(上記の本は大学時代に買った米川正夫個人全訳の『ドストエフスキー全集』の『罪と罰』である) 

 

 今回から、題に「自伝抄」という言葉を加えた。「我が懐かしきシリーズ」や「思い出シリーズ」は思春期から青春期までを、文学・音楽・映画・旅の観点から回顧するエッセイである。言わば自伝の一部とも言うべき内容なので、「抄」にした。

 

 さて、浪人時代の1年間(1970年4月から71年3月まで)に読んだ本の中で私に衝撃的な影響を与えてくれたのがドストエフスキーの『罪と罰』である。この本については、最後に述べる。

 

 私は勉強に打ち込むために禁欲生活を自分に課した。しかし、どこかでガス抜きをしないと心は破裂してしまう。その手段として選んだのはラジオだった。お金がかからず、手軽に音楽が味わえたからである。  

 しかし、元々活字の好きな私は時々心に渇きを感じた。それは音楽や映画などの娯楽で満たされる種類のものではなかった。頭脳の思考を要求するような渇きで、私の場合、読書でしか満たされなかった。

 牛乳店を辞め、従兄弟のアパートに転がった後、ようやく自分の下宿を見つけた。その喜びから勉強にまい進したが、久し振りに本が読みたくなった。

 その時私が手にしたのは、 スタンダール『パルムの僧院』 ショーペンハウアーの『幸福についてー人生論ー』である。

 高校生の時にスタンダールの『赤と黒』にはまった。彼に興味を抱き、彼の遍歴を調べた。そこで『パルム』に出会ったのである。後で知ったが、作家によっては『赤と黒』より『パルム』の方を好む者もおり、その代表が大岡昇平だった。

 私は『パルム』を一気に読んだ。ストーリー性にたけているので『赤と黒』より読みやすかった。主人公のファブリスは、兵士になったり、僧になったり、殺人を犯したりする点で『赤と黒』のジュリアン・ソレルと似ているが、ファブリスの方が明るく、楽天的な性格のように思われた。ゆえに親近感が抱けた。

 だが、私としては、『赤と黒』の方を買う。こちらの方が奥が深く、読者に考えさせる力を有していると思われるからだ。

 

 『幸福について』は途中で投げ出した。小説は一気に読めるが、思想書はそうはいかない。立ち止まって考えなくてはいけない。『幸福について』の内容は私には難しすぎた。読書に時間を取られると、勉強に焦りを感じてしまう。

 

 その後、私は勉強に打ち込まなければいけないと考え、読書を再び封印した。

 その代わりと言っては変だが、心をいやすために私はつとめて友人や知人と話すようにした。

 私が親しく付き合った友人はG君とK君である。2人共、高校時代からの友で、これまた上京していた。

 G君は私の親友でもあった。彼とは2年の時の同級で、共に映画を見たり、学校改革運動を行ったりした仲だった。

 彼は進学せず、卒業後は千葉県の東金市の零細工場に就職したが、田舎の生活が嫌になり、7月に上京した。五反田駅近くの新聞店に住み込みながら、政治の勉強をしたり、青春を楽しんだりしていた。政治の勉強とは、彼の場合、マルクス主義の研究である。

 私はG君と時々会い、五反田の喫茶店で語ったり、時には夕食を共にしたりした。

 

(当時の五反田駅)

 もう一人のK君も高校時代の学校改革運動のグループで一緒だった。ただ、彼は後から加わった。高校を卒業する頃、親しくなった。当然、彼もG君を知っていた。

 K君は法政大学の経済学部に入学していた。彼は母子家庭なので裕福ではなかった。そのため某新聞の奨学生になり、小平市で新聞配達をしながら通学していた。いわば苦学生である。彼も政治に関心を持っていた。また法政大学は学生運動が盛んだったので、安保反対(70年の安保改正)のデモに一般学生として参加した。私も誘われ、一緒に行進した。

(当時のデモは今のデモよりはるかにすごかった)

