ブログの「懐かしきシリーズ」や「思い出シリーズ」を綴っているうちに気がついたことがあった。これらが自伝になっている事実である。音楽・映画、本の思い出を語ることにより、高校時代(1967年〔昭42〕4月~1970年〔昭45〕3月)を回顧している。

 

 私の家は小さな商店(衣料品全般を販売していた)を営んでおり、両親は商売に追われていた。母は若い頃文学書を幾分親しんだらしいが、私が物心つく頃、彼女が単行本を開いている場面を見たことがなかった。父にいたっては文学はおろか読書そのものに全く関心がなかった。そんなこともあり、我が家には書籍がなかった。あるのは、近所の書店と仲がよかったので付き合い上購読している服飾関係の雑誌や婦人雑誌だけだった。

 そんな環境だったせいか、読書が好きだったわりには、名作や質の高い本に触れたりする機会がなかった。したがって高校時代に私は読んだ本は、主に河出書房の『カラー版 世界文学全集』(全38巻別巻2巻)である。岩波文庫は全く知らなかった(そもそも田舎の書店には置いてなかった)し、新潮文庫などの文庫本もほとんど読んだことがなかった。

 また、映画や音楽(レコードやラジオ、バンド活動、フォークギターの練習)に熱中し過ぎて、読書がおそそかになってしまったことも関係している。

 このシリーズの最初の本を買ってもらったのは中3の時である。毎月配本された作家ごとに巻が分かれていた。その中で『風と共に去りぬ』(上・下)に興味を持ち、数か月かけて読んだ。面白かったという感想より、やっと読み終えたという感じだった。とにかく自分にとっては難しい本を読み終えたという満足感を味わった。

 高校生になって本格的に開いたのだが、読了したのは以下の本だけである。

 『郷愁』(ヘッセ) 『人間の絆』(モーム) 『赤と黒』(スタンダール) 

 

 『郷愁』の感想については、『ヘルマン・ヘッセ 私の好きな作家4』という記事で、『人間の絆』の感想も「ロンドンへの旅・その2・2018」で述べているのでここではふれない。

 したがって、『赤と黒』のみを取り上げる。 

 その他は皆途中で投げ出した。なにしろ、この全集で網羅されているのは長編がほとんどであり、これらを味わえる鑑賞力や理解力が当時の私にはなかった。

 たとえばドストエフスキーの『罪と罰』。これは高1と高3で挑戦したが、挫折した。『カラマーゾフの兄弟』も高3の時に開いたが、3分の1もいかずに閉じた。ショーロホフの『静かなドン』も同様。E・ブロンテの『嵐が丘』も投げ出した。どうしてこのように覚えているのか。その頃つけていた日記をなんと半世紀ぶりに読んだら、以上のことが書かれてあったからである。

 この全集の多くを読了出来たのは大学時代になってからである。ただ、置く場所に困り、半分以上古本屋に売ってしまった。

 『赤と黒』を読んだきっかけは中2の冬にさかのぼる。その頃、悪友のY(級友でもあった)と、Yの近所に住む女性に英語を習いに行った。そこの書架に世界名作文学全集が並んでいたので見ていると、『赤と黒』という題名の一冊が目に入った。不思議な題名だと思った。それを女性に話すと、「赤は軍服、黒は聖職者の衣の色を表しているのよ。ジュリアン・ソレルという若者は出世をするために軍人や聖職者になるの。そして女性をあざむくの」と教えてくれた。

 そのことが頭に残っていたのだろう、『赤と黒』が家に届いた時にさっそく開いて見た。内容は難しかったが、主人公が年上のレナール夫人をかどわかし、逢引する場面が私を夢中にさせ、その場面を繰り返し読んだ記憶がある。

 また、最後の場面で死刑になったジュリアンの首を恋人のマチルドが抱きかかえて歩き回る行動にショックを受けた。

 私は上流の女性を踏み台にして世に出ようとするジュリアンを認めることが出来なかったが、因習にとらわれ能力ある若者を認めようとしない当時の大人たちにも嫌悪感を抱いた。

