々一般学生の左右には担当係のSなどがいた。デモ行進が始まった時はただ歩いて行進していたが、これからジグザグデモになるので、隊列を組むという。前列の人の胴に手を当て、離さないようにという指示を与えられた。なんと私の前はKさんだった。私の手にKさんの体のぬくもりが感じられた彼女への思いが募って来た。
(イメージ写真)
ジグザグデモは左右に機動隊が並列している間を進む時に行われた。大きな体格の完全武装した機動隊員が盾をを手にしてずらっと立っている。担当係の笛の合図で、「沖縄返還! 戦争反対!」と声を上げながら前かがみの姿勢で蛇行を繰り返した。当然、機動隊員の盾に接するようになる。隊員の盾に当たるようになったら、下手すると警棒でたたかれる可能性がある。私はデモをしながら嫌気がさした。
これは後で気づいたのだが、セクトの連中は、わざと一般学生を機動隊員に当たらせ、機動隊から警棒で殴られる経験を味わわせ、機動隊への憎しみを抱かせるように仕組んだのである。
それからである。私のアパート(入学後、私は井の頭線の富士見が丘駅と高井戸駅の中間にあるアパートに移り、三畳の部屋を借りていた。隣に大家さんの家があり、電話での呼び出しが可能だった)にA派
のSから電話がかかって来るようになった。Sは2つ年上の都立新宿高校出身者で、新入生担当の係らしかった。彼からアパートの電話番号を教えてくれと言われたので、私は気軽な気持ちで教えた。それが後で取返しのつかない失敗になるとはその時は夢にも思わなかった。私ばかりでなく、ほとんどの新入生がA派に自宅や下宿の電話番号を教えていた。
(富士見ヶ丘駅:井之頭線にしては珍しく地下通路があった)
彼は決まって、「今、渋谷駅近くの〇〇喫茶店にいる。会って話をしないか」と言った。彼の応対は親切で、高所からA派の論理を押し付けようとはせず、私の質問にも丁寧に答えてくれた。性格も明るく、親しみやすさがあった。だから最初私は応じた。話をしても楽しかった。ただ、金がないのでコーヒー代をおごってくれないかという。私は嫌だったが、支払った。というのは私は貧乏学生である。家からの仕送りは2万5千円で、生活はぎりぎりだった。交際費に窮しているのでアルバイトを始めようと考えていたくらいである。
ところが、彼は2、3日置きに電話をかけて来た。私が断ると、しつこくねばられた。そんな私を下宿のおばさんは不審がった。根負けして私は出かけた。
ある時出掛けた時に、好意を抱いていたKさんがいたので驚いた。彼女もオルグを受けていたのだ。彼女の気持ちはA派に傾いていった印象を受けた。
私は彼に、「もう電話をしないでくれ」と言ったが、彼は聞かなかった。また、かけて来るのである。
これも後日気づいたのだが、A派のような政治セクトや偏った考えの宗教団体は、何も分からぬ世間知らずの地方出身者を巧みに勧誘するのが彼らのやり口だった。
その一方、私は現在の政治情勢に対する怒りは持ち合わせていた。だから6月に開かれた「沖縄調印阻止デモ」にYやYY君と共に参加した。これに行けばKさんに会えるのではないかという下心も働いていた。
しかし、またもやA派は一般学生にジグザグデモをやらせた。デモが終わった時、私はA派について行けないと考えた。彼らのやり方は間違っている。もう彼らのデモには加わらないと誓った。
自分の政治的なスタンス。A派のしつこい勧誘。下宿のおばさんの不審。それらで私は苦しんだ。
その頃の悩みを、日記に綴った。
(この日記があるので当時のことを詳しく書ける)
私は、高校時代の親友で、新聞店で働きながら、革命を夢見ているG君に相談した。彼は学生運動の新左翼に批判的だった。実際に労働をしていない。観念で動いている。そう断じた。「主体性を持って生きないと流されるぞ」と私は批判された。