 K君の窮状を見かねた腹違いのお兄さんが奨学金を弁済し、彼を高円寺にある自分のアパートに住まわせた。K君はその後、茶販売会社の支店で夕方から夜にかけてのバイトについた。彼は新聞店にいた時朝刊と夕刊を配達していたのでキャンパスライフを謳歌する時間がなかったが、これで昼間の時間を自由に使えるようになった。

 K君とG君はこの時点で自立していた。実に立派だった。親のすねをかじっている私などは彼らの足元にさえ及ばなかった。

 私が仲介して3人でたまに会ったことを覚えている。

 

 次に代ゼミで知り合った人たちを紹介しよう。

 前回の記事で高校の同級生だったB君にふれた。もう一人忘れていた。J君である。彼は中3の時に長野県から私の中学に転向して来た。高校も一緒だったが、高1の時にお父さんの転勤により群馬県の高校に転校することになった。彼は結局私の故郷の町に1年弱しかいなかった。彼と知り合ったのは中3の時に通っていた学習塾で、友人とまではいかない付き合いだった。

 秋の半ばだろう、代ゼミでJ君とばったり出会った。双方が驚き、近況を語り合った。J君はすっかり受験勉強の意欲を失くしていた。そろそろ終盤に入る頃である。今勉強に打ち込まなければ来春の結果は目に見えている。要するに将来何がしたいのか分からず、自分自身を見失っていた。

 「旅に出るのがいいと思う」

 私は高校時代の東北ヒッチハイクや九州鉄道旅の話をした。『青年は荒野をめざす』の話もした。自分を見失った時、旅行が自分を救ってくれたからだ。

 彼は「そうしよう」と言って、私から寝袋を借りた。

 1か月後、彼から連絡があった。真っ黒に日焼けした彼は沖縄や石垣島を旅して来たと言った。自分を見つめ直すのにいい機会だとも言った。感謝された。

 「来年も浪人するよ」

 彼は早々と結論を下した。

 

 母校出身者以外で知り合った者が数名いる。

 前に話したように、私は代ゼミ(私立文系コース)で一番前に座り、無遅刻無欠席の優等生だった。劣等生だった高校時代から見ると信じられないくらいの大変身である。

 大体前に座る学生はまじめであるが、その中にいつもジーンズをはいていた背の高い男子がいた。立川から通っており、文学部を受けるという。私と同じ、早稲田が第1志望だった。東京の人間らしく、スマートな動きを見せた。

 北海道旭川出身の男子とも知り合った。彼は二浪で、慶応の商学部を受けると言う。東上線の大山にある彼の下宿に一度遊びに行ったことがある。自炊をしていたので、簡単な手料理をごちそうになった。

 福島県磐城市出身の男子学生とも知り合った。彼の実家も商売(金物店)をしていたので妙に話があった。一度、彼の下宿(西武池袋線のどこかの駅)に遊びに行ったことがある。彼は中央大学の法学部を目指していた。

 旭川君も磐城君も私同様三畳に住んでいたので、たくさん仕送りを受けていなかった。そんな点も親しくなった理由だろう。

 

 代ゼミと言えば、予備校にまつわる思い出(自習室以外の)がある。

 代ゼミの1階に立ち食いそばのスタンドがあった。値段は忘れたが、駅の立ち食いそばより安かった。そこでよく天ぷらそばやかけそばを食べた。

(イメージ写真)

 また、近くには値段が安い定食屋が何軒かあった。私は下宿のまかないを断ってから、時々夕飯をここで食べることがあった。なにしろ1万5000円で1か月を生活しなければいけないので、いつも頭でお金の計算をしながらメニューを注文した。ここで食べたかつ丼の味が忘れられない。

 (イメージ写真)

 代ゼミには、男子よりは少ないが、それなりの数の女子がいた。その中にはきれいな子もいた。男子と気軽に話すフランクな子もいた。ファッションのセンスがいい子もいた。その多くは首都圏出身者かもしれない。

 私の出身地の栃木県には男女別の公立高校が数多くあった。特に進学校は別学だった。そのせいか高校時代に女の子と話したことがほとんどなかった。そのうえ、私は奥手である。心をときめかせられる子を見かけても近づく勇気はない。さらに、浪人中は勉強優先とし、恋愛をご法度にしていた。

