森鷗外・私の好きな作家12 | じろやんの前向き老後生活

じろやんの前向き老後生活

 自分に影響を与えた文芸・音楽・映画・絵画を紹介したり、お遍路や旅の思い出を語ったり、身辺雑記を綴ったりします。

 鷗外の作品は大学生の時に文庫化されている代表的な小説を読んだ。

 正直言って、『雁』と『舞姫』以外面白くなかった。難しく言えば、芸術的感興がわかなかった。色彩に例えれば、灰色のような色合い。地味で理知的で大人が好みそうな作風。そういう感じがした。したがって、上記の2作品以外の内容を覚えていない。40年も前のことなのですっかり忘れてしまった。ただ印象的だったのはその文体である。引き締まった、冗長でない、簡潔明晰な文体は見事だと思った。

 一方『雁』と『舞姫』には色彩が感じられた。両者の共通はエリート学生と下層階級の女性との恋である。男性側から見れば許されざる恋であり、女性側から見ればかなわぬ恋だろう。『雁』の方の悲恋は悲劇までには至らなかったが、私的体験に基づく『舞姫』の方は残酷な結末になった。

 この2つの作品の中では『雁』に感動した。ロマンと抒情にあふれ、クライマックスのすれ違いの場面には心がかきむしられた。主人公のお玉がせつなく、読後に余韻が引いたのを覚えている。

 『雁』は社会人になってからも一度読んだ。20年くらい前だろうか。今回、本稿を起こすのにあたり再読(3度目)したが、新たな発見があった。

 まず、視点の混乱である。最初、語り手の「僕」の視点で話が進むが、途中から、岡田の視点になったり、お玉になったり、さらにお玉の旦那である末造やその女房のお常の視点も登場する。その他、お玉の父親やお玉の下女の梅までも視点になっている。その結果とても読みにくい。すごい長編なら登場人物が多くなりがちなので複数視点は成功するが、『雁』のような中編では統一性を損なってしまう。

 それに付随するが、途中に織り込まれている末造夫婦の話が長過ぎるのである。1回目、2回目に読んだ時、途中退屈したのはこのせいだった。作品の本流はお玉の岡田に対する慕情である。末造の場面は短くてよい。長くせざるを得なくなったのは視点を末造に置いたからだろう。

 ただ、昔の私は末造夫婦の関係がよく分からなかったが、人生経験を経て来た現在、その機微はよく理解できる。特に女房のお常が面白かった。女房である以上、亭主の妾(お玉のこと)の存在に心中穏やかではなく、時々爆発したのは当然である。現代なら妻から離婚を申し渡されるが、女性が男性の従属物である明治時代はそう出来なかった。小説は時代を映す鏡である。当時の庶民の夫婦関係をよくとらえていると思った。

 第2は、お玉の背景がよく描かれていることである。

 お玉はシングル・ファーザーの父の手で育てられ、成長した時、老いた父を助けるために、妾にならざるを得なかった。2人のやり取りや娘を思う父の気持ちが丹念に描写されている。このことを発見出来たことは今回の収穫である。娘を思う父の気持ちは古今東西変わらない。私にも娘がいるので余計身に染みた。

 第3はお玉のいじらしさである。

 妾になった彼女はまもなく末造に幻滅し、家の前を毎日通る帝大生の岡田に憧れるようになる。やがて彼の存在が彼女の生きがいになるまでふくれあがる。ある日、お玉が飼っていた(末造がお玉に買い与えたのだが)小鳥が青大将に襲われた。通りかかった岡田は青大将を征伐する。ここで初めてお玉は岡田と言葉を交わす。青大将は「運命のいたずら」の役割を果たすことになった。

 しかし、その後、お玉は彼に話しかけたいのだが、うまくいかない。かなわぬ恋に燃え出すお玉のいじらしさが胸に迫る。恋するお玉は女性としての美しさを増し、下女の梅の目には「ほんのりと赤く匂った頬のあたりをまだ微笑(ほほえみ)の影が去らずにいる」と映る。また、作者は、岡田に会いたいお玉の様子を「お玉の顔は活気のある淡紅色に輝いていて、目は空を見ている」と活写する。