 後に『太陽がいっぱい』を見た時に、主人公のリプリーは現代のジュリアン・ソレルではないかと思った。それ以降、ジュリアンの顔を思い浮かべると、ドロンの顔になった。

 さらに、これは大学生になった時に気づいたのだが、スタンダールが当時の社会情勢を詳しく述べ、自分なりの社会観を展開していたため、本書は恋愛小説の域を超え、深みのある思想小説にまで達していた。各章のエピグラフもただ付けていた訳ではなかった。

 高3になった時、姉から、石川達三の『青春の蹉跌』を渡された。読んだら、日本版ジュリアン・ソレルの話ではないか。だが、『赤と黒』に較べるといかにも浅薄だった。

 

 世界文学の名作に比し日本文学の名作は全く読まなかった。その中で唯一読み、感動したのが三島由紀夫の『潮騒』である。

 私は学研の『コース・シリーズ』を中学生の時から購読し、高校生になってからも買っていた。『高1コース』の付録に『潮騒』の冒頭部分の原稿用紙をコピーした下敷きがついていた。三島由紀夫の筆跡は見事だった。達筆な字が升目に埋められてあった。また、「歌島は・・・」という冒頭の一節は私を魅了した。

 付録の紹介文によると、海を舞台にした十代の少年少女の純愛だという。海が好きで恋愛に憧れていた私はすぐにこの小説を学校の図書室から借りた。

 私はぐいぐいとこの物語に引き込まれた。それは三島の文章が上手だからだろう。難しい漢語や華麗な修飾語が多用されているので辞書を何度も引かざるを得なかったが、そのような動作が苦にならないほど紙面の文章は私を引きつけた。引き締まった文体はこの健康的な内容に合致する。とりわけ描写力が素晴らしい。選び抜かれた言葉で的確に表現している。小麦色をした二人の体、逢引の場面、海の景観が目に浮かぶほどだった。私は主人公の新治に自分を投影し、初江のような少女と恋したいと思った。

          (大学生になった時、『潮騒』が収録されている全集の一冊を購入した)

 

 純文学ではないが、五木寛之の『青年は荒野をめざす』を読んだ時の感動も忘れられない。たまたま友達が貸してくれた平凡パンチに連載されていたのを読み、ストーリーに引き付けられた。単行本化された時、購入した。高2の時だった。

(柳生弦一郎の表紙絵及び挿絵が素晴らしい)

 これはある青年がシベリア鉄道経由でヨーロッパを放浪する物語である。そこで様々な人々に出会い、交流を通して成長していく。自分探しの旅ともいえよう。

 著者が言うように、この本はエンタメ小説であるが、読者に夢を持たせる力は並みの文学作品よりすごい。

 私はヘッセの『郷愁』や芭蕉の『奥の細道』を読み、旅に憧れていた。この本を読むことによってさらにかきたてられ、高2の夏休みに東北一周(結果的には半周しか出来なかった)のヒッチハイクの旅に出掛け、翌春には九州で鉄道の旅を敢行した。

 これによって一人旅に自信がついた私は、大学に入ったら、休学して世界を放浪したいと夢見た。私ばかりでなく、この本は当時の若者に影響を及ぼした。フォーク・クルセダーズが同名のヒット曲を飛ばしたこともその影響を高めた。私が中年になった時、アルゼンチンで成功して帰国した男性(私より2歳上)に出会った。奄美大島出身の彼はこの本に感動し、南米に雄飛したと語った。

 

 これも高2の時だと思う、中学校時代から交遊が続いていた悪友のYの家に行くと、Yが「いい物を見せてやる」と言って、本棚に並べられた多量の書籍を見せてくれた。棚にはたくさんの岩波文庫や現代作家の単行本や日本文学全集もあった。東京で小さな出版会社に勤めている兄が送って来たのだと言う。当時Yは2度目の1年生だった。肝臓の病気で休学したためである。そんな弟を励まそうとしたのかもしれない。