 したがってきれいな女の子を見かけても、ちらっと見るだけだった。男子とは知人になったけれども、女子とは話さえしたことがなかった。

 

 芸能人を見かけたこともある。南新宿駅に向かっていた時、ビルの1階に「Kとブルンネン」が立っていた。彼らは、日本人の男性と外国人の女の子の「ヒデとロザンナ」に対抗して、別のレコード会社が売り出したデュエットだった。ブルンネンはアメリカの女性(20歳くらいか)で、テレビで見てもきれいだが、実際の姿はそれ以上に美しかった。

 

 

 さて、成績の話をしよう。

  10月の半ば頃だったと思う。3回目の全国模試が行われた。

 

 なんと結果は 立教大学 B   早稲田 B

 

 今まで「B」を取ったことがないのに、どちらも「B」。この結果に私は飛び上がって喜んだ。特に早稲田の「B」は私に自信をつけさせた。今まで無理だと思われた早稲田に入れるかもしれない。ようやくこれまでの努力が実を結んだと思った。

 私はここで第1志望を早稲田に変えた。

 勉強方法にも変化があった。早稲田と立教の過去の問題集を買ったのである。

 

              (イメージ写真:教学社のこのシリーズにはお世話になった)

 

 12月の中旬頃、最後の全国模試が行われた。

 今回、私は第2志望を慶応にし、立教を第3にした。前回の結果と最近の様子から、立教は間違いなく受かるのではないか。それならば立教を滑り止めして、立教よりも上の慶応を第2にすべきだと考えたのである。

 

 結果は 早稲田 C    慶応 C    立教 B

 

 早稲田と慶応の「C」に気落ちした。前回の早稲田の「B」はまぐれ当たりだったのか。

 勉強をやり過ぎたのだろうか。寒い季節がやって来たことも関係しているのだろうか。私は鬱っぽくなった。また私の部屋が寒いのである。西北向きなのでなおさらである。暖房器具はこたつだけ。勉強する時は、机ではなく、小型の電気こたつの上でするようになったが、はかどらない。

 冬期講習は受けなかった。ここまで来たら、志望校の傾向問題を解くことに時間を費やそうと思ったからである。代ゼミの自習室に行く気持ちさえなくなった。こたつに寝転んだまま、ぼうっとすることが多くなった。それでも頭に試験のことが浮かぶ。落ちたらどうしよう。そればかり考えるようになった。完全にマイナス思考の袋小路におちいってしまったのである。

(イメージ写真:実際はこれより小さかった)

 「このままじゃ、頭がおかしくなる。何かしなくちゃだめだ。俺の場合は読書だ。何か読もう!」

 私が手にしたのは、本棚にあったドストエフスキーの『罪と罰』だった。夏休み直前に帰省した時、この本だけ持ち帰ったのである。

 小説を読むのはスタンダールの『パルムの僧院』以来だった。約半年ぶりだ。

(この『河出版世界名作文学全集』で読んだのが、大学生の時に売ってしまった。後悔している)

 

 読み始めると、ぐいぐい引き込まれた。高校時代に2度挑戦し、投げ出したことが嘘のようである。受験勉強は、鑑賞力を育ててくれたのだ。積み重ねの勉強は無駄ではないと思った。

 主人公のラスコリーニコフは、ペテルベルクに住む、金がなく、希望もない、孤独な青年である。しかし、彼は自分は「選ばれた非凡人」だという妄想にとりつかれ、自己の成長のためにはこの世に害をなす人間を殺してもかまわないという身勝手な理屈を抱き、金貸しの老婆を殺害する。が、偶然現れた彼女の義妹まで殺してしまう。そこから罪の意識が芽生え、悩み出すが、最終的にはソーニャとの出会いによって人間性を取り戻す。