 この2つのたんたんとした描写は岡田に対するお玉の慕情をよく象徴している

 一方の岡田もお玉に対して好意を抱いている。その胸中を語り手の僕に披歴している。だが、留学が目の前にぶらさがっている岡田は「恋」という理想より「留学」という現実を選ぶ。

 ここで運命のいたずらの小道具が再び登場する。鯖の味噌煮である。岡田と僕が世話になっている下宿で夕食に鯖の味噌煮が出る。それが嫌いな僕は食べずに岡田を誘って外に出る。行き先は不忍池のためお玉の家を通らなくてはいけない。

 お玉が待ち望んでいた瞬間がやって来た。岡田に恋い焦がれたお玉は外へ出て岡田を待つようになっていた。彼女のいじらしさがここでも読みとれる。

 僕の目に映ったお玉の様子を作者は、「いつも見た時と、どこがどう変わっているか、わからなかったが、とにかくいつもとまるで違った美しさであった。女の顔が照り赫(かがや)いているようなので、僕は一種のまぶしさを感じた」と描いている。

 続けて、「お玉の目はうっとりとしたように、岡田の顔に注がれていた。岡田は慌てたように帽を取って礼をして、無意識に足の運びを速めた」とも記している。

 お玉の願いはまたしても頓挫してしまった。岡田に僕という連れがいたために、岡田に話しかけるきっかけを失ってしまったのだ。ここにもお玉の性格が表れている。気軽に話しかけられる性格ではないのである。岡田もお玉と似ている。社交的明朗さがない。だから話しかけようとしない。

 お玉は好機をまたしても逃がしてしまった。すれ違いで終わってしまった彼女の気持ちを思うと切なくなってくる。

 話はこれで終わりにならない。最後にまた運命のいたずらを招く小道具が出て来る。それは不忍池の雁である。

 岡田と僕はお玉とすれ違った後、石原という友人と不忍池で会う。石原が池にたむろしている雁を指し、「あそこまで石が届くか」と岡田をからかう。岡田が投げてみると、一羽に当たってしまった。その雁を鍋料理にしようということになり、岡田がマントの中に隠して石原の下宿に行くことになった。

 

              (近日撮影:水面全部が蓮の葉に埋め尽くされていた)

 その途中、お玉の家を再度通ることになる。さきほどの好機を逃したお玉は外に立ったままだった。後悔に苛まれていたのだろう。

 しかし、運命は残酷である。3人いるためか、お玉は岡田に話し掛けることがまたしても出来ない。岡田も彼女に話し掛けずに先程と同じように通り過ぎただけである。結局別れの場面になってしまうこの時のお玉を作者は、「女の顔は石のように凝っていた。そして美しくみはった目の底には、無限の残惜しさが含まれていた」という短い言葉で綴っている。

 私はここを読んだ時、やりきれなくなった。お玉が可哀そうになった。鯖の味噌煮や雁という運命のいたずらの小道具が憎らしくなって来た。

 なぜか私の頭に、映画『シェルブールの雨傘』や『ひまわり』の別れのシーンがよみがえった。でも映画の方は愛し合った上での別れだ。ところが『雁』の方はたった1度きりしか言葉を交わしてないのである。お互いの真情を打ち明けぬまま別れてしまう。

 でも、ここに日本の文学の特長が出ているのだろう。すぐに体を接触する西欧人の文学とは違う。日本人の大多数は自分の内面を吐露するのが苦手である。現代はずいぶん変わったが、それでも積極的に愛を告白出来ない者は多数いるだろう。まして過去に遡れが遡るほど、少なくなる。そのうえ身分、家柄、経済的格差、職業など外的条件もからんで来る。恋愛が成就する方が少なく、告白できずにすれ違う、好きな人に告白できぬまま別れる男女が多いのが事実である。その特性を文学は反映しているのである。またそれゆえに本作品が時代を超えて読み継がれたのだろう。

