私は高3(1969年〔昭44〕3月から1970年〔昭45〕3月まで)になると、政治に強い関心を抱くようになった。ただしその萌芽は2年生の時にすでに生じていた。

 当時西欧ではベトナム戦争や既製の価値観に対する若者の反乱が起きていた。中国でも文化大革命が発生し、紅衛兵が跋扈していた。それに影響されたこともあろう、日本でも70年の日米安保条約改定を前に多くの大学で紛争が発生し、ヘルメットをかぶりゲバ棒を振るう大学生が誕生した。その波は高校にまで押し寄せ、都市部の高校でも先生と生徒の衝突が見られるようになった。したがってその行動への賛否は別としても、多くの若者が政治に関心を向けるようになった。現在の学園からは想像できないような活気が生じた。政治を話題にするのは日常茶飯事で、論争(今思えば幼いが)に発展することも多かった。

 

 田舎の高校生である私や同級生も影響を受けた。

 私の高校(栃木県立大田原高校)では1年先輩の卒業生が卒業式の壇上で長髪許可を訴えた。騒然となり、テレビや新聞が取り上げたために全国で知られ、県内の教育界に痛撃を与えた。

 後輩である私たちの学年の有志(私もその一人である)はその意志を継ぎ、長髪許可と文化祭の実施(当時文化祭は勉学の障害になるという理由で行われなかった。修学旅行でさえ夏休みに実施された)を学校側に要請した。

 県内の幾つかの高校とも連絡を取り合い、宇都宮大学に集まって現状の問題を語り、大学生と労働組合のデモに参加した。

 このような生活に小遣いを使ったので、レコードを購入することが少なくなった。それに反し文学や映画への興味は一層高まった。後者の方が政治と直結しやすかったからだろう。

 では、こういう時期の私はどんなレコードを買ったのか。どんな曲に魅せられたのか。

 

1 購入したレコード

  まずストーンズ。

 冒頭の写真は『ホンキー・トンク・ウィメン』(以下、ホンキー)のシングル盤である。発売される少し前にメンバーのブライアン・ジョーンズが脱退し、ファンをがっかりさせた。そればかりでなく薬物によって死んでしまった。

 そのため死後の翌日に急遽発売された。こういう所に会社の販売戦略が垣間見える。ただ、『ホンキー』は今一つ魅力に欠けた。『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』から受けたような感動はなかった。

                    (ブライアン・ジョーンズ)

 

  予定されていたストーンズのハイドパーク・フリー・コンサートは急遽ブライアン追悼コンサートになった。

 続いて2か月後に『ホンキー』が収められたベストアルバム『スルー・ザ・パスト・ダークリー(ビッグ・ヒッツ VOL.2)』が追悼アルバムとして発売された。ここに収められた曲の大部分を持っているにもかかわらず勢いで買ってしまった。ちょっぴり後悔。

 

                              (八角形のジャケットが新鮮な印象を与えた)

 これ以降、ストーンズに対する熱が冷めてしまった。新作の『レット・イット・ブリード』も買わなかった。

 

 

 この曲を初めて聞いた時、しびれた。歌詞、メロディ、サウンドが三位一体になっている。オーティスの声や歌い方も素晴らしい。私の心は揺さぶられた。涙がにじんでくるような名曲である。

 

 この曲も初めて聞いた時に心をつかまれた。マリアッチ・サウンドを思わせるイントロのトランペットがいい。あれよあれよという間に全米1位になり、日本でもヒットした。しかしキャッチャーなメロディの繰り返しなので飽きるのが速かった。

 

 『ビート・ポップス』で知り、メロディの美しさに惹かれた。ただし日本ではヒットしなかた。グループのリーダーであるヴァンゲリスは後に映画『炎のランナー』の音楽を担当して、ビッグになった。


 世界中で大ヒットした。日本人好みの哀愁を帯びた旋律。ポール・マッカトニーがプロデュースした。

 

  アオシエイションは美しいハーモニーとコーラスを売り物にしたアメリカのバンドである。ソフト・ロックと称され、ロック史ではビーチ・ボーイズの系列に属するグループといえよう。ブレッドやイギリスのトレメローズもそうである。ビーチ・ボーイズに傾倒した私はこれらのソフト・ロック・グループの曲もよく聞いた。ただし、ビーチ・ボーイにはブライアン・ウイルソンという才能のあるメンバーがいたが、これらのグループにはいなかった。オリジナリティに恵まれないバンドはロック史に刻まれない。

