今回は『花のサンフランシスコ』(S・マッケンジー)という1967年(昭和42年)に流行った曲を取り上げる。

          

 当時アメリカではフラワー・ムーブメントという若者の行動が目立った。激化するベトナム戦争や一向に解決されない人種差別に業を煮やした若者が都市文明に背を向け、コミューン生活をしながら、愛と平和を訴えたのである。彼らはヒッピーと呼ばれ、サンフランシスコはその中心地だった。

 この曲はその様子を歌ったのでいちやくフラワー・ムーブメントを象徴する曲になった。

 私はこの曲を嫌いではないが、格別大好きだという訳ではない。この曲に、苦くせつない思い出があるので、我が高校生活を振り返ると重要な曲になっている。そのことについて書いてみる。

 

 私は同年の春、栃木県立大田原高校に合格した。志望校だったのでうれしかった。中学時代の悪友であるYも共に合格した。

 

            (私が入学した頃にあった木造校舎は今はない)

 

 私とYは中学校の謝恩会で披露されたエレキバンドに感動し、合格したらバンドを組もうと考えていた。しかし二人共ギターを弾いたことがない。音楽的な素養もない。そこでギターの基本を身に着けている経験者が必要になった。

 白羽の矢が当たったのはTである。彼は謝恩会の時にエレキ演奏を披露したメンバーの一人(リズムギター)だった。小中が一緒の幼馴染である。私たちと一緒の大田原高校に合格した。そのうえ親に買ってもらったエレキギターとアンプを保持している。

              (Tのギターのイメージ写真。ソリッドタイプ)

 Tはバンドに加入することに同意した。3人で話し合い、構成はギター2本、ベース1本、ドラムと決めたが、スタイルはベンチャーズのようなインストゥルメンタルバントではなく、ビートルズやローリングストーンズのようなボーカルバンドにした。この頃になると、ベンチャーズの人気は下火になり、ビートルズに代表されるロックバンドに取って代わられていた。グループサウンズブームも起きていた。

 パートについては、経験者のTがリードギター。Yがリズムギター。私がドラムと決まった。私もリズムギターをやりたかったが、Yを押しのける力がなかったことや、入学祝にもらったお金でフォークギターを購入する予定だったこともあり、ドラム担当を受け入れた。

 ベースの担当者は後で見つけようということになった。

 購入する楽器はギターとベースギターが1本ずつ、ドラムセットが1台。それとアンプが1台とした。Tが持っているアンプはギター2台用の差込口しかなかった。

 楽器の購入については、隣町の大田原市に出来たばかり楽器店から購入することにした。そこが一番安く、しかも月賦にしてくれたからである。ギター、ベース、アンプはそれぞれ約1万。ドラムセットは約3万5千円。総額約6万5千円。高校生にとっては大金である。合格祝いとしてもらったご祝儀だけで支払うのには明らかに足りなかった。

 (全てイメージ写真。実物の楽器は安物なのでこれほどよくない。ギターは空洞があるセミアコ。ベースはソリッド。ドラムはこの写真とほぼ同じ。最低限の基本セット)

 そこで思いついたのが地元の建設会社でアルバイトをすることだった。肉体労働だから賃金が高いだろうと子どもながらに考えたのだ。

 運よく雑用係として雇ってもえた。しかしあまりにも働きぶりが悪いせいか、3日で首になった。

         (イメージ写真。こんな感じで働いた。手作業である)

 

 次に隣の市にある工務店で働いた。ここでも2日でお払い箱になった。

 いずれにおいても、その内容は資材の運搬、がらくたの片付け、穴掘り、掃除などだった。

 私たちは中学を卒業したばかりである。全く役に立たなかったのだろう。今思えば、よく雇ってくれたと思う。法律違反だったかもしれないが、半世紀前の田舎は鷹揚だった。

 アルバイトで得た収入と各自の持ち出し金を合わせて頭金として払った。どのくらいの額だったか忘れてしまったが、残金は月賦で払うことにした。

 

 次に克服しなければいけない問題は練習場所だった。これはTの家しかなかった。彼の家は裕福で広く、私やYと違い、自分の部屋もあった。Tの父親はいい顔をしなかったが、志望校に入学したこともあり、最終的に許可が下りた。ドラムセットも彼の家に置いた。

 練習は、毎週土曜日の午後に行うことになった。私はスティック、Yはギターを持ち帰って練習した。

 その頃、Tのお姉さんが帰省していた。彼女は京都の立命館大学に通っていた。Tの話によれば、お姉さんが応援してくれたので父親は折れたという。彼女はジュースやお菓子を差し入れてくれた。

 