 お玉のようないじらしさは三浦哲郎の名作『忍ぶ川』の志乃にも見出せる。でも志乃は最後に主人公と結ばれたからいい。

 エピローグのような最後の部分で、語り手の僕はその後お玉と知り合いになり、岡田に対する思いを聞いたことがきっかけでこの話を書いたと記されている。お玉は岡田に思いを打ち明けられなかったが、僕には伝えることが出来たという訳である。この一行に私は救われた。そうでなければ、あまりにもお玉が気の毒である。

 岡田には鷗外の心情が投影されていると思う。鷗外は恋愛に憧れたが、恋愛を成就出来なかった。事実ベルリンで相思相愛になった女性エリスが鷗外の帰国後に日本へはるばるやって来ても会わなかった。彼女を追い返したのは鷗外の母である。彼女は当時の家父長制を守るために西欧人との自由恋愛を認めなかった。彼女は鷗外の出世を第一に考え、そのために孟母三遷を実行したくらいである。鷗外は一生母に頭が上がらなかった。

 鷗外はベルリンでの恋を『舞姫』という作品に仕立て上げ、それから10数年後、優柔不断の我が身を『雁』の岡田に重ねたのである。

 

  私は社会人になってから鷗外の選集を買った(岩波書店 新書版 全21巻)。箱入り、表紙布製である。岩波のこのタイプの選集では他に福沢諭吉選集(全14巻)と寺田寅彦選集(全17巻)を、全集では福沢諭吉(全35巻)を持っている。これらは私の宝である。

                      (各巻に写真が付いている)

 鷗外選集を概観すると、小説の少なさが分かる。

 それに比べ意外に史伝や翻訳が多い。『渋江抽斎』を始めとする史伝は長編であるため分量が厚い。

 翻訳の量はさらに多い。21巻中7巻を占める。

 こうみると鷗外には小説家の側面より文学者の側面が強く見られる。エゴイズムの探求を多くの長編小説で追究した漱石と全く違う。鷗外は文学者の呼称の方が似合っている。

 小説はほとんどが短編である。『青年』や『ウィタ・セクスアリス』などの小説は中編である。本質的に短編作家なのだろう。が、あえて言えば、二足の草鞋を履いていたことも関係していると思われる。勤務している以上、構想を深め、想像の翼を広げ、主題を明確にし、登場人物や場面の展開が多い、作品の統一性がしっか保たれていなくてはいけない長編小説を書くのは無理だったのだろう。同じ長編でも資料や事実に基づいて執筆する史伝の方が書きやすかったのだろう。医者であるからこういう作業は得意なはずだ。

 これらの小説の中で後年幾つかを再読したが、印象に残ったのが『カズイスチカ』である。40年前に読んだ時は退屈だったが、7年前に再読した時は考えさせられた。

 カズイスチカという言葉は鷗外の造語で、臨床例という意味らしい。Casusというラテン語(実例という意味)をもじって作った。

 留学する予定の医学博士の主人公が郊外で村医者をしている父の許を訪れる。父は患者を、軽かろうが重かろうが、「全幅の精神を以って」診療している。すなわち臨床を大切にしている。趣味に興じたり茶を飲む時も同様である。その生き方から主人公は「自分が遠い向こうに或物を望んで、目前のことをいい加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注していることに気が附いた」と学ぶ。

 主人公はエリートであるが、父はそうでない。が、父から学ぼうとしている。ということは、医者の原点はヒポクラテスの精神にあることを鷗外は匂わせているのだろう。

 

 今回、彼の歴史小説の代表作を読んだ。下記の文庫本が薄いので読んでみようという気になった。

 この中には、『興津弥五右衛門の遺書』、『阿部一族』、『佐橋甚五郎』の3作品が収められている。『興津弥五右衛門の遺書』は乃木大将の殉死に啓発されて書かれた。候文の文語体で書かれているが、読解力がついたので何とか読み終えた。40年前は非常に短いにもかかわらず、苦労し、何度も眠気を催したことを覚えている。その理由は候文の文体で書かれているということもあるが、主たる理由は描写がほとんどなく事実の列挙が多いということにある。だが、資料をこのような形に再構築させた鷗外の創造力は見事である。漢語の特性を生かし、無駄がなく、簡潔な文体なので武家の非情が浮かび上がって来る。

