大岡昇平を読むようになったのは小林秀雄に熱中したためである。高校生の時に大岡の『野火』が現代国語のテストに載ったこともあり、彼の名前は知っていたが、『野火』を始めとした一連の代表作を読む気がしなかった。高校生にとっては難しそうな大人の内容に思えたからである。

 大学生になって小林秀雄を読むうち、中原中也を知った。次に大岡が現れたのである。

 最初に『野火』を読んで感動した。それは充実した読書体験がもたらす感動だった。

 (新潮日本文学シリーズで10人ほどの作家の本を買ったが、今では大岡昇平を含めて2冊しか手元にない)

 続けて長編では、『俘虜記』、『武蔵野夫人』、『花影』を読んだ。これですっかり大岡のファンになった。その後、彼のライフワークである『レイテ戦記』に取り掛かったが、途中で投げ出した。

 その他、短編、随筆、評論、紀行文なども読んだ。小林秀雄とその仲間たちに興味があったので、彼らに対する大岡の評論や随筆は楽しく読めた。これらは全て購入した全集(中央公論社版)に収録されている。全集は社会人になった時に購入したが、全冊はそろっていない。そこから抱いた私なりの大岡昇平像を語りたいと思う。

 

 大岡は小林秀雄からフランス語を私的に学んだ。その縁で大岡は文学青年になり、小林を始め、彼の仲間である中原中也、河上徹太郎、青山二郎たちと付き合うようになった。小林の一番弟子のような存在だった。

 ただ、大岡は自分をどう表現していいのか分からなかったのだろう。スタンダールの研究を行ったが、それで名をはせることは出来なかった。文芸評論を試みたが、うまくいかなかったし、小説も書けなかった。文学で生計を立てられないので、会社に勤めざるを得なかった。しかしこの潜伏期間は無駄ではなかった。彼は文体に磨きをかけていた。

 大岡が作品を発表出来るようになったのは戦争体験による。この体験で彼は化けた。それも大きく変身し、見事に戦後の文壇に躍り出た。40歳になろうとしていた。大器晩成型といえよう。

 大岡は1909年(明治42年)生まれだが、この年生まれの作家には、松本清張、中島敦、埴谷雄高などがいる。とりわけ松本清張は遅咲きという点で大岡と同じである。

 

 この記事を書くにあたり40年ぶりに『野火』を読んでみた。大学生の時に受けた感動とは異なる質の感動を覚えた。

 大岡はフィリピンの密林をさまよう病兵の主人公を端正な文体で描写する。厳選された言葉で綴られ、引き締まった感じのする文体なので、緑の密林や立ち昇る野火が目に見え、兵隊の死臭が漂ってくるようである。知性と教養に基づいて構築した作品なので、カニバリズム(人肉嗜好)の極限状況に置かれた人間を描いてもグロテスクな低級趣味に陥らない。

 必然的にこの物語は、戦争とは何か、人間とは何か、倫理とは何かという大きな主題をはらんでいる。終末で田村という主人公が右手で人肉を切ろうとする時、左手が右手を押さえる。この力は何か。田村はインテリ(若い頃キリスト教に興味を抱いた)なので、そこにキリスト教の神を見る。その一方で彼は原住民の女性や同僚兵士の永松を射殺する。この矛盾に悩んだのか田村はやがて精神に異常をきたし、最後に神の裁きを望み、「神に栄あれ」と祈る。

 ただ、周知の通りキリスト教は日本の精神風土になってない。だから、「神に栄えあれ」と言われても読者の心に響かない。それにここに至るまでの田村の宗教的格闘も描かれていない。したがって、最終部の数章(神を扱っているので重要である)は、きびしい言い方をするが、知的遊戯に化した感じがする。キリスト教徒ではないが、スタンダール研究者である大岡が神を取り上げた気持ちは理解できなくもないが、持て余すようになったのではないかというのが私の感想である。

 にもかかわらず、この作品は名作であることに変わりはない。主題、文章、展開(ストーリー)が三位一体になっているからである。平和な時代だからこそ読まれなくてはいけない文化遺産である。

 

 『俘虜記』も今回再読した。これは小説というより記録文学といった方がよいだろう。俘虜の世界を克明に描写し、知性で分析しているのが特長である。見事な文明批評にまで仕上がったのは、観念論を振り回してないからである。その背景に西洋文学や小林秀雄達の影響が読み取れるだろう。ただ、目の前の米兵を銃撃しなかた心理分析の執拗さや随所で見られる自己分析の多さには閉口した。また、説明がくどい箇所が幾つかあった。

 『武蔵野夫人』にはさほど感動しなかったが、スタンダールの影響が読み取れたのには好感を持てた。私自身がスタンダールが好きだったからである。それまで『赤と黒』、『パルムの僧院』。『恋愛論』を読んでいた。主人公の道子が死ぬ最後の場面は、『赤と黒』のレーナル夫人の死を思い起こさせた。

 『花影』は珠玉のような芸術作品である。私は大岡の作品の中ではこれが一番好きである。

 