  高校の入学式が終わり、学校が始まったある日、私たちの幼馴染であり、Yの親友でもあるWがメンバーに入れてくれと言って来た。彼にベースをやってほしかったが、ギターの経験がないからと断られた。なんとボーカルをやりたいと言う。私たちはボーカルバンドを目指していたのでWの参加を認め、リードボーカルをやってもらうことにした。こうしてベースなしのバンドが始まった。

 私は「THE LIFE」を提唱したが、却下された。発言権の強いのはYとWで、二人のうちどちらが言い出したのか分からないがバンド名は「THE  BOWS」(ザ・ボウズ)と決まった。私たちの坊主頭(大田原高校は長髪を認めていなかった)にあやかったのだろう。

 

                       (高1の時の写真。坊主頭)

 次に選曲で意見が分かれた。Yや私はローリング・ストーンズの曲をやりたかったが、Wはモンキーズがやりたいと言い出した。大人しいTは我々に一任すると言った。

 そこでストーンズの『黒くぬれ!』とモンキーズの『恋の終列車』を同時進行で覚えることにした。

 ところがいつまでたっても完成しなかった。Yはコードが覚えられない。私も速いテンポにドラミングがついていけない。Wも歌詞を覚えられない。それに音程が不安定だ。頼りになるのはTのギターだけだった。

 それでも練習していくうちに自己満足程度の音になって来た。3か月くらいかかっただろう。WやYはそれで満足している感じだった。ただ、アップテンポの曲の習得は私たちには無理だと思われたので、誰の提案だか忘れたが、当時流行っていた『花のサンフランシスコ』(S・マッケンジー)を取り上げることにした。これならばフォーク・ロック調なので歌いやすい。歌詞は簡単だ。ギターコードも難しくない。Yが下手でもTの技術でカバー出来る。私のドラムもついていける。

 それなりに様になってくると人前で披露したくなった。夏休みに那須町にあるりんどう湖ファミリー牧場でアマチュアエレキバンド大会があるという話をYが仕入れて来た。その話にみんなは飛び乗った。発表する曲は何にするか。アップテンポの『黒くぬれ!』や『恋の終列車』は無理なので、『花のサンフランシスコ』に落ち着いた。バンドの現状から考えると、無難な選択だった。

 ただ、ベースがいなかったので誰かを見つける必要があった。私たちの練習の噂は校内に広まっており、これまでTやWの級友で音楽好きの者がのぞきに来ることがあった。その中に黒磯中出身のKがいた。彼はギターが弾けた(コードを押さえられるという意味である)。彼をベースのメンバーに誘うと、「正式なメンバーにはならないが、大会には出てもいい」と言う。メンバーになれば勉強の妨げになると考えたのかもしれない。しかしにわかベーシストになってもらえた。

  (現在のりんどう湖ファミリー牧場。当時は奥に見える建物や大型のボートはなかった)

 

 ただ、参加する場合、私たちとドラムセットなどのギターが積める交通手段を考えなくてはいけなかった。偶然にも町内にある電器店が大会に協賛者として名を連ねている話を耳にした。しかもワゴン車を所有しているという。掛け合うと、主人が快諾してくれた。

 私たちの練習も熱が入った。夏休みで帰省したTのお姉さんが練習に立ち会ってくれた。

 こうして8月初旬の夜に行われた大会に参加した。

 参加したバンドはそれほど多くなかった。10チームにも満たなかった。栃木県や福島県から参加したチームが多く、ほとんどがベンチャーズの曲を披露した。髪型も七・三が多く、赤抜けない田舎のバンドといった印象だった。だが、人のことは言えない。私たちも坊主頭で服装も地味な私服だった。

   (イメージ写真。楽器やアンプもこれほど整ってなかった)

 

 その中でひときわ目立つバンドが1組あった。「ザ・ワンダーズ」という5人組で私たちと同じ年頃であるが、ビートルズのような長髪で白いミリタリールックの上下服を身に着けている。金色のブレスレットをしている者もいた。人気急上昇のザ・タイガースを真似しているのは明らかだった。彼らのギターやドラムは高価そうだった。聞くところによれば、東京から来た高校生のバンドだという。さすが都会の高校生は違う。差があり過ぎると思った。

  Yが話し掛けても、彼らは乗って来なかった。そればかりか私たちを見下すようなものの言い方をした。いや、彼らは馬鹿にしていたと思う。彼らから見れば、坊主頭で地味な服を着ている私たちは田舎者にしか見えなかったのだろう。

 彼らの出番は私たちの前だった。曲目はザ・カーナビーツの『好きさ好きさ好きさ』である。リードボーカルが1、ギター2、ベース1、ドラム1の編成。ストーンズやタイガースと同じだ。

