人生を振り返ると、我が人生に影響を与えた旅が5つある。2つは高校時代で、もう2つは大学時代。残り1つは60歳を過ぎてからの旅である。

 最後の旅については、『夫婦四国歩き遍路』という題でこのブログに綴った。最初の旅についても、『青春の旅・東北・ヒッチハイク・高校編』という記事で前回紹介した。

 今回のこの記事はその2つ目、高校時代に行った九州旅行の思い出である。時は1969年(昭和44年)の3月23日から4月5日まで。高2から高3に移る春休み。2週間の旅である。私は17歳になったばかりであった。

 ここに1枚の写真がある。周囲が白いのは霧のせいである。これは雲仙高原で撮られた写真で、左から順に友人のY、続いて私、望遠鏡を挟んで大阪の男性、右端が富山県魚津市の男性である。大阪の男性が自分のカメラで撮ってくれた。当時カラー写真の値段は高かった。

 私とYはカメラを持って行かなかったので、この旅行の唯一の写真になった。

  

 昨夏に東北地方の一人旅をヒッチハイクで行った私は旅館に泊まらない旅の面白さにはまってしまった。それで次の目標に九州を選び、春休みに実施することにした。高3の夏休みは大学受験の勉強に精を出さなければならない、春なら南の方は暖かいだろうという計算が働いた。是が非でも訪れたい場所があった訳ではないが、とにかく遠方へ行きたかった。

 この話を何人かの級友に漏らすと、それを聞きかじったYが連れて行って欲しいと頼み込んで来た。元々1人で行くつもりだったが、Yの熱意にほだされ、2人で行くことになった。Yとはすごく親しいという関係ではなかったが、気心は合っていた。

 先生には黙っていた。話せば許可されない、あるいは計画書を提出しなければいけないからである。

(赤線が経路である) 

 今回は鉄道の周遊券を使った。今、こういうチケットは発売されいるのだろうか。半世紀前の頃は、各地を対象にしたこの券が売られていた。期間は2週間だったと思う(もしかすると間違いかもしれない。ネットで調べたが、正確なことは不明)。急行の自由席が乗れたので若者に人気があった。彼らは春休みや夏休みに重そうなリュックを背負って旅をした。その姿がカニを連想させたのだろう、メディアからカニ族と名づけられた。

 

       (イメージ写真:九州周遊券。時期がほぼ同じである。これと同種だと思われる)

 今回の旅も前回の旅同様、手帳を持って行き、記録をつけたが、残念なことに半世紀の間に失くしてしまった。ただ、当時私は大学ノートに日記をつけており、そこにこの旅の期間が記されてあったため、期間は紹介出来たのである。しかし旅の詳細は忘れてしまった。今書いておかないとこの旅の記憶が消失しそうなので、記憶力をフル回転させ、ネットで調べながら綴ることにする。

 したがって周遊券の値段や所持金の額を覚えてない。ただ、旅館に泊まらない貧乏旅行(宿泊場所は原則、駅。もしくは夜行列車)なので大きな額ではない。費用にはお年玉を充て、不足分は祖母や母に出してもらった。この旅にいい顔をしなかった父は一銭もくれなかった。ただ、彼は駅員と親しかったので、周遊券の購入に便宜をはかってくれた。その折、「勉強もしないでこんなことばかりやりやがって」という、前回の東北の旅でも投げつけられたこの言葉を今回もいただいた。

 持ち物は前回の東北の旅と同じく、寝袋、下着などの衣類、雨具(ポンチョ)、洗面用具、旅費、地図などである。必要最低限度しか持って行かない。それらをリュックに詰め込んだ。

 

(3月23日・1日目) 

 故郷の西那須野駅から東北線で上京し、東京駅から東海道線・山陽本線経由西鹿児島行客車急行(夜行列車)に乗った。明るかったので昼間出発した列車である(最近ネットで調べたところ11:10発の「霧島」であることが判明)。

 自由席の座席(4人掛けのボックス席)はほとんど埋まった。私たちの相客は東北大学の学生2人で、九州旅行に行くということも一緒だった。栃木の高校生ということで親近感を抱いてくれ、親切にされた。

