1967年(昭和42年)の春、無事志望の高校に合格した私は念願のバンド結成を友人たちと実現した。しかしギターをやりたかった私はドラムに回ることになり、ギターは発言権の強い悪友のYが担当した。この辺りの内容は前回の記事に綴った。

 どうしてもギターが弾きたかった私は個人で購入することにした。ただし、衣料店を街中で営んでいる我が家にエレキギターを持ち込むことは出来ない。商売に差し支えるからである。したがって私はアコースティック・ギター(フォーク・ギター)を購入することにした。

 (物干し台への出口に置かれたギター。ここでよく練習をした。左の白い布は干された蒲団の敷布)

 

 アコースティック・ギターを購入した背景にはフォーク・ブームがある。アメリカで起きたモダン・フォークやそこから派生したフォーク・ロックが日本でも流行し、ブラザース・フォア、ジョーン・バエズ、ピーター・ポール&マリー(略してPPM)、ボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクルなどが人気を博した。彼らを真似して歌う若者が増えて来た。エレキと違いギター一本で表現出来る。お金がかからない。音もうるさくない。練習場所を見つける必要がない。そのような点も日本の若者を引き付けた理由だと思う。

 私もその一人である。だからガット・ギター(クラシック・ギター)ではなく、アコースティック・ギターを買ったのだ。

 ギターを弾きながら歌うのにはギター・コードを習得しなければいけない。私が住んでる田舎町にはギター教室などない。教則本で覚える以外になかった。

 購入したギター教則本には、弦の張り方、調子笛による音の整え方、各種ギターコード、基本コードで歌えるフォークソングが載っていた。

 ギターコードについて言えば、比較的押さえるの簡単なAmやEmやE7から始まった。しかし弦がスチール線なので、たちまち指は赤くなり、腫れ出した。

                    (イメージ写真)

 

 それでも毎日少しずつ取り組み、数か月かかって上記のコードを覚え、次にCやDやGなどを覚えた。しかしこれだけではわずかな曲しか弾けない。多くの曲を弾きこなせるようにするためには、Fが出来なければいけない。これは人差し指で全部の弦を押さえながらその他の指でも使うためにとても難しい。ギター・コードを学んだことがある人はご存じのように最初の難関である。私も涙が出るくらいに苦労した。半年掛かったと思う。

 右手の使い方は親指でのストロークである。なんとか形になるとピックを用いるようになった。

 そうするとギターを奏でながら歌うのが楽しくなった。

 私が買った教則本には、アメリカのフォークでは『漕げよマイケル』や『花はどこへ行った』、日本のでは、『バラが咲いた』や『若者たち』が載っていた。いずれも基本コードで歌える曲である。

 『バラが咲いた』は中3の時に好きになり、レコードを持っていた。

 

 本当は浜口庫之助が作ったフォーク風の和製ポップスだが、健全な歌詞と親しみやすいメロディ、ギター一本の演奏は私を魅了した。

 

 高校入学後私が一番聞いたフォーク歌手はPPMだった。当時の私の耳に一番合った。そこで彼らの代表曲が網羅されているアルバム『The Best Of Peter,Paul & Mary』 を買った。

 

 収録曲の中で好きな曲を挙げてみよう。

 『500マイルもはなれて』(この邦題は長過ぎ。他の歌手の題はただの『500マイル』である)『パフ』『風に吹かれて』『私の試練』『我が祖国』『レモントゥリー』『ハンマーを持ったら』『花はどこへ行った』『くよくよするなよ』『悲惨な戦争』『アーリー・モーニング・レイン(朝の雨)』である。

 フォークがよいのはメッセージ性が強い点である。戦争への怒り、人種差別に対する憤り、人権無視に対する抗議。プロテストソングと呼ばれる曲だ。もちろん素朴なラブソングも素敵だ。人生の悲哀を描いた歌も心にしみた。

 『500マイル』や『悲惨な戦争』などのスローナンバーを聞いていると、右手の四本指で弾くアルペジオ奏法が用いられていることに気づいた。一音一音丁寧に奏でられているので曲の持つしみじみとした情感が伝わって来る。ところが、自分はストロークしか出来ない。これでは歌っていてもつまらないと思え、この奏法をマスターしようと決意した。

