高3の秋、将来どんな職業につきたいのか決まっていなかった。家業(衣料販売店)だけは継ぎたくなかった。

 漠然と小説家か詩人になれればいいなと考えていたが、さすがこれを口にするのは恥ずかしかった。というのは、詩は2、3度しか書いたことがなく、小説は一度も書いたことがなかったからである。現実的には無理だろうと思った。それでもできれば文学に関わる仕事につきたいと思った。そんな時、学研の雑誌の「高3コース」で編集者の仕事が紹介されていた。これは私に向いているのではないか。ただ、少数精鋭の職場と付記されている。その他、国語の先生という道も浮かんだが、中・高になじめなかった私は、この仕事にはつきたくなかった。

 両親はそんな私に悩んでいた。唯一の息子であるが、家業に興味がない。かと言って成績も芳しくない。

 ある日、父が、「将来、何の仕事につきたいんだ?」と聞いて来た。私は、「編集者か本に関わるような仕事」と答えると、「ふん」と言った。

「大学は受けるのか?」

「一応」

「どういう学部に行きたいんだ?」

「文学部」

「そんな学部を出たって、就職は出来ないぞ」

 私は不快になった。

「どの大学を受けるんだ?」

「立教大学」

 高校時代、私は文学・音楽・映画・旅・政治的行動に熱中するあまり、成績が低迷した。高1、高2の時は、約250名中200番台(全教科テスト総合)を行ったり来たりしていた。理数系科目が全く出来なかったので、それらが受験科目にある国立大学に進学することは不可能だった。

 しかし、高3になり、私立文系コースに入ると、国語・英語・社会(日本史、世界史、倫理社会のうち選択)の3教科の総合のせいか、順位が上がるようになった。読書で得た理解力、洋楽・洋画を通して親しんだ英語力、歴史に対する高い関心が効果を発揮し、これら3教科の勉強に取り組むようになったからである。

 高3の秋のテストでは、このコースで3番(約60名くらいか)になり、みんなを驚かせた。上位成績の者が張り出され、口が悪い級友から、「おまえ、カンニングしたんじゃない」とからかわれたくらいである。

 この結果が私に自信をもたらせた。もしかすると、志望大学に受かるんじゃないか、と。

 文学少年の私は、有名な小説家を多数輩出している早稲田大学文学部に憧れた。ところが、早稲田に合格できる学力を身に着けてなかった。とても受かりそうにないのでワンランク下の立教大学文学部をねらうことにした。そのキリスト教的な雰囲気が気に入っていた。

 

(立教大学:この建物に憧れた)

 それに対し、父はこう言った。

「国立なら一期校。私立なら早慶。俺はそれ以外の大学は認めない。日大なんかに行くんだったら金は出さない!」

 私の顔は真っ赤になり、「かまわねえよ!」と答え、憤然としてその場を立ち去った。元々父は学歴で人を判断する癖があった。そんな父に対して私は反抗して来た。

 その後、私の成績は上がらなかった。これでは立教は無理かもしれないと思った。父に受験費用を言うのは嫌なので母から出してもらった。立教大学以外は受験しなかった。

 しかし結果は、不合格だった。

 この時点で私はある計画を実行しようと決めていた。それは、東京の牛乳店に住み込みながら予備校に通うという計画だった。当時、東京の新聞店や牛乳店で働きながら学校に通う制度があった。新聞店の場合は新聞奨学制度といい、学費を前借りし、給料からその分が差し引かれたが、牛乳店の場合は奨学制度はなかった。どちらも住居が提供されたので、これを利用して上京する本校の学生が毎年いた。

 私は学費を借りる新聞店制度は嫌だった。途中で辞められないような気がしたからだ。それで牛乳店の方を選ぶことにした。

 私は1年間だけ猛勉強をして再度挑戦し、もしまた落ちたなら、東京の書店に就職しようと心に決めた。

  私が浪人生活を東京で送ろうと思ったのには理由がある。

  私の家は小さな商店で、2階の2つある部屋(といっても4畳半ほどのスペースしかない)の1つを私が使い、襖一つ隔てた隣室を祖母と小学生の妹で使っていた。ところが4月から東京で短大生活を送っていた姉が田舎で就職するために戻って来ることになった。彼女は銀行に勤めるので自宅からしか通えなかった。私が家で浪人したら、おそらく私と祖母が一緒、姉と妹が一緒にならざるを得なかった。こんな環境で受験勉強は出来ないと私は思った。