 要約すれば、こういうストーリーであるが、実に多彩な人物が登場し、物語を壮大にする。

  主人公のラスコリーニコフとソーニャ以外で私の注目を引いたのは、予審判事のポルフィーリと悪魔の化身ようなスヴィドロガイロフである。

 ポルフィーリによるラスコリーニコフに対する尋問はすごい心理戦である。二人の会話は長々と続くが、読者を飽きさせない。

 また、スヴィドロガイロフのような人物の存在感も圧倒的だ。読者は、人間の二面性を考えてしまうだろう。E・ブロンテの『嵐が丘』に登場するヒースクリッフを思い出した。

 だが、何と言っても私を引きつけたのはラスコリーニコフとソーニャである。ソーニャは貧しいがために売春をする少女であるが、人間の「聖」なる部分を失わない。マグダラのマリアのような一種の聖女である。ドストエフスキーは彼女に人間の理想を見ているのだろう。ラスコリーニコフがソーニャによって再生するからこの物語は人の胸を打つのである。ラスコリーニコフがロシアの大地に口づけをする場面や、ソーニャがシベリアに流刑される彼を追って旅立つ箇所は感動的である。

 将来結婚するなら、ソーニャのような女性がいいと思った。

(ソーニャ:イメージ写真)

 私は、この作品を年末から正月休みにかけて読んだ。正月は帰省しなかったので、下宿でこたつに寝転びながらページをめくった。

 本を閉じた時、私は眼前の世界が違って見えた。これは優れた芸術作品がもたらす作用である。このような感動はめったにあることではない。

 私はラスコリーニコフの独善的な考えについていけない。非人間的な犯罪にいたっては言語道断だと思っている。しかし、自分を孤独で貧しいと感じている点に共感する。ペテルベルクを東京に置き換えれば、さまようという点でも同じ気がした。青年期に味わう孤独を押し広げた人物像がラスコリーニコフなのである。

 私は再び受験勉強にやる気が出て来た。この本によって救われたといえよう。思春期にヘルマン・ヘッセの『車輪の下』に救われた以来、2度目の経験である。

 私はドストエフスキーが好きになった。受験が終わったら、彼の作品群を読もうと思った。

 同時に文学にはすごい力があることを改めて知らされた。紙背に隠れた深い思想。目に見えるような優れた描写。繰り広げられる様々な人生。それらが読者を変える。

「これを味わうために自分は文学部に行くんだ。文学部一本に絞る自分はけっして間違っていない。他人から見れば、おかしいのかもしれないが、そんなことは勝ってに言わせておけ」

 私はそう自分に言い聞かせた。

 実は私が従兄弟のアパートにやっかいになった時、彼から、「どこの大学をねらっているんだい?」と聞かれた。私が、「早稲田の文学部に行きたい」と答えたら、「文学部に行く連中は役立たずだ。就職だって不利だ」と言われた。私の父と同じセリフである。これは文学部で学ぶ学生に対する侮辱だと思った。ということは私に対する侮辱にもなるではないか。居候させてくれたことに対しては感謝したが、私はすぐに彼のアパートを出た。

 

 冬休みが明けた。私大の入試は2月である。私は以下の大学を受けることにした。

 

 第1志望 早稲田大学文学部  第2志望 慶応大学文学部  第3志望 立教大学文学部  第4志望 早稲田大学第二文学部(夜間)

 

 これまでの成績から考えると、立教は受かるような気がした。したがって難易度が上の早稲田を第1、慶応を第2にした。滑り止めに早稲田に二部を持って来た。もし全部に落ちたら、本気で就職、すなわち書店に就職しようと開き直った。

 早稲田と慶応を比較すると、当時はどの学部においても早稲田の方が難易度は高かった。現在はどうも違うようである。

 

(憧れた早稲田大学)

 

 立教の試験が一番早かった。最初の試験だということもあり上がってしまった。3教科(国語・英語・社会)とも予想以上に難しかった。

 上手くいけば、ぎりぎりで受かるか。下手すると落ちるかもしれない。

 出だしからつまづいたので焦りが生じた。

 

 次は早稲田である。国語や英語が思うように解けなかったので、世界史に期待したが、これは国語や英語以上に難しかった。中国の古代史に関する問題はやたら細かい。参考書に果たして載っている内容なのだろうかと首を傾げたくらいである。

 終わった時、これは駄目だと思った。最も行きたい大学の試験に力が発揮できなかった事実に私は落ち込んだ。

  

