題名に「浪人」という言葉を入れたが、最近この言葉はあまり聞かれない。「予備校生」という言葉に取って代わられたようだ。だが、半世紀前は「浪人」という言葉の方が普通だった。一年浪人して大学に入った者は「一浪」、2年の場合は「二浪」という風に呼ばれた。したがって、当時の雰囲気をだすためにこの言葉を使う。


 下宿部屋という一人だけの空間を得た私は、水を得た魚のように受験勉強にまい進した。

 当時はAO入試はない。机上で学んだ勉強を試すだけの一発入試である。

  勉強は、私立文系コースなので、国語、英語、世界史Bの3教科だけである。ただ、どの教科も広く、深い。そこが国立大学の内容と違うだろう。

 国語は、現代国語・古文・漢文の3つである。現代国語の中で、論説文などの説明的文章の問題は分かりやすかった。論理の先に答えがあるからである。ところが、小説や短歌や俳句の鑑賞問題はなかなか解けなかった。芸術を味わう感性は人によって違う。出題者の意向にそわなければ間違いになってしまう。読書好きなのに、国語では、現代国語が一番間違えた。

 逆に古文はけっこう出来た。古語の意味をしっかり覚えていればなんとか解けた。現代国語のように裏を読むような問題は出なかった。それゆえ、古語の語彙数を、英単語と同じように、暗記しなければならなかった。

 英語に関しては、まず語彙数を増やさなければ前に進めなかったので、ひたすら自作の単語帳や「赤尾の豆単」を開いた。

「昭和 赤尾の豆単」の画像検索結果

                      (必ず覚えた単語には線を引いた)

 世界史は旺文社で行っているラジオ講座を活用した。当初、西欧に関心が深かった私は西欧史は得意だが、中国の古代史やインド史、中東や南米史は苦手だった。何しろ広いので西欧だけで精一杯だった。 

 これらの勉強は授業の予習と復習を通じて行った。問題集もかなりこなすようにした。問題集や参考書は旺文社のものを使った。

 

 何しろ目覚めている時は勉強のことばかりを考えた。当然、禁欲を自分に課さなければこのような生活は続けられなかった。まるで修行僧である。娯楽はラジオで聴く音楽だけだった。

 したがって浪人時代に映画館に赴いたのは2回だけである。どちらも2本立てだったが、覚えているのは『マッシュ』と『男はつらいよシリーズ』の第1作『男はつらいよ』だけである。それだけこの2本の印象は鮮烈だった。

 

 最初に見たのは『男はつらいよ』の方である。

  私が牛乳店から従兄弟の部屋に引っ越し、しばらく居候していた時、従兄弟の友人のYさんが私を新宿の映画館に連れて行ってくれた。Yさんとは、前年の夏、私が夏期講習のために上京し、従兄弟の部屋から通った時に知り合った。

 Yさんはこの作品が見たかったのだろう。ついでに私を誘ったのだと思われる。あるいは私を励まそうとしたのかもしれない。気落ちしていた私は気分転換のためにその誘いに応じることにした。

 この作品の感想は、以前の記事『映画「男はつらいよ」シリーズの思い出』で述べたので詳細については省略する。とにかく、私は抱腹絶倒、最後は涙で顔が濡れた。終わった時、二番館の館内は拍手が湧きおこった。感動したのは私ばかりではなかったのだ。

 私は以降、このシリーズのファンになり、二番館に降りて来た時、足を運んだ。

 

 1学期終りに最初の全国模試が行われた。結果は、

 立教大学 C     早稲田 D  

 なお、判定の内容はこうである。

 A 合格間違いなし  B 合格の可能性あり  C 合格不合格は断定できない  D 不合格の可能性  E 不合格間違いなし

(イメージ写真:当時の判定表はもっとシンプルで、偏差値はなかったように思う)

 私はがっかりした。試験は甘い物じゃないと思った。ここでくじけてはいけない。勝負は夏だ。夏休みに猛勉強するか、遊びの誘惑に負けるかで決まる。私は自分にそう言い聞かせて夏期講習を受けた。

 その頃は家にエアコンがなかった時代である。冷房は扇風機が普通だった。私の部屋は西日がまともに当たる三畳である。窓が一つのために風通しが悪い。七月になると、夜勉強していても汗がにじんだ。日中はボッーとし、脳が働かなかった。

(イメージ写真:私の部屋はこれより古かった)

 私は家で勉強するのではなく、代ゼミの自習室を利用することにした。そこは冷房が効いていた。私は朝から代ゼミに通い、4コマの講習を受ける以外は自習室にいた。夜も8時くらいまで勉強した。

(イメージ写真:実際はもっと大きい部屋で机は2人掛けだった)

 小田急線を利用し、世田谷代田駅と南新宿駅を毎日往復した。

(当時は自動改札ではなかった)