 それはともかくとしてファルセット・ボイスのコーラスを中心にしたソフト・ロックにはR&Bを土台としたロック・グループとは対極の良さがあることは事実である。聞いていて心がいやされる。

 高1の時に級友からアソシエイションの素晴らしさを教えられた。このコンパクト盤は代表的なヒット曲が4つ収録されているお得盤なので、遅ればせながら3年になって購入した。

 この中で最も好きなのが『ウィンディー』と『チェリシッュ』である。両方とも全米NO.1である。

 

  日本では、『アズ・ユウ・アー』をA面にしているが、イギリスでは『虹のたつ丘』(以下、略して虹)がA面である。実際『虹』の方がチャートの上位に入った。ラジオで『虹』を聞いた時いい曲だと思った。ソフト・ロックの持ち味であるメロディ・ラインの美しさとハーモニーの素晴らしさが合体している。彼らの大ヒット作の『サイレンス・イズ・ゴールデン』を買わなかったので、このシングルを買った。一時よく聞いた。

 

 日本人のレコードではこれを買った。岡林は当時の怒れる若者を代表するシンガーだった。高石知也やフォーク・クルセーダーズによって築かれた日本のフォークを引き継き、軸足をプロテスト・ソングに置いた。政治や社会問題に目覚めた私は、収録曲の『友よ』や『山谷ブルース』や『手紙』や『チューリップのアップリケ』を下手なギターでよく歌った。

 

 この年の特長はロックやポップスよりも映画音楽への興味が強くなったことである。   

 高校生になると洋画が自由に見られ、実に様々なジャンルの映画を見た。ほとんどが高校のある大田原市で見た。洋画専門の映画館は近隣では当市にしかなかった。田舎なので封切館ではなく、2番館か3番館である。

 当時ミュージカル映画がけっこうヒットした。その中で私は『サウンド・オブ・ミュージック』に感動した。『マイ・フェバリット・シングス』、『エーデルワイス』、『全ての山に登れ』など挿入歌のほとんどが心にしみたのですぐサントラ盤のアルバムを買った。

 どの曲も素晴らしい。ジュリーの歌声は私の波長に合った。聞いていると映画のシーンを思い出す。ハッピーエンドの最後もよかった。以後数十年の間に10回くらい見たのではないだろうか。

 この音楽を担当したのはのリチャード・ロジャース(作曲)とオスカー・ハーマンスタイン2世(歌詞)のコンビである。このコンビは他にも名作を(『王様と私』や『南太平洋』など)発表した。

 この中で私は『南太平洋』の虜(とりこ)になった。これは太平洋戦争を背景にして2組のカップルの恋愛が描かれた映画である。一方は成就し、片方は悲劇に終わった。この映画は私を恋愛への憧れに駆り立てた。卒業したらこういう恋愛をしたいと思った。

 私は、お金が貯まった時、このサントラ盤を購入した。

 収録曲の中で、『バリ・ハイ』や『魅惑の宵』『ハッピー・トーク』に魅せられた。旋律を今でも覚えており、海を見ると時々口ずさむ。海なし県の栃木で育ったせいか、私は小学校時代から海が好きで、中学生の時は加山雄三の『海の若大将』にはまった。その思いはこの映画でさらに強まった。

 

 サントラのシングル盤の方も紹介しよう。

 この映画は山岳登山のドキュメンタリーである。素晴らしい映像に息を呑んだが、胸がかきむしられるような哀愁を帯びた美しいメロディはより印象に残った。早速このサントラを購入して聞きまくった。

 ところが、大学生時代にお金に欠乏した時、これを他のレコードと共に売ってしまった。

 それから半世紀の間に作曲者の名前を忘れてしまった。ヨーロッパの音楽家だろうかと考えたこともあった。それにもかかわらず、山を見ていると、ふと主題曲が突如浮かんで来る経験を何度もした。この名曲はなぜかラジオやテレビで流れることがなかった。

 ところが、つい最近、YouTubeでどなたかがこのサントラを投稿してくれた。私は半世紀ぶりに聞く旋律に飛び上がって喜んだ。

 また、作曲者が日本人の木下忠司であることも知った。木下は兄木下惠介の映画やテレビドラマの音楽を担当している。中でも私は『3人家族』(歌:あおい輝彦)が大好きだった。音楽もよかったが、内容自体が私を感動させた。私は不思議な縁を感じた。木下はもっと評価されてもいい音楽家である。