※客車急行の写真

 数時間すると、座ったままの姿勢がつらくなったので、時々トイレやデッキに行ったりした。大阪に着いたのが夜で、山陽本線を深夜に走行した。なかなか眠れない。窓辺に頬杖を突きながら窓外に広がる夜景を見ていると、2月に買ったビートルズの『ホワイトアルバム』の『ハッピネス・イズ・ア・ウオーム・ガン』(ジョンの曲)のフレーズ(特に最後の方)がやたら浮かんで来た。思わずつぶやくように口ずさんだ      Happiness is a warm gun ,yes it is(bang, bang, shoot, shoot).   Happiness is a warm gun ,yes it is(bang, bang, shoot, shoot).

 

 少し眠ってまた目覚めた時、闇の中におびただしいライトがオレンジ色に光っていた。煙突の口から炎が出ている。前に座っていた大学生が、「徳山のコンビナートだよ」と教えてくれた。この光景は印象に残った。

 

(3月24日・2日目)

 早朝、博多駅に着いた。私たちは大宰府に行くのでここで降りた。ホームの立ち食いうどん(そばはなかったように思う)のスタンドでかけうどんを食べた。透き通った黄金色のつゆに驚いた。栃木のうどんのつゆは黒かった。そしてうまい。郷里のうどんと全く違う。だしがきいている。これはカルチャーショックだった。ネギにも驚いた。小さく緑の部分だけで、白い所がない。関東のネギと全く違う。千切りの油揚げの細片がうどんと絶妙にマッチしていた。

(イメージ写真)

 西鉄の電車で大宰府天満宮に行った。この沿線で気がついたのだが、どこもかしこも車体の半分が緑色の西鉄バスが走っていた。さすが西鉄ライオンズの本場だと思った。

(当時のバスは前の部分が突き出ているボンネット型が多かった)

 太宰府は大きな神社だった。

                       (太宰府天満宮の写真)

 ただ、あまり関心がなかったので素早く観光した後、博多駅に戻り、鹿児島本線に乗って鳥栖駅に行った。そこで長崎本線に乗り換え、肥前山口まで行き、そこで佐世保線に乗り換える。今日の目的地は佐世保である。佐世保で何を見ようとしたのか。米軍基地である。当時は今と違って、学生運動や労働運動が盛んで、左右対立が激しかった。東西陣営に分かれた世界に影響されていたのだろう。その象徴的事件の一つに米軍の原子力空母や潜水艦の佐世保寄港があった。政治に関心を抱き始めた私は米軍基地を見たことがなかったのでちょうどいい機会だと思ったのである。

 鹿児島本線の博多・鳥栖間は電化されていたが、長崎本線に入るとジーゼルだった。調べたら当時九州で電化されていたのは鹿児島本線だけだった。当然電車が遅い。今でも覚えているが、周囲の景色にはげ山が多い。私の郷里よりはるかに田舎だ。なんかわびしい感じだ。車内から見た佐賀駅の駅舎がとても小さかった。

 佐世保線に乗り換えると、さらに遅い。客車の数がかなり減った。ローカル線の中のローカル線。山の間を縫うようにして進む。有田駅でかなり停まっていたと思う。乗っているのに飽きたせいか、景色に感動しなくなった。勘弁してくれよ。早く佐世保に着いてくれ! そればかり考えていた。

 佐世保駅に着い時、腹ごしらえをしようと思い、駅近辺を歩いた。見かけた女子高校生に食堂の有無を聞いたのを覚えている。小麦色に焼け、目がぱっちりした女の子だった。九州の女の子は南国育ちだからこのような少女が多いのだろうかと勝手に想像した。

 この子に紹介されたのがラーメン店だった。ここで私は二度目のカルチャー・ショックを味わった。私が郷里で食べている中華そば(当時の郷里ではこの名称の方が一般的だった)と全く違っていたからである。郷里の中華そばのつゆは醤油ベースだから黒い。具材はチャーシュー一切れ、半分のゆで卵、シナチク、海苔、ホウレンソウ、ナルト、ネギが普通である。ところが佐世保のラーメンのつゆは黒色ではなく、茶色がかった白濁の色である。それに油っぽい。具材について言えば、チャーシュー一切れは同じだが、見たことのない海藻(千切りにされていた)と緑のネギである。郷里のネギと全く違う。それに麺が縮れてない。食べてみると、味が全く違う。初めて経験する味だが、美味しい。今思えば、これは「豚骨ラーメン」だったのだろう。