 主人公の葉子のモデルは坂本睦子といわれている。彼女は昭和前半の文壇史に欠かすことの出来ない女性である。薄幸な生まれだが、美貌に恵まれた彼女は昭和の初め、文壇バーに勤める。そこで直木五十三に犯される。その後、菊池寛に庇護されたり、坂口安吾の愛人になったり、小林秀雄から求婚されたり、河上徹太郎と付き合ったり、文壇の名士たちと浮名を流した。戦後になって今度は大岡が彼女に入れ込むようになる。これだけ文士に好かれるのだから、彼女には人知れぬ魅力があったことは間違いない。魔性があるのかもしれない。『花影』の主人公のように色白だったらしい。

 だが、大岡夫人はこのことがきっかけで自殺未遂を起こした。それが機縁で大岡は坂本と別れた。しかしその後、彼女は自殺した。

 大岡が『花影』を執筆した裏には、坂本に対する冥福と鎮魂があるらしい。彼は自分の年譜に坂本との関係を記していない。夫人の自殺未遂も載せていない。小林や河上も随筆などで彼女との交情に触れていない。

 坂本と交情せず、距離を置いて接していたのが青山二郎である。『花影』に主人公の葉子を温かく見守る高島という老人が出て来る。これは青山をモデルにしたと言われている。

 そして彼女を理解したのが白洲正子である。白洲は戦後に坂本と親友になった。白洲は元華族出身のお嬢様だが、懐が深い女性だった。人を肩書で見なかった。白洲は彼女に女の無垢のような純粋な一面を見たのだろう。そのような眼力を養ってくれたのが骨董の師でもある青山二郎だった。白洲は坂本の死後、『文藝春秋』に坂本の追悼文を載せている。

 白洲は『花影』を読み、この内容に不快を感じた。坂本をきちんと描いていないと批判した。葉子の愛人として松崎という人物が描かれているいるが、この松崎は大岡の分身と言える存在なので、余計に腹が立ったのだろう。要するに坂本に対する大岡の態度が許せなかったのだ。白洲の大岡に対する手厳しい批判は彼女の著書『今なぜ青山二郎なのか』の中にうかがえる。反対に坂本に対する白洲の愛情、青山に対する尊敬は数ページにわたって綴られている。

 『花影』に、

  「花の下に立って見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆い花弁である。

  日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって、揺れていた」

  という一節がある。この美しい叙景に松崎は葉子という人なりを見たらしいが、それはとりもなおさず坂本に対する大岡の見方を暗示している。

 私は散歩が日課だが、桜の季節に遊歩道を歩くことは春の楽しみでもある。道におおいかぶさっている桜の老樹を仰ぎ見る度にこの一節を口ずさむ。

 

 小説家としてみると、彼は、漱石、谷崎、芥川、三島、阿部、大江などのように想像力を駆使して多産するタイプではない。どちらかと言えば、漱石より鴎外に近い。その証拠に、年を経るにしたがい、地誌や地図などの資料を活用した戦記物(『レイテ戦記』など)や史伝に近い歴史小説(『天誅組』など)に力を注ぐようになった。

 また、彼には私小説作家としての一面もある。『妻』、『姉』、『父』、『母』など家族のことを描いている。これらは素直に描かれているので私には面白かった。中でも『妻』が気に入り、何度も読み返した。大岡が大成した陰には夫人の存在があろう。

  さらに出征を描いた『出征』や『海上にて』があり、復員してからの生活を描いた『わが復員』、『帰郷』、『再会』などもある。結局、『俘虜記』の前後にまで及んでいる。『俘虜記』以外にも『襲撃』、『暗号手』など軍隊生活の様子を綴った短編がある。これらの主人公は作者である。

 彼の私小説的側面、資料活用側面、批評家的側面とが合体して出来上がったのが、『幼年』、『少年』という長編の自伝である。これは感性で書かれた思い出ではなく、知性による自己分析である。

 『萌野』というニューヨーク滞在記や『ザルツブルクの小枝』などの紀行文においてもその傾向は顕著である。

 とにかく大岡は自分や周囲を知的に分析したり、掘り下げたりするのが好きなのだ。西洋的な教養を身に着けているが、表現においては日本的な作家といえる。

 紀行文といえば、紀行文的な短編があるので紹介しておく。『逆杉(さかさすぎ)』である。この作品は私の故郷から近い塩原温泉を舞台にしている。故郷が舞台になっている小説は数少ないのでこの作品を発見した時、私は驚いた。

 明治時代、尾崎紅葉が塩原に滞在し、『金色夜叉』の最終場面(未完)で塩原を舞台にした。彼の渓谷描写が素晴らしかったために塩原の名が高まったという歴史がある。

 この短編の主人公(語り手)は尾崎の足跡を求めて塩原を訪れ、逆杉という名木の所で男女のカップルを見かける。主人公は彼らに貫一とお宮を投影するという話である。

   

 彼の批評家的側面はさらに発展して、文芸評論家としても活躍するようになった。二刀流使いである。私が購入した全集15巻のうち4巻は評論である。文献を詳しくあさる実証主義的な資質なので批評家にそもそも向いているといえる。

 