 私は彼から大岡昇平や大江健三郎や北杜夫の名を教わった。当時、大江の人気はすごく、大学生や若者にかなり読まれていたが、私には難解そうに思えた。1年後の高3の夏、私は東京の予備校の代々木ゼミナールの夏期講習に参加した。隣のクラスのZ君と偶然そこで会った。私もZ君も政治に関心を持ち始めていたところ、70年安保に関する文化人の講演会のポスターを代ゼミの掲示板で目にした。大江健三郎や小田実が出演するという。私たちは九段講堂で開かれたその会に参加した。大江の話はへただった。内容も忘れてしまったが、有名な作家を生で見られたことは思い出になった。

 そのことがあったので、夏休みに書店で大江の新作『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』が目に入った時、購入した。読みにくかったが、強い好奇心を維持して読んだので完読出来た。

 もう一つある。高2の時、Yが「これはすごい本だよ。もう読まないから上げるよ」と言って、『チャタレイ夫人の恋人』の古本をくれたのである。性に目覚めていた私はこの本名を知っていた。すごい性描写があるのではないかと期待した。ところが、肝心のその部分は、裁判の影響があり、伏字になっていた。当時の鑑賞力ではこの本の真のよさを理解できなかった。

 後日、九州旅行を共にした級友のY(悪友のYとは別人)にこの本の話をすると、彼は目を輝かせて「俺に貸してくれ」と言った。

 私の記憶をたどる限り、高校時代に読んだ文芸書はこれらである。文学好きの読書家にしては少ない方だろう。奥手なのである。どちらかといえば、当時の私は音楽や映画の方にひきつけられていた。

 

 文芸書以外の本では、聖書に関心を持ったことがあげられる。高2の時に前述した悪友のYとキリスト教会で開かれていた聖書購読会に参加したことがある。熱しやすく冷めやすい性格のYは病気のことがありその頃教会に通い始め、日曜学校と聖書購読会の両方に参加していた。私も誘われたのだが、聖書購読会にだけ興味を持った。

 その会は数回行ってやめてしまった。牧師さんが日曜学校への参加を強く勧めて来たからである。

 ただ、おかげで聖書やキリスト教の歴史に自分なりに関心を持つことは出来た。

  

 次に社会科学関係の本にふれたことである。

 高2の時、後ろの席のG君と親しくなった。私は彼に小説や映画や音楽の面白さを話し、彼は社会主義の魅力を語った。私に影響を受けたG君は土曜の午後、私と洋画をよく見るようになった。

 彼は安保問題学習会を立ち上げ、私を誘った。私を含め4、5名の級友が参加した。彼は安保の欺瞞を訴えた。マルクス主義に関心を抱き始めていた彼は、共産党の機関紙の『赤旗』や『毛沢東語録』や『社会主義の諸問題』を持って来て、私に薦めた。

 だが、私は社会主義・共産主義にはひかれなかった。ただ、現代社会の矛盾に対する怒りはG君と共通していた。したがって、彼が校則の厳しさや社会問題を論じる壁新聞を発行しようと学習会に提案した時、賛成した。『主張』と名付けられたその新聞は数回発行された。

 G君に誘われて一緒に市内で開かれた日本共産党系の大学教授の講演会や社会党主催の研修会に参加したこともある。

 G君によって私はロマンチックな夢想少年から社会問題を考える行動少年に変貌した。

 

 そんな時、卒業式で卒業生の有志(生徒会長や役員たち)が頭髪(当時坊主頭しか認められていなかった)の自由を認めるよう訴えた。それがマスコミに取り上げられ、我が校の名は全国に知れ渡った。