                  (イメージ画像:こんな感じだった)

 米軍基地には行ったが、当然中には入れなかった。金網の外から眺めるだけだった。お目当ての空母や潜水艦が見当たらずがっかりした。

 ただ、近くの公園で印象的な風景に出会った。それは、髪の長い(頭の中央で二つに分け、肩まで垂れていた)少女(十代の終わり頃か)とオートバイにまたがった青年が楽しそうに話している光景である。少女は水色のデニムの上下を身に着け、青年はボタンダウンのシャツにジーンズをはいていた。このような装いの若者は当時の私の郷里では見られなかった。人前で青年男女がおおぴらに気軽に談笑する風景も我が郷里では珍しかった。このような光景は平凡パンチなど若者向けの雑誌でしかお目にかからかった。それがこの佐世保で見られるとは。佐世保だって東京に較べれば田舎である。だが、私は考えた。米軍の海軍基地があるからだろう。港がある街は流行を取り入れやすいのだと。私とYは坊主頭であり、登山靴をはいて旅行している。彼我の差に改めて愕然とし、彼らがうらやましくなった。高校を卒業したら、あの二人のような付き合いをしたいと憧れた。            

 その後、大村線で長崎に向かった。夕暮れといっても曇っていたせいか、大村湾がわびしく見えた。

長崎駅に向かうには諫早駅で長崎本線に乗り換えなければならない。諫早駅に着いた時、かなり暗かったので今夜はこの駅に泊まることにした。

(当時の諫早駅)

  諫早駅は田舎の小さな駅といった感じだった。我が故郷の西那須野駅を思い出させた。夕飯を食べに駅前の食堂に入る。メニューに「長崎ちゃんぽん」があったのでそれを注文する。テレビや雑誌でその名を知っていたが、食べたことはなかった(この料理も当時の栃木に広まっていなかった)。

(イメージ写真)

 食べてびっくり。食べ物に関する3番目のカルチャー・ショックである。初めて経験する味だった。白濁したスープ。豊富な魚介類。もやしやキャベツを中心にした野菜がたくさん載っている。野菜不足になりがちなのでちょうどいい。かまぼこの桃色の部分が鮮やかな印象を目に残す。これらが黄色い麺と不思議にマッチする。当然完食した。

 

(3月25日・3日目)

 翌朝、一番の列車で長崎駅に向かった。駅前から出ている市内ツアー巡りバスに乗った。

シリーズ2.昭和の駅 in 九州 長崎駅(写真点数:29点) - 添田カメラ 福岡県田川郡添田町

(当時の長崎駅)

 ただ、ほとんどの場所についての強い記憶がない。強い目的意識を持って出かけた所でないと忘れてしまうのだろう。その中で一番覚えているのが大浦天主堂である。なぜか。ここで記念写真を撮り、その写真を購入したからである。購入しなかったなら、大浦天主堂を訪問したという記憶は飛んで行ってしまったかもしれない。半世紀という時の流れは、覚えていることと忘れてしまったことを明確に振り分ける。

 ツアーは午前中に終わった。バスが長崎駅に戻った時、バスに一人の女性が入って来た。

「大浦天主堂で撮った記念写真です。購入しませんか!」

 私はくぎ付けになった。このように美しい人を見たことがなかった。彫りが深く、目が大きく、一見ハーフのような整った顔だち。小麦色。すらりとした体つき、さっそうとした態度。紺のワンピース姿。ファッション雑誌から抜け出たような女性だった。撮影の場所にはいなかったが、写真屋さんの一人なのだろう。このような美しい女性が長崎にいる。東京ではなく、九州の端の街にもいる。その事実に驚き、うれしくなった。佐世保で見かけた女の子に抱いた印象を長崎でも持ったのである。