 続いて慶応である。早稲田の結果がおもわしくなかったので、慶応も無理かなあと消極的な気持ちで試験場の日吉に向かった。

 慶応文学部の試験科目は英語と社会だけである。英語が200点で、社会が100点。他の大学は全て3教科で、各100点ずつである。したがって英語の試験時間は2時間くらいあった。量も多かった。しかし、内容が私に合った。私が習得している語彙が多く出た。英文解釈・英作文・英文法の問題も私が学んだことがけっこう出た。終わった時、もしかすると80%(160点)くらい解けたのではないか、悪くても65%(130点)は行くだろう。過去問をやってないのにこれだけ出来た。私の胸は弾んだ。

 昼食をはさんで社会(世界史B)に挑んだ。私は驚いてしまった。問題がどんどん解けるのである。得意な分野(西欧史)が出たばかりでなく、中国史やその他の国々の歴史に関する問題も私には分かりやすかった。ひねくれていない。重箱の隅を楊子で突くような内容でない。形式も四択が多かった。終盤、私は時間があまってしまったくらいである。

 もしかすると100点ではないか。間違っても90点は行くだろうと胸算用した。世界史がこんなに出来たのは始めてである。こんなことがあるのだろうか。それも慶応で。にわかに信じられなかった。

 これなら英語と合わせてもよくて260点。悪くても210点。210点なら合格水準に達している。これは合格するのではないか。早稲田は駄目かもしれないが、慶応はうまくいくのではないか。笑みが自然とこぼれた。うれしさを隠すように両手で顔をおおった。

 

 次に早稲田の第二文学部である。私は滑り止めとしてここを選んだが、想像以上に難しいではないか。立教と同じく、合否のどちらに転んでもおかしくないと思った。

 

 数日後、立教の結果が発表された。補欠合格だった。それでも「合格」という言葉が付いている以上、うれしかった。受験雑誌によると、補欠合格で落ちる人はあまりいないという。ともあれ入学金を一定期間内に支払わなければいけない。私は早稲田は駄目だが、慶応は受かるのではないかと思っていた。ただ、慶応の発表は支払期間後である。払わないで慶応の発表を待ち、もし落ちていたら、立教に入学できない。その旨を母に電話すると、父が代わり、立教の入学金を支払うと答えた。たぶん父は慶応は無理だと思って、そう答えたのだ。

 

 続いて、早稲田の発表があった。見に行くと、予想通り自分の番号はなかった。憧れの早稲田に入れない。厳しい事実を突きつけられた私は重い足取りで高田馬場駅まで歩いて戻った。

 

 その数日後、慶応の発表があった。場所は三田である。自信があると思っても発表前はドキドキする。仮設された大きな掲示板を見上げると、あった。正規合格である。うれしさと同時に体の力が抜けるような気がした。苦労が報われたと思った。

 早速家に電話すると、両親は喜んだ。父は、授業料の支払いに俺が行くと大きな声で叫んだ。

 

(正門 入ってすぐの所に合格掲示板があった)

 慶応に行くと決めたので、早稲田の文学部二部の結果に全く関心がなくなった。だから発表を見に行かなかった。

 私は元々慶応に憧れていなかった。早慶を比較すると、東京や神奈川では慶応の方が人気があるが、地方では圧倒的に早稲田にあった。少なくとも栃木県ではそうであった。どちらにも受かった場合、早稲田に進む人の方が多かった。

 慶応のイメージは、都会的、お金持ち、スマート、お坊ちゃん、お嬢様である。全て私と正反対だった。

 しかしその慶応が私を拾ってくれた。早稲田ほど作家は続出してないが、慶応出身の作家も多くいる。「早稲田文学」同様、「三田文学」も有名である。

 ここで頑張るしかない。私は自分にそう言い聞かせた。早稲田は駄目だったが、第2志望に入れたのは、『罪と罰』のお陰だ。入学したら、ドストエフスキーを読みまくるぞと希望を抱いた。4月から始まる新学期生活はバラ色に思えた。しかし、これが灰色に一変するとはその時予想もしなかった。

 

                        ――― 終り ―――