 学校に対する怒りは在校生に広がり、在校生の有志(G君や私や悪友のYもいた)が中心になって「全組連絡会議」が結成され、長髪問題を考える自由討論会を主催した。

 3年生に進級しても学校への不信は止まず、連絡会議の有志(10名くらい)で「学校問題を考える」会のようなグループを発足させ、頭髪の自由を学校に求めた。生徒総会でも生徒の多数が頭髪の自由に賛成だったので、学校は5月になって許可した。

 6月、Tという私の高1時代のエレキ仲間のお姉さんが鉄道自殺をされた。大学闘争に悩んで亡くなられたという。その死に衝撃を受けたのか、TやTの友人たちがグループに参加した。

 私たちは文化祭の実施を学校に求めることにし、そのためにビラを配った。それまで学校は、勉強第一主義を掲げ、文化祭を開かなかったのである。

 2学期になって文化祭の実施が認めれた時、私たちはそこでベトナム戦争問題のシンポジウムを行うことにした。そのためには米軍基地の実態を調べる必要があるということで私とG君とN君が横須賀と厚木を訪れることになった。基地周辺の住民の声を録音しようとテープレコーダーまで持参した。

 当時はベトナム戦争や70年安保改定反対で全国の大学で紛争が起き、その波が高校にまで押し寄せていた。私たちは県内の高校と連絡を取り合い、10月の全国反戦デーに参加することにした。宇都宮大学に集まり、そこから大学生と一緒に県庁前でデモするという計画である。

(この写真は東京である。宇都宮ではこんなに人がいなかった)

 その情報が警察に漏れ、西那須野駅や宇都宮駅に刑事らしき人物たちが見張っていた。私たちはなんとかかいくぐり、無事デモを終えて帰宅した。

 ところが、このことが学校に知られ、全員呼び出しを受け、今度やったら停学だと言い渡された。

 文化祭は11月に開かれた。私たちはシンポジウムの他に、フォーク集会を開くことにした。メンバーの中でギターが弾けた私とTと悪友のYが伴奏を行い、集会に参加した他校の生徒(女子高校生が多かった)と一緒に、『友よ』や『遠い世界に』『風』などを歌った。

 文化祭が終わった時、グループの今後をどうするのかを相談するために城山公園に集まった。G君以外のメンバーは進学希望である。大学受験という現実に向かわなければならない。結局解散することになった。

 卒業後、メンバーは全国の大学に散らばった。以降、大半の者との交流が途絶えた。成人し、中年になってからも続いたのはG君(彼は大学に進学しなかった)だけだった。G君には感謝しかない。

 思えば、思春期のエネルギーが政治や社会問題に私たちを向けさせたのだろう。人によって、このエネルギーの向かう先は違う。勉学、スポーツ、非行、趣味、現代なら引きこもりもあるだろう。

 時代も関係している。当時は世界中で若者の反乱が起きていた起こっていた。ベトナム戦争の激化をきっかけに既成の価値に対する不信が渦巻いていた。私たちの住んでいる田舎ではビートルズのような髪型をすると白い眼を向けられ、エレキバンドは不良の始まりと見なされた。宇都宮駅の前でフォークギターを弾いて歌ったら、警察官に追い払われたくらいである。黙って暗記型の勉強だけをしていればよいと考えていた先生が多くいた。

 私たちのグループはそんな価値観に対してNOと声を上げたのである。

 

 最後に雑誌についてもふれよう。

 高校時代に3年間を通して定期購読していたのは、学研の『高1コース』『高2コース』『高3コース』である。

 これは親が買ってくれた。

 次に一時期、定期的に購入した雑誌は、『ボーイズ・ライフ』、『ミュージック・ライフ』、『映画の友』などである。たまに買ったものは『平凡パンチ』である。マンガはほとんど買わなかった。

 高3が終わろうとしていた時に、初めて『文藝春秋』を買った。この頃、芥川賞に興味を持つようになり、受賞作が掲載されていたこの雑誌に目が行くようになった。

 その時の作品が清岡卓行の『アカシヤの大連』である。私はこの作品に感動し、以後何度も再読した。

 

                    ――― 終り ―――