 しかし父はこう言った。

「浪人したいのなら、家でやれ。東京でするなら金は出さない」

 要は金を出したくないのである。私は父と喧嘩になった。こんな父と一緒にいることは真っ平ごめんだった。

 私と父の仲は小学生の時からうまくいってなかった。すぐ怒り、すぐ手を上げ、夫婦喧嘩すると妻にも上げ、成績にうるさく、部活動をしない奴は男でない、この世で一番大切なのは金だと公言する父が嫌いだった。

 父からみれば、本や音楽や映画が好きで、いつも夢を見ているような私を理解出来なかったのだろう。

 高校進学の際にもひと悶着あったが、今回はもっと対立した。 

 

 こうして1970年(昭45)の3月中旬、私は上京した。場所は品川区中延にある牛乳店。最寄り駅は東急田園都市線(現大井町線)の荏原町駅。

(当時は三角屋根の駅舎だった)

 私の高校からA君という者が一緒に入店した。彼も浪人生だが、高校時代に彼とは面識がなかった。

 牛乳店は店舗の裏に木造アパートを所有していた。1階の四畳半の一室が私とA君にあてがわれた。

 私とA君は持ち物は蒲団と行李だけだったので、二人共勉強用の座卓と小さなタンスを買った。狭い部屋を2人で使うことの不便さにすぐ気が附いた。勉強中、互いが気になり、集中できなかった。そして座卓のためすぐ足がしびれた。

 私たちを含め新人は4、5名いたと思う。大学生と浪人生は半々だったと思う。茨城県出身者が2名いたのを覚えている。

 翌日からすぐ仕事だった。新人一人ずつに店主を含めベテランの従業員(全員男性)がついた。彼らも5、6名いた。住み込みは1名で後は通いだった。私につきっきりで仕事を教えることになった従業員は20代半ばの人で佐渡島出身だった。彼は3月いっぱいで店を辞め、近隣のとんかつ屋で働くことを話してくれた。ベテランは1週間だけ配達に同行してくれるが、その後は1人で配らなければならない。

 朝3時頃に起き、作業着に着替えて店に集まり、配達用の製品の仕分けをした。牛乳が主だが、ヨーグルトや乳酸飲料もあった。全て瓶詰である。黒い頑丈な自転車の荷台に牛乳瓶が詰まった箱を載せ、ハンドルの両側にヨーグルトや乳酸飲料の瓶が入った布袋をかけた。かなりの重量である。このためハンドルが取られそうになる。

            (イメージ写真:私の勤め先は森永牛乳の販売所ではない)

 慣れるまで大変だった。体調を崩したこともあった。配達場所を覚えるのにも一苦労した。担当場所で覚えているのは昭和大学医学部や香蘭女学校付近の一軒家、立正短期大学の女子寮、荏原町駅付近のアパートや民家などである。

 声を掛けてくれる親切な家もあれば、「遅いよ」などの苦情を言う家もある。

 一度、下り坂で転倒したことがある。当然、瓶が砕け、牛乳が地面に散らばった。車が通るのですぐ片づけなければならない。近所の家にあわてて箒とチリトリを借りに行った。牛乳で箒とチリトリを汚してしまったので、そのお礼に牛乳を差し上げた。本数が足らなくなってしまったので販売店に戻らなければいけない。当然いつもの時間に配達出来なくなったので、苦情を言われた。出勤や登校前に牛乳や乳製品を食べる習慣の家が多かった。平謝りをするだけである。泣きそうになりながら、配達した。壊した分やお礼の分は給料から差し引かれた。

 田舎でのほほんと暮らしていた私は、東京で労働の厳しさを突き付けられた。

 また、東京の暮らしの大変さを垣間見ることが出来た。品川区の中延辺りはどちらかと言えば下町である。一軒家も多かったが、アパートも多かった。どちらにも配達した。当時のアパートはほとんどが木造モルタルで古びていた。鉄筋のマンションはものすごく少なかった。大体が一間で、中には六畳くらいの広さに親子五、六人で寝ている部屋もあった。狭いせいか、入口の扉が開けっ放しなのである。朝から一家で仏壇に拝んでいる配達先もあった。私は起こさないように、あるいは邪魔しないようにそっと置いた。

(当時の品川区:イメージ写真)