 私は思わず手を挙げ、「買います!」と答えた。ただ、残念ながら、購入した写真は紛失してしまった。私は独身時代に数多く引っ越した。住んでいた住居が狭かったこともある。断捨離を好む性格のせいもある。不必要な物を捨てるタイプなのである。農耕民族より、最低限度の物しか持たない遊牧民族に近いのかもしれない。

 長崎駅から雲仙行のバスに乗った。けっこう観光客が乗っていた。私たちは雲仙地獄を見学、その後ローピウエーに乗る予定でいた。たぶんその乗り場だったと思う。ある男性から声を掛けられた。20代の後半くらいで、話し方から関西の方(後で大阪の人)であることが分かった。完全な登山スタイル。彼には連れ(後で富山県の魚津市出身だと分かった)がいた。20代前半くらいで標準語(訛りはあった)を話し、カニ族風な感じである。2人とバスで一緒の人たちだった。彼らもバスの中で知り合ったらしい。たぶん大阪の男性が声を掛けたのだと思う。この方がすごく気さくで親切だった。一緒に行かないかと誘われたので、行動を共にすることにした。

 行き先の仁田峠駅に着くと、霧である。何にも見えない。でも、関西人の方は持参していたカメラ(一眼レフ:当時は高価だった)で写真を撮ってくれた。それが冒頭の写真である。

(晴れた時の雲仙温泉。おしどり池が見える)

 大阪の男性から今夜の宿泊先を問われたので、「島原駅の予定です」と答えると、「よかったらわし(この方は自分のことをこう表現した)が借りたバンガローに泊まらんか」と誘われた。毎晩駅に泊まる予定だったので違う場所に泊まるのも面白いと私は思い、Yに相談すると、彼も同意した。富山の方も同行すると言う。

 ロープウエーで下山すると、大阪の男性が借りたバンガローがあるキャンプ村(そこがどこだかは忘れた)に向かった。空は薄暗くなっていた。

                   (イメージ写真:実際はもっと小さかった)

 大阪の男性は中にある囲炉裏で火を焚いてくれた。そればかりでなく、飯盒炊爨を行い、缶詰を開け、インスタント・スープを作った。基本的なキャンプ用品を全て持参していた。彼のリュックは私たちのそれより2倍大きかった。

(イメージ写真:実際はこんなによくなかった。狭く、床は土足のままで使えた)

 この方は色々話をしてくれた。2泊の予定で雲仙高原の山を歩くこと。趣味がワンダー・ホーゲルであること。大阪に生まれ、大阪にすんでいること。双子であること。会社員であること。20代の後半であること。沖縄出身の女性と婚約したこと。

  私は彼が大橋巨泉に似ていると思った。それを打ち明けると、彼は大笑いした。私は大阪の人と話すのが初めてだった。生の大阪弁を生まれて始めて聞いた。最初、不思議な感じがしたが、話していうち、すっかり大阪弁に魅せられた。

(昭和時代の大橋巨泉)

 彼は旅の面白さを語り、注意点を教えてくれた。栃木の田舎からはるばる九州にやって来た高校生を気遣ってくれたのだ。東北の旅でも見知らぬ大人の方からホスピタリティをいただいたが、これほど親切にされたのは初めてだった。今思うと、これが旅の醍醐味だろう。見知らぬ人と一期一会で出会い、互いに打ちとけ、仲良くなったと思ったら別れる。

 一か月後、彼から写真を添えた手紙が送られてきた。私も丁重な返事を書いた。大橋巨泉をテレビで見る度に彼を思い出した。

 彼の手紙はいつのまにか失くしてしまった。名前も忘れてしまった。この場を借りて再度お礼を申し上げたい。半世紀前にお世話になりました。なんとか私も一人前の大人になりました。

 魚津市の若者は学生ではなく、今の言葉で言うと、フリーターのような人だった。自分探しをしていたのかもしれない。

 

(3月26日・4日目)

 朝、私たちは島原市行きのバスに乗った。大阪の人や魚津の若者とはここで別れた。

 島原市で島原城を見学した。思えば天守閣を見たのは生まれて始めてである。石垣が高く、天守閣が大きい。しかし、中に入ってびっくり。木の柱がない。今風のコンクリートの城だった。海が見える眺望は素晴らしいが、曇り空が残念。