その頃、高野悦子の『二十歳の原点』が出版され、瞬く間にベストセラーになった。私は仰天した。私は高1の時、彼女の弟と彼女の家でエレキバンドをやっていた。彼女は帰省していた時、よく差し入れをしてくれた。そんな彼女に私のバンド仲間は憧れた。だから私が高3の時に彼女が自殺したニュースはみんなを驚かした。その頃、バンド仲間も高校改革運動に加わっており、彼女の死は私たちの行動に油を注いだ。
本を開くと、私たちがバンドをやったり改革運動にまい進したりしている時、彼女が学生運動や恋などに悩んでいることを知った。彼女はこんなに悩んでいたのだ。この事実は私に衝撃を与えた。彼女の悩みは私の悩みと同じではないか。いや、当時の多くの大学生が彼女と同じ悩みを抱いていたのではないか。高野悦子は多くの大学生の悩みを代弁してくれたのだ。私はそう思った。
6月下旬に明治公園で大規模な集会が開かれた。私はA派には加わらなかったが、その集会を見に行った。街頭でA派やその他のセクトが暴れ出した。機動隊は催涙弾で応じる。火炎瓶が破裂する。石が飛び交う。見物の群衆までも巻き込み、市街戦のようになった。こういう場面に私は始めて遭遇した。
機動隊の行動にも怒りを覚えたが、A派の行動に対しても幻滅した。私はA派に二度と加わらないと自分なりに総括した。
(イメージ写真)
こうして4月には明るく見えたキャンパスが次第に灰色になり、やがて暗さを増していった。だが、私は人間である。心は様々に変化する。学生運動で悩む私の生活に彩りもあった。
その一つはある女子に対する思慕である。Kさんへの思いと同時に、別の女子にも好意を抱いた。彼女は私の行きつけの食堂(富士見ケ丘駅の近く)でアルバイトをしている子だった。長髪を頭上で分け、背がすらっとしていた。島田陽子に似ていた。ある時、制服姿の彼女を見かけ、高校生であることを知った。私の思いは結局実らなかった。
次にクラスコンパである。7月初旬に始めて開かれた。その結果、級友との仲が一気に縮まった。群馬県前橋女子高出身の子や福島県磐城女子高出身の子とは隣県同士のせいか話が盛り上がった。
夏休みがに入ると、A派からの電話攻勢がピタリと止んだ。
私は級友のS、SS、学生運動の仲間のYY君との4人で新島に海水浴に行った。下田の港で野宿をし、翌朝渡航し、島には4日間ほど滞在した。
(離島ブームが起き、海水浴をするためにたくさんの若者が乗っていた)
この旅行で一番衝撃を受けたのは満天の星のすごさである。怖いくらいであった。自然の偉大さに敬服した。
(イメージ写真)
帰京後、田舎には戻らず東京でアルバイトを始め、8月の末まで働いた。場所は渋谷駅の目の前にある大井果物店。大井ビル(現在の渋谷駅前ビル)の一角にあった。時間は午後1時から夜の10時まで。内容は果物販売。要するに店員である。
(ハチ公の左上にあるビルに「大井」という看板が見える)
ここで忘れらない思い出はやくざ風な男に因縁をつけられたことである。
「なんで俺の目をじろじろ見るんだ」
客のその男から脅かされたが、一緒に働いていた正社員のDさんが謝って事なきを得た。
Dさんはユニークな経歴の持ち主だった。川越の高校を卒業後銀行に勤めたが、演劇の夢が忘れられず、辞めて小さな劇団に入った。しかし食っていけない現実に目覚めたのか、役者に向いていなかったのか、退団して大井で働いていた。ここでお金を貯めてアメリカに行くのだそうだ。自分を探しに行くのだと言う。20代後半の方だった。
その他五人の店員がおり、その一人に早大商学部卒のNさんがいた。30代後半の独身の方で、杉並の持ち家にお母さんと二人で住んでいた。私が慶応だということで優しくしてくれた。それで私は一度彼の家に遊びに行った。お母さんが出前のお寿司を取ってくれた。
「どうして早稲田を出ているのに果物屋で店員をしているのですか」
「人生はいろいろあるんだよ。そのうち君も分かるよ」
彼はやんわりと言葉をかわした。今思えば不謹慎な質問をしたことを後悔している。
私はこの店でいろいろな社会勉強をした。
※ 続く。