 田舎にも田舎なりの貧しさはあったが、都会には都会独特の貧しさがあった。

 配達が終わり、牛乳瓶の片付けが待っている。それが終わると、朝ごはんである。これは店の方で用意してくれる。ご飯、味噌汁、生卵、海苔、お新香という簡単な朝食だが、腹が減っているのでうまかった。 

 朝食後は仕事がなかった。私は勉強したかったが、睡魔に妨げられた。これには勝てないのでいったん仮眠し、11時頃から行動を開始した。部屋にはA君がいるので勉強ははかどらない。池上線の洗足池駅に図書館(大田区立洗足池図書館)があるという。そこは隣の旗の台駅で池上線に乗り換え、2つ目だった。私はそこで勉強することにした。しかし、疲れがとれないせいか、なかなか集中できない。私は焦った。こんなに学習意欲が高まったのは始めてだった。

 (現在の洗足池図書館。当時はこんな立派な建物ではなかった)

 私は毎日通った。文学や音楽や映画に一切振り向かなかった。ひらすら参考書や高校時代の教科書をめくっていた。飽きると、外へ出て池を眺めた。早く予備校が始まって欲しい。もっと勉強したいと思った。しかし、新学期は4月下旬である。

 このような仕事と勉強でつらい日々を送っていた中、心温まる思い出がある。

 4月に入ったある日、茨城出身の大学生がギターを買った。彼はまだ弾けなかったので私が見本を見せることになった。その頃、私はベッツィ&クリスの『花のように』が好きで、郷里にいた時にそのコードを覚えていた。窓辺で私が弾きながら歌うと、外で遊んでいた幼児たちが集まって来た。彼らは私を目を丸くしていた見つめていた。春爛漫の日の出来事だった。

 私はここで考えた。この1年に人生をかけている。後悔しないよう死に物狂いで勉強がしたい。が、このままの生活では勉強がはかどらない。思い切って辞めよう。1年間だけ予備校の入学金と最低限の生活費を送ってもらおう。父に頭を下げることは嫌だったが、背に腹はかえられない。

 父に言うと、電話口で喧嘩になりそうなので、母にその旨を伝えた。母は「お父ちゃんに掛け合ってみる」と答え、翌日、「認めてくれた」という返事をくれた。

 私はうれしかった。店主に4月いっぱいで辞めることを願い出ると、店主は嫌な顔をしたが、認めてくれた。

 予備校に入学金を払う日が近づいた。今と違って直接窓口で払い込まなければならない。父が来ると言う。母の方がいいのにと思ったが、仕方がない。

 代々木駅で待ち合わせをして二人で代々木ゼミナールに向かった。

 代ゼミは前年の夏に私が夏期講習を受けた所である。父が機嫌が悪いことはその表情から分かった。払い込みが終わり、私たちは駅に向かった。駅の自動販売機で切符を買い終わった時、父が突然、「おまえにこんな大金を使って損した。無駄な投資だ!」と声を荒げた。私は逆上し、「だったらなんで払ったんだ。そんなに金を使うことが惜しいのか!」と言い返した。二人の栃木なまりの声が大きかったため、近くにいた人が振り返った。興奮した私は足早に父の元を去った。我が家が貧乏なら費用を請求しない。家には金があった。金持ちではないが、高度経済成長に乗り、儲けていた。父は貯金が趣味のような男で、寝る前に束になった通帳を開いてニタニタするのが習慣である。来年受かるんだから受からないんだか分からないような息子の行動に多額の金を使いたくないんだ。要はケチなんだ。その考えが私の頭をいつまでも駆け巡っていた。

   当時、私の父方の従兄弟が杉並区の下井草に住んでいた。早稲田の商学部を卒業後、公認会計士の試験勉強をしていた。彼に事情を話し、一時的に彼のアパートに住まわせてもらうことにした。

  引っ越しは5月1日だった。その費用は稼いだお金でまかなった。小さなトラックに乗って杉並に向かっていると、メーデーの行進とぶつかった。したがってこの日が1970年5月1日だったことを覚えている。

 

 従兄弟のアパートには約2週間世話になった。その間に予備校で紹介してもらった下宿に引っ越した。

 場所は小田急線の世田谷代田駅から歩いて10分くらいの所にあった。

(各駅停車の小さな駅だが、駅の跨線橋からは冬富士山が見えた)