 元々1961年作のフランス映画なのだが、日本で公開するに当たり、木下の音楽をつけ、日本人のナレーションも入れたのである。ヒットをねらって日本人向きに編集したのだろう。このような手法は時々見られた。『夜霧のしのび逢い』がそうである。日本で大ヒットしたクロード・チアリのギター演奏による主題歌はオリジナル映画には用いられていなかった。

  

2 レコードは買わなかったが思い出の深い曲

  由紀さおり『夜明けのスキャット』

  高1からラジオ(ただし中波放送。FMは私の故郷では入らなかった)に耳を傾けるようになった私は、3年生になると毎日のように聞くようになり、深夜放送も時々聞いていた。その頃、22:40分から東京放送(現TBSラジオ)で『夜のバラード』という番組があった。ムード系の音楽を流され、詩が読まれた。なんともロマンチックな番組であった。

 そこでかけられていたテーマ曲が『夜明けのスキャット』だった。私は一遍でこの曲が好きになった。一度聴いたら忘れられない美しい旋律。抒情的に表現している由紀さおりのスキャット。最初外国のイージーリスニングかと思ったら、いずみたくの作曲だというので驚いた。私はこの曲はもしかするとヒットするのではない。その予想は数か月後、見事に当たった。

 この曲を聴いていると、私を夢想にいざない、旅への憧れをかき立ててくれた。

 

 レイモン・ルフェーブル『パーリー・スペンサーの日々』

 これは『シバの女王』のB面の曲である。『シバの女王』はラジオでよく流れ、私も好きだった。ある日、級友のK君の家に遊びに行ったら、彼がこのレコードを持っていた。『シバの女王』を聴き飽きたところでB面を聴くことになった。もともと原曲は英国のシンガーソングライターによるものであり、その原曲をいいとは思っていなかった。ところがルフェーブルのアレンジが私を魅了した。ダイナミックなストリングスと12弦の生ギターとビートの効いたリズムを用いることで、原曲を越える素晴らしい作品に仕上げていた。

 K君のお母さんがインスタント・コーヒーをいれてくれた。ネスカフェのコーヒーで、粉末クリームと砂糖がたっぷりはいっていた。まだ本物のコーヒーは家庭に普及していなかった時代なので、このようなコーヒーでもとても美味しかった。私たちは飲みながら、この曲を何度も聞いた。

 以降、私はこの曲を聴く度に、粉末クリームと砂糖がたっぷり入ったネスカフェのインスタント・コーヒーの味を思い出した。

 

 話はラジオに戻る。深夜放送と言えば、文化放送の『セイ!ヤング』が忘れられない。

              (ディスク・ジョッキーの土居まさる。惜しいことに五十代で亡くなった)

 土居まさるやみのもんたや落合恵子の名前をここで知った。みのは土居の後輩(立教大学)を売り物にし、やたらに「土居先輩、土居先輩」を連呼していた。

 

 また、この頃の思い出をもう一つ。私は高1の時『平凡パンチ』を始めて読んだ。友達が貸してくれたのである。高3の頃からこの雑誌を時々買うようになった。

                        (大橋の表紙絵)

 性に目覚めていたので収録されている白人(なぜかほとんど白人だった)のヌード写真が見たかったのである。この週刊誌なら買いやすい事情もあった。ヌード写真ばかりでなくイラストや記事(映画・音楽・ファッション・食文化など)や連載小説(五木寛之の『青年は荒野をめざす』など)が充実していたからだ。最先端の若者文化をリードしていたのがこの週刊誌だった。

 近所の本屋から買うと、おばさんから母親(親友の間柄だった)に告げ口されるので駅の売店で購入した。素早く学生服の下に隠した動作は今思うと微笑ましい。

 当時の表紙絵は大橋歩が担当していた。彼女には独特な味がある。数年後担当を降りたら、雑誌自体が安っぽくなった

 

 こうして1年が過ぎたが、勉強に励まなかった私は当然志望校に落ちた。1年だけ浪人して志望校合格を目指すことにしたが、自分の部屋がない家では浪人生活をしたくない。東京の予備校に通いたかったが、父はお金を出さないと言う。仕方がないので私は東京で牛乳配達をしながら予備校に通うことを選択した。

 

                                                ――― 終 り -----