 このようなスケジュールでは、下宿のまかないを食べられない。もともとまずさに閉口していたので、おばさんに掛け合い、賄いなしをお願いした。おばさんは渋い顔をしたが、認めてくれた。部屋代は1万円に下がった。こうすれば1日をフリーに使える。学習意欲の向上につながった。

 その年の夏は特に暑かった。代ゼミにいても近くの街路樹からセミの鳴き声が聞こえて来た。そういえば、その頃の日本は公害の最盛期を迎え、光化学スモッグの注意報が連日出されていた。

 そんな中、一心不乱、毎日10時間以上勉強した。なにしろ私は中2から学校の勉強をまじめにせず、読書、音楽、映画の趣味ばかりに時間を費やして来た。現実逃避の生活を送って来た。その反動がすごいことをこの浪人中に実感した。要するに基礎学力が付いてないのである。読書では真の学力は身につかない。

 勉強は、当たり前のことだが、日々の積み重ねである。それを毎日休まず長年続けて来なければ頭に入らない。優等生と呼ばれる学生はそれをきちんと続けられた。

 私は学力を取り戻すために、毎日悪戦苦闘を強いられたのだ。

 そんな時、夏期講習のクラスで同級生のB君と出会った。私たちはなつかしがり、談笑した。彼も空いた時間は自習室で勉強するようになった。疲れると、自動販売機で紙コップ入りのコーラを買い、タバコを吸った(私は高3の中頃から喫煙するようになり、浪人中はハイライトを一日半箱くらい吸っていた)。

(右側くらいのサイズだった)

(禁欲生活を強いているのにタバコはやめられなかった)

 同級生と言えば、6月の終わり頃に、C君とも会った。田舎の高校の同じクラスの者が3人代ゼミに通っていたという訳だ。彼に誘われ彼の下宿に行った。小さい台所付きの3畳に住み、自炊生活を送っていた。彼は国会議員の息子である。裕福なので、こんな環境に住まずに済んだが、あえて自分を追い込むために私と同じような環境に身を置いたらしい。

 

 猛勉強に明け暮れた夏は終わった。9月に全国模試が行われた。私は夏の成果が出るのではないかと期待して受けたが、結果はこうだった。

   立教大学 C     早稲田大学 C

 早稲田の判定がDからCに上がったのはうれしかったが、立教の判定は変わらなかった。私は落ち込んでしまった。このままでは気が晴れない。気分転換が必要だと思った矢先、下北沢の二番館で『MASH』が上映されているのを知った。この映画はブラック・ユーモアが効いた喜劇だという。私が好きなニューシネマの系譜に属し、映画ファンの間で世評が高かかった。ちょうどいい。私は思い切って館に入ることにした。

 冒頭のヘリコプターが舞うクレジットのシーンから驚かされた。何しろ音楽がいい。やや哀愁を帯びたメロディと不思議な歌詞は私を引きつけた。自殺を歌った歌詞だが、「自殺するのもしないのも自分で決めろ」と言っている。この言葉に勇気づけられた。悲観するのも元気を出すのも、結局は自分次第だと私は解釈した。

     (大学生になりバイトで懐に余裕が出来た時、このサントラのシングル盤を買った)

  ドナルド・サザーランドとエリオット・グルードの存在感が圧倒的だった。特に私はグルードに引きつけられた。権威に物おじせず、不正を笑い飛ばす姿勢は私を勇気づけた。

 この映画も、『男はつらいよ』同様、喜劇映画といえるが、風刺精神が効いている。それは一言で言えば、反戦思想である。ヒューマニズムの観点からみれば、戦争は、どんな理由があるにせよ、究極的には悪である。人類はそれを避けようと頭では思うのだが、やってしまう。しかし暴走したら地球は破滅してしまうので、そのブレーキの役を芸術作品が担わなければならないのだろう。その意味で喜劇はもってこいの分野である。観客に訴えやすいからである。

 本作は笑いを通して反戦を訴えることに成功した稀有な例である。完成度の高い見事な文明批評作品にまで昇華した。

 

 私は見終わった時、点数に一喜一憂している自分はなんとが小さい人間だろうと思った。そして元気が出て来た。心というのは不思議だ。見る前と見た後で変わってしまった。そのような化学変化を起こすのが真の芸術作品(娯楽も含める)なのだ。

 下北沢から世田谷代田まで歩いて帰った。足取りは軽く、初秋の青空がまぶしかった。大学に合格して、その他のニューシネマの作品が見たいと思った。そのためには目の前の勉強に取り掛からなければならない。再び学習意欲が湧いて来た。

 

 私はこの2つの作品に救われたといえよう。それらは暗い浪人時代に一筋の光を差してくれた。映画監督及び俳優さんやスタッフさん、ありがとう。

 

※この続きは、次号の「我が懐かしき本2・浪人編」で紹介します。