 そこは平屋の大きな家で、3室を貸していた。私が借りた部屋は西向きの3畳で、朝食と夕食のついていた。確か1万5千円だったと思う。 

 世田谷代田駅から鈍行で行き、南新宿駅で降りて代ゼミに向かった。1年間、一度も休まず、席は一番前に座り、手を挙げた。

 とにかく勉強、勉強、勉強の日々だった。娯楽を遠ざけ、自分に禁欲を課した。だが、人間たまには息抜きをしないとやっていけないことに気づいた。心がおかしくなってくるのである。そんな心をいやしてくれたのがラジオだった。

 ラジオはその頃人気のあったナショナルの「ワールド・ボーイ」で、母が問屋の景品でもらった物だった。

 郷里にいた時にFMは入らなかった。ところが、東京では入る。そのクリアで鮮明な響きに私はびっくりしてしまった。勉強につかれた時や暇な時はいつもFMに耳を傾けた。

 中でも私がお気に入りの番組は、FM東京の『ジェット・ストリーム』である。これは歌なしのイージーリスニングミュージックを1時間流すので、疲れた頭をいやすのに最適だった。城達也のナレーションとテーマ・ミュージックの『ミスター・ロンリー』に何度救われたことだろう。したがって浪人時代を振り返る場合、どうしてもこの番組がちらついてしまう。

 その頃、気に入っていたイージ―リスニングの曲を紹介しよう(ただし、以前の記事で紹介した作品は除く)。

 ポール・モーリア『黒いワシ』『蒼いノクターン』『エーゲ海の真珠』『ベニスの愛』

 レイモン・ルフェーブル『ジュ・テーム』『哀しみの終わりに』

 サン・プール楽団及びダニエル・リカーリ 『ふたりの天使』

 どちらかと言えば、フランスの楽団が好きだった。

 

 もう一つFMの番組で好きになったのが、NHKFMの『バロック音楽の楽しみ』である。ナレーターは古楽音楽研究家の皆川達夫。朝の6時台に放送されていた。早起きした時や徹夜明けによく聞いた。

 彼の語りとこの番組で紹介された作品により、私はバロック音楽に魅せられ、これが入口になって大学時代にはクラシック音楽にのめり込むようになった。

(皆川達夫さんは実にハンサムな人だった)

 私はまず、ヴィヴァルディの『四季』が好きになった。私のような初心者には最適の作品である。それぞれの章を季節に応じて流してくれた。

 下宿での勉強に疲れた時、裏手にある羽根木公園を散歩した。テニス・コートがあり、どこかの大学生の男女がよく練習をしていた。はつらつとした小麦色とスポーツウエアの白さはまぶしかった。彼らとの間には溝があるように思った。そんな時、『四季』のメロディが頭をかすめた。5月の時には『春』の第1楽章、7月は『夏』の第3、11月には『秋』の題1、1月には『冬』の第2という具合にである。

(羽根木公園には梅林があった)

 

 ポピュラーミュージックに熱中することはなかった。レコードも買わなかった。巷ではサイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』、ビートルズの『レット・イット・ビー』、カーペンターズの『遥かなる影』が巷でよく流れていた。これらはポップスのスタンダードナンバーになった。

 この年にS&Gとビートルズの2大人気グループが解散したことは意義深い。

 他にゲス・フーの『アメリカン・ウーマン』が耳に残った。

 

 クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング(略してCSN&Y)のアルバム『デジャ・ヴ』の『キャリー・オン』、『アワ・ハウス』、『テーチ・ユア・チルドレン』も忘れられない。

 また、クリンデンス・クリアウォーター・リバイバル(略してCCR)も好きだった。

 69年から70年にかけてCCRの曲がよくラジオから流れていた。それだけ日本で人気があった。とりわけ『プラウド・メアリー』『グリーン・リバー』『フール・ストップス・ザ・レイン』が好きだった。

 映画音楽では、ヘンリー・マンシーニの『ひまわり』がよかった。

 日本の曲では、加山雄三の『美しいヴィーナス』に心を奪われた。初夏あたりに聴いたのだろう、実にいい曲だと思った。しかし、その頃受験勉強に必死だったの選局してまで聴く気にはならなかった。

 他に由紀さおりの『手紙』と『生きがい』が好きだった。あか抜けたポップス風な曲調が心にしみた。

 

  ※この続きは、次号の「我が懐かしき映画2・浪人編」で紹介します。