 駅に向かっている時、白い筒袖を着、紺の袴をはき、手に弓を持った若い男女を見かけた。弓道の練習に行くのだろうか。こういう格好を始めて見たので新鮮な印象だった。

 島原鉄道で口之津駅まで行く(現在この区間は廃止)。たった一両の古いジーゼル車。海岸線を走る。海は曇天を写しにび色。

 口之津港から島鉄フェリーで天草下島の鬼池港に渡る。おりしも晴れて来た。海を渡るのは初めての経験だ。最高の気分。

                       (現在の写真:島鉄フェリー)

 鬼池港から本渡市(現在の天草市)にバスで行く。本渡市内を歩く。市ではあるが、街中が閑散としている。郷里の西那須野町のより寂しい感じがした。すでに夕暮れが近かった。今宵の寝場所を考えなくてはいけない。小学校の横を過ぎたので、用務員室に寝かせてもらおうかと一瞬思ったが、誰もいる気配がないので止めた。カラスが鳴きながら夕空を渡って行く。天草切支丹館の前に立っている天草四郎の像がわびしく見えた。結局港のターミナル案内所の軒下で寝ることにした。

                   

(3月27日・5日目)

 今日はバスで天草五橋を巡り、三角に行き、そこから鉄道で熊本へ。海なし県で育っているため、海に架かる橋を乗り物で渡るこのコースに憧れを抱いていた。ターミナルの本渡中央停留所から出発する。快晴。それぞれの橋から見える海の絶景に感動する。青い海。白い雲。緑の島。紫の山。これらが調和し、絵画的なパノラマ風景を繰り広げている。昨日は船で今日はバスで海を満喫することが出来た。

 三角駅から三角線で宇土へ。宇土からは鹿児島本線で熊本へ。熊本に着いたのは午後だった。これから熊本城へ歩いていく。道が分からなくなったので、OL風の20代の美しい女性に尋ねると、親切に教えてくれた。この方は女優の水野久美に似た顔立ちをしていたが、足が太かった。このアンバランスのため今でもこの方を覚えている。そのような足はかつて大根足(失礼!)と呼ばれていた。昔の女性は大根足の方が多かった。この半世紀の間に日本の女性の脚は長くなり、今ではほとんど見かけない。

 熊本城は島原城よりはるかに大きい。石垣は高く、大小天守や塀がある。1960年に再建されたらしい。中に入ってびっくり。太い柱や梁も再建されている。その迫力に驚いた。

            

 

  今夜の宿は熊本駅である。駅近くで紺の作業着を着た国鉄の組合員がデモをしていてビラを手渡された。Yが組合の行動を批判したので、彼らの肩を持った私と論争になった。日頃の言動からYがすこぶる保守的であることは知っていた。このことにより彼との仲がまずくなった。互いに疲れていたことも関係していた。

(当時の熊本駅)

 

(3月28日・6日目) 

 私たちは熊本駅から豊肥本線で阿蘇に向かった。列車は立野駅から赤水駅までスイッチバック式という方法で斜面を上った。この辺の記憶は確かでないが、阿蘇駅で降り、ここからバスでロープウエイの乗り場である阿蘇山西駅まで行ったと思う。鉄道とバスの乗車時間がとにかく長かった。山頂駅で降りると、火口が見えた。硫黄の臭いが漂い、いたる所から蒸気が上がり、底には緑がかかった乳白色の池があった。さすが有名な活火山。火口の反対側には別のロープウエイ(仙酔峡)の駅があった。そこまで歩道が伸びているので歩くことにした。幅が狭く、砂利道である。左側は急斜面が火口の底まで広がっているので怖い。

 

                (イメージ写真:現在ロープウエイは2つ共廃止)

 帰りはそのロープウエイで下山し、バスで宮地駅まで行き、熊本に帰った。熊本駅には夕方頃着いた。一日掛かりの旅だった。少しでも距離を稼ごうと、八代駅(鹿児島本線)で泊まることにした。着いた時は夜で、駅舎は西那須野駅くらいだった。

 

※続く