 乃木大将が明治の終わりに殉死したことは文化的ショックを知識人に与えた。というのは殉死は封建時代の遺物だからである。文明開化が進んだ明治の末に封建時代の遺物が登場するとは誰も予想していなかったのだろう。

 鷗外は『阿部一族』でも殉死を主題にしたくらいだから、殉死に何らかしかの価値を見い出したのかもしれないが、礼賛はしていない。冷徹に観察し、そこに現れた人間ドラマに興味を抱いたのではないか。顕微鏡を覗く医学者の一面が窺われる。

 『阿部一族』は『興津』より長く、小説の形になっている。所々に織り込まれた情景描写は効果的だ。この物語は、殉死を認められなかった家父長の名誉を守るために子息たちが決起する話で、結果的に一族郎党は全員死亡という悲惨極まりのない結末である。殺される側と殺す側の心理と行動を抑制の効いた口語体で描き、名誉を実生活より上に置くという武士道の世界を浮き彫りにしている。

 『佐橋甚五郎』もかなり短い物語。ある武士の奇妙な運命を口語体の文体で描いているのだが、構成に工夫がこらされ、短編としての完成度が高い。私は芥川龍之介の短編を思い出した。『阿部』や『佐橋』の口語文、特に地の文は後世の作家がお手本とするような見事な文章である。

 

 翻訳や詩歌はほとんどが文語体である。古今東西の言語に精通していなければ出来ない作業である。鷗外の学識と教養の深さには驚かされる。名訳の呼び声が高く、中でも『即興詩人』の訳は特に有名であるが、この選集には収録されていない。どうしてだろう。購入した際、がっかりしたことを覚えている。

 私は『即興詩人』のダイジェスト版(少年少女向き)を小学校六年の時に読み、感動した。主人公アントニオと歌姫アヌンチアタの悲恋の物語にすっかりはまってしまった。

 だから大学生の時に鷗外訳の『即興詩人』を読もうと思って図書館から借りたが、文語体についていけず投げ出してしまった。

 

 投げ出したと言えば、史伝にも当てはまる。学生の時、『渋江抽斎』に取り組んだが、途中で投げ出した。

 選集を購入した際、読もうと思ったが、止めてしまった。それ以来、その他の史伝も含め手付かずのままである。

 

 2年前、文京区にある森鷗外記念館を訪問した。この地にかつて鷗外の住宅「観潮楼」があった。

  ここに鷗外の遺言状が展示されている(写真撮影不可)。彼は死去に際し遺言状を残し、自分は「石見人 森林太郎」で死にたい、だから墓石には「森林太郎」以外の文字を彫らないでほしいと記した。これは何を意味するのか。戦前のような官尊民卑の天皇制時代に生きたエリートは墓石に勲何等とか爵位を刻むのが普通だった。鷗外は軍医総監という軍医のトップに就いたエリート官僚である。

 それに比し、小説家は正反対の位置に立つ。芸術は内面の自由がなければ築けぬ世界である。

 鷗外はこの矛盾を抱えて死ぬ少し前まで二足の草鞋を履き通した。医学という理系の分野と文学という文系の分野に足を片方ずつ置き続けた。まさに知の巨人だった。

 私が思うに、死に際し、彼は官位や勲章などの肩書を捨てたかったのは間違いない。その背景には芸術家であったことが関係する。内面の自由を大切にする芸術家は一般的に勲章や官位を欲しない(中には例外もいるが)。自分の作品を味わってくれる人こそが彼の「勲章」だからである。鷗外は死を前にして内面の自由を大切にする芸術家の方に傾いたのではないだろうか。ただ、それならば「森鷗外」という雅号を刻めばよいのではないかと考えられるが、天皇制時代に官僚として生きた彼はそこまで出来なかった。「森林太郎」が精一杯だったのだろう。これはこれで潔い死に方である。

 

                                    ――― 終 り ―――