 学校から帰って来ると、毎日少しずつ練習した。アルペジオを完全に習得出来たのは高2になった頃だと思う。

 『500マイル』が弾けた時には本当にうれしかった。

 

 ♪~ If you missed the train I'm on , you will know that I am gone

     You can hear the whistle blow a hundred miles 

     A hundred miles, a hundred miles, a hundred miles, a hundred miles

           You can hear the whistle blow a hundred miles  ~ ♪

 

 したがってフォーク・ギターの練習のことを思い出すとどうしてもこの曲を思い出す。私にとって『500マイル』は練習の象徴を表す曲である。

 もの悲しいメロディ。恋人との別れを嘆く切ない歌詞。歌っていると自ずと遠ざかる汽車が目に浮かぶ。汽笛は主人公の代わりに彼の思いを伝えているのだろう。

 アルぺジオでなければ曲のよさを到底味わえない。

 

 それ以降、ギターを弾いて歌うことが断然面白くなった。高2の時が一番熱中した。

 フォーク・ギターを弾く若者が増えたことで、それに関するギター雑誌が次々と発行された。フォークばかりでなく和洋のポップスの楽譜がコード付きで載っていた。また、雑誌の付録にもギターコード付きの歌詞が載っていた。

                   (イメージ写真)

 

  私はそれを買い、主に簡単なコードで弾ける曲を練習した。

  PPMの上記の曲もよく歌ったが、他のジャンルの曲にも取り組んだ。中でも、『悲しくてやりきれない』(フォーク・クルセーダーズ)、『風』(シューベルツ)『雨を汚したのは誰』(ジョーン・バエズ)が印象に残っている。

  

 私は2階の部屋で歌いながら、店の前を通過する人々を見下ろしていた。すると決まった時刻に自転車で通過する女子高校生に目が留まった。彼女に淡い気持ちを抱いたことを覚えている。

 我が家に来たお客さんから母は「息子さん、歌が好きなんだね」とよく言われた。

 時には物干し台で歌うこともあった。室外なので恥ずかしかったが、頭上に空が広がっているので気持ちよかった。隣接しているおもちゃ屋の物干し台におばさんが突如現れ、私を見て、にたっと笑い、「上達したね」とよく言った。 

 高校時代を振り返ると、文学、音楽、映画、一人旅にふけっていた3年間だった。勉強は英語と世界史以外に興味がなかった。完全な夢見る少年、文弱の徒、地に足がついていない理想主義者であった。

 当時、全国の大学で学園紛争が起こり、高校にまで降りて来た。大都市から地方へ広がっていた。私の高校で、卒業式に卒業生が長髪許可を訴えて大騒ぎになった。新聞に載り、テレビに取り上げられた。栃木県の高校で初めて起きた学園紛争的事件だった。

 その時2年生だった私の学年が次年度、彼らの意志を引き継いだ。その結果、学校は長髪を認め、これまでなかった文化祭を実施した。

 私を含めたグループは文化祭で「ベトナム戦争」の展示やフォーク集会を開くことにした。新宿駅地下広場で行われていたフォーク・ゲリラの集会に影響を受けたのである。ギターをたしなんでいる数名が伴奏を行った。

         

(新宿駅西口地下広場でのフォーク・ゲリラ集会。1969年の夏、私は上京して代々木ゼミナールの夏期講習を受講していた。杉並区にある従兄弟のアパートから通ったのだが、たまたま新宿に行った時、これに遭遇した。若者の多さとすごい熱狂に驚いてしまった)

 

 そこでみんなで岡林信康の『友よ』やボブ・ディランの『風に吹かれて』やピート・シーガ―の『勝利を我らに』を歌った。

           (高3の時、『友よ』が入っているこのアルバムを購入した)

 数十名の高校生が集まっただろうか。我が校ばかりでなく市内の女子高校生も参加してくれた。 

 私にとってこれが人前でギターを披露した唯一の機会になった。

 

                  ――― 終り ―――