        (リードボーカルのアイ高野が際立ったてた)

 

 始まってまもなく、彼らの演奏が私たちと段違いであることに気づいた。恰好や楽器ばかりでなかった。演奏が水準に達していた。リードギターとリズムギターがかみあっているし、ドラムのリズムに狂いがない。ベースの音に乱れもない。

 リードボーカルの声はのび、メリハリを効かせている。ジュリーをを真似したような歌い方だ。しかも持っているマイクは、ジュリーがよく使う直方体の形をしたマイクだ。田舎の楽器店には置いていない。

  

            (ワンダーズの演奏スタイルはタイガースを真似していた)

 

 ♪~ お前のすべてを!

 

 ここで空いた手を前に突き出した。カーナビーツのリードボーカルのアイ高野を意識したのだろう。

 

 ♪~ お前が好きだよ。お前が好きなんだ ~♪

 

 彼は身をくねらせながら熱唱した。私たちは目を丸くした。私は彼らにどんどん引き込まれるていく感じがした。体が自然と前のめりになる。時間はあっという間に過ぎ、終わった後茫然としてしまった。みんなも同じで、あっけにとられていた。完全にノックアウトされていた。

 そのため自分たちの番にもかかわらず、ステージに立った時にはすっかり上がってしまった。人前で演奏するのが初めてであることも関係していたのだろう。ステージ前に立っている聴衆の目がこわくなった。

みんなも同様である。リードボーカルのWの音程がおかしくなり、Yはコードを間違えてばかりいた。Kのベース音も合ってない。私のドラムもちぐはぐになった。Tのギターでなんとか保たれたような感じだ。

 

 ♪~ If you're going to San Francisco   be sure to wear flowers in your hair.

           If you're going to San Francisco   you gonna meet some gentle people there. ~♪

 

 Wの発音になまりが混ざる。完全に覚えてないので、最後の頃はインチキ英語で歌う羽目になった。

 終わった時、私は汗でびっしょりになった。みんなの顔を見ると、表情がさえない。ステージを下りると、ワンダーズの連中から軽蔑の視線を浴びた。

 大会では当然入賞しなかった。優勝はやはりワンダーズだった。

 

 帰り支度をしている最中、花火が打ちあがった。赤と青と白の花は牡丹のように大きく広がり、その相似形が湖面に映った。が、あっという間に散っていった。そしてなぜか一発しか上がらなかった。私たちのバンド活動を象徴しているようだった。

              (イメージ写真。実際はこれほど大きくなかった)

 2学期が始まると、WやYが活動意欲を失くしていった。ザ・ワイルドワンズの『夕陽と共に』を次の曲に選んだが、練習をしてこないのでまとまらなかった。自分のパートを各自演じるだけだった。

 半年間の練習を通じて分かったことは、YやWは音楽が心底好きというより、バンドを通して自己表現を図りたいことだった。歌やエレキで自分の内にあるもやもやを爆発させたかったのだ。だから彼らは家で練習に励まなかった。

 さらに、WやYは成績のことが心配になったのだろう。この点ではTも同じだった。私は進路に迷っていたが、3人は大学進学を目指していた。親からの圧力もあったのだろう。

 10月に入ると、YとWが練習中に殴り合いの喧嘩を始めた。何が原因か分からなかったが、ここに至るまで確執が生じていたようだ。またTから彼の家での練習は出来なくなったと告げられた。これで万事休すになった。THE BOWSの活動は約8か月で終了することになった。解散があっけなく決まってしまった。

 私たちの『青春デンデケデケ』はこれで終わった。中途半端なままで終了したが、仕方がないと思った。私にしても本当にドラムが好きという訳ではなかった。また、その頃は集団でバンド活動をするより、一人でギターをつま弾びきながら歌う方が好きになっていた。

 私とYとTは親にねだって月賦の残金を支払った。私がドラムセット、Yがエレキギター、Tがベースギターとアンプをもらうことに決まった。

 私の家にドラムセットを置くスペースがなかったこともあり、売ることにした。運よく級友が買ってくれた。たしか5000円だったと思う。

 

 最後に以下のことにふれよう。このバンドに関わった者の中から全国的に名前が知られる有名人が出たからである。

 一人はWで、後に国会議員になった。

 もう一人はTのお姉さんである。彼女は私たちが高2の時に自死され、その事は私たちに影を落とした。数年後、彼女の日記が本にまとめられ、発売されると、瞬く間に全国の若者に読まれ、ベストセラーになった。タイトル名を『二十歳の原点』という。

 

                          ――― 終り ―――