 大岡は多くの論争を行った。

 中でも私の注目を引いたのは江藤淳の『漱石とアーサー王傳説』に対する批判である。これは1975年に開始された。全集が発売された後なので全集には収録されていない。私は江藤淳の著作をかなり読んでいたので、必然的に両者の論争に興味を抱いた。

 発端は江藤がその著書『漱石とその時代 Ⅰ部』で、漱石が若かりし頃兄嫁登世と肉体関係を持ったという仮説を提示し、初期の作品『薤路行』を登勢への挽歌だと断定したことによる。この大胆な説に対して研究者から当然反駁があり、大岡もその一人なのだが、著名な先輩作家による批判なので当時話題になった。

 江藤は自説を証明するために『漱石とアーサー王傳説』を書き、これを学位論文として慶応大学に提出し、その後出版された。このことも大岡が反発する背景にある。文筆を生業としている文芸評論家は普通自分の作品を学位論文にしない。自分は文士だと言いながら、権威に憧れる江藤の姿勢に文士大岡が拒否反応を示したのだろう。

 大岡の一連の批判(『江藤淳「漱石とアーサー王傳説」批判』など)の論功は下記の文庫本に収録されている。

 これを読むと、大岡の批判は筋道立っている。また、実に様々な分野の関連書物を読んでいる。60代半ばにさしかかり、これだけの本を渉猟し、説得力のある自説を構築した大岡の力量に私は瞠目せざるをえなかった。

 どちらかといえば、私は大岡の説に賛成する。登世に対する思慕は漱石の日記や作品からある程度予想出来るが、登世と肉体関係を持ったという事実を証明する具体的一次資料が見つかっていない以上、江藤の仮説は所詮想像に過ぎない。それゆえ『漱石とアーサー王傳説』で示した『薤路行』解釈はどうしても無理が生じてしまう。

 若い頃から漱石に親しんでいた大岡は江藤との論争をきっかけに、漱石論をたくさん書いた。それらも上記の本に収められている。私も漱石を読んでいるので、大岡流漱石論も江藤流漱石論同様勉強になった。

 

 私が見る大岡昇平のもう一つの一面は、小林秀雄のグループの証言者だということである。特に中原中也に関する論考は大岡ならではの業績である。大岡の中原に対する友情は篤く、評伝、作品論、随筆など多岐にわたって論じている。ついでに言えば、小林と中原の友人であった富永太郎について書いてもいる。

 中原が戦後人気が出るようになったのは大岡による所が大である。中原の人気は私が高校・大学時代(1960年代から70年代)にも続いていた。数多くの関連書物が出版され、テレビでも取り上げられた。

 私も一通り目にしたが、彼の詩で一つ取り上げるとすれば、『帰郷』である。

  「(中略) これが私の故里だ さやかに風も吹いている  (中略) ああ お前はなにをして来たのだと 吹き来る風が私に云う]

  この一節は、東京に夢を抱いて上京したが、思うように行かない地方人なら、胸に迫るのではないだろうか。私もその一人である。

 

 小林グループの重鎮だった永井龍男や後から参加した中村光夫との交流も生まれた。彼らの著作も幾つか読んだので紹介する。

 永井龍男の『一個』や『蜜柑』は短編の見本のような名作である。年を重ねるとその味はますます分かるようになる。

 

 中村光夫の下記の作品は回想録である。中村から見た小林の姿がよく描かれている。

 

 大岡は70年代以降、小林秀雄と距離を置き始めた。本居宣長に打ち込んだ小林の右傾化に堪えられなかったのだろう。また小林が哲学者の田中美知太郎と共に福田恒存など保守系文化人を支援したこともあるだろう。大岡は福田と友人だったが、彼とも袂を分かった。そして戦後文学派の埴谷雄高と親しくなり、大江健三郎の庇護者になった。

 小林グループの中で銃を持って一兵卒として敵兵に対峙したのは大岡一人だけである。小林、河上、同世代の福田や中村も前線に立ってない。この差は決定的である。戦争の悲惨さと愚かさを嘗め尽くした大岡が老人になるにつれて反戦の立場を鮮明にしたのは分かるような気がする。

 80年代に入り70歳代を迎えた大岡は日記文学の『成城だより』シリーズを刊行した。これを読むと、単なる身辺雑記に終わらず、あらゆることに知的好奇心を持っていることが分かる。専門的な教養書を読むばかりでなく、YMOのようなポップ・カルチャーにさえ関心を示す。70歳代後半になってもその柔軟な資性は衰えない。さすが大岡である。また、政治に関しては「怒りの大岡」の面目躍如たる発言が数多くみられる。戦争を経験した大岡は平和を脅かす存在に敏感だった。私はここに文学者としての良心を見た。

 自らの文学生活を振り返った『わが文学生活』も面白い。

 彼は本書の終わりで、最後まで文学に忠誠を尽くすと言い、その通りの行動を貫いた。芸術院会員を断り、国からの論功恩賞に関心を示さなかった。知人の白洲次郎にあやかり、「葬式無用、戒名不用」で死を迎えた。

 

                